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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6734471.html
誰も書かなかった東條由布子さん
1
2月13日、東條由布子さんが他界した。東條英機元首相の孫として知られた東條由布子さんは、この数年、健康を害して居たが、その日、ついに還らぬ人と成った。73歳であった。その死のほんの少し前、私は、なぜか、東條さんの声を聞きたくなった。私は、本当に久しぶりに、東條さんの携帯電話に電話をかけた。すると、すぐに電話に出た東條さんは、電話の向こうで、「私、退院したばっかりですの」と言った。そして、間質性肺炎で病院に入院して居た事などを私に話してくれた。私は、「お大事に」と言ひ、「暖かく成ったら、またお会ひしましょう。」と言って、その電話を切った。それが、私と東條さんの最後の会話であった。それから間も無く、東條さんの死を知った時、その電話での東條さんの声が元気そうだったので、私は驚き、その知らせを直ちには信じる事が出来無かった。その早すぎる死の知らせに打ちのめされると共に、私は、あの時、自分は、なぜか東條さんに電話をかけたくなったのだろう?と思った。あの時、自分は、本当に久しぶりに、東條さんの携帯に電話をかけたのである。そして、その時、本当に偶然に、ほんの一時的に退院して家に戻った東條さんが携帯に出て、私は、東條さんと話が出来たのである。「虫の知らせ」とは、この事だろうか?と思はずには居られなかった。私と同様、東條さんと親交の有ったH編集長に電話をかけて、東條さんが亡くなる前後の状況を聞いた私は、それから数日後のお通夜と葬儀に、当然、参列する積もりであった。だが、その全く同じ時期に、母が健康状態を崩し、東條さんを追ふ様に、この世を去った。(母と東條さんは面識は無い)その母の急病と他界の為、東條さんの葬儀に参列できなくなった私は、ますます、あの日の電話は、虫の知らせだったのではないか?と言ふ思ひを深めて居る。東條さんは、まだまだ語りたい事が有ったに違い無い。それにも関らず、病魔によって、早すぎる死に至らしめられた東條さんは、どれだけ無念であった事だろうか。その東條さんの無念をはらす思ひから、私は、私が知る東條由布子さんの人柄と言葉をここに書きたいと思ふのである。
2
私が、東條由布子さんに初めてお目に掛かったのは、14年前(1999年)の事である。場所は、新宿のトークライブハウス「ロフトプラスワン」であった。同店で金美齢さんの講演が行なはれた時であったと記憶する。その時、会場に居た知人から、「東條由布子さんが来ておられます」と教えられ、その知人の紹介で挨拶をしたのが最初であった。その時、何を話したかは覚えて居ない。挨拶程度の言葉を交はしただけであったと記憶する。静かな、品のいい女性だと思った事を覚えて居る。その時は、ほんの短い時間、そうして言葉を交しただけであったが、東條さんから連絡先を頂いた私は、東條さんと都内の喫茶店でお会ひする事と成った。
その様な経緯を経て、初めて喫茶店で会った時、東條さんが、開口一番言った言葉を私は忘れることが出来無い。東條さんは、私の前に座るなり、こう言ったのである。
「私(わたくし)、保守論壇と言ふ物にうんざりさせられておりますの。」
私は、驚いた。誰もが知る通り、東條由布子さんは、故東條英機首相の孫である。そして、戦後永い間、東條家の人々が守り続けた沈黙を破り、祖父東條英機について、東京裁判について、そして、靖国神社について、発言をする様に成った人であった。東條さんは、愛国者であり、この国の言論人の範疇としては、「保守」と呼ばれる人々の側に属して居た事は、誰もが知る通りである。その東條さんが、初めて二人だけで会ったその時、開口一番口にした言葉が、「保守論壇と言ふ物にうんざりさせられておりますの」と言ふ言葉だったからである。
その言葉に続いて、東條さんが私に語った事は、靖国神社における「A級戦犯」分祀についての話であった。良く知られて居る様に、東條さんは、祖父である東條英機氏を含む言はゆる「A級戦犯」を靖国神社から分祀させようとする動きに批判的であったが、そこで東條さんが口にした言葉は、当時の私にとっては、かなり意外な言葉が多かった。東條さんは、まず、遺族は分祀されてもいいのだ、と言って、私を戸惑はせた。私の記憶では、「東條家は、それでもいいんです」と言ったと思ふ。そして、その後、東條さんは、こう言ったのである。「でも、それじゃ、中国の言ひなりじゃありませんか。中国の言ひなりに成っていいのか、と私は言ひたいんです」。10年以上前の会話を記憶で再現して居るので、一語一句このままであったかどうかは自信が無い。だが、東條さんは、そう言ふ意味の事を私に言ったのである。そして、東條さんは、そうした思ひを自分は発言したいと思ってきたが、自分(東條由布子さん)の言葉が正しく伝えられて居ない、と言ふ意味の事を言った。東條さんは、東條さんがそうした靖国神社と戦犯合祀問題について書こうとした時、保守論談の何人かの人々が、その内容に干渉し、東條さんが思って居ることを書かせまいとした、と語って、私に憤懣をぶつけたのである。
私は、意外な気持ちにとらわれた。それまで、私は、「保守」の人々と言ふ物は、良くも悪くも、強い団結を誇って居ると思って居たからである。しかし、たとえば、この靖国神社の「A級戦犯」合祀の問題で、その「A級戦犯」の遺族の一人である東條由布子さんと、靖国問題の重鎮とされる論客の間にそんな激しい軋轢が有る事を知ったからである。そして、東條さんとお会ひし、話を聞く度に、私は、東條さんと「保守論談」と呼ばれる人々の間の溝が、非常に深い事を更に知ったのであった。
3
私は、それから、東條さんとしばしば会ふ様に成った。会ふ場所は、東條さんの御自宅に近い下北沢の喫茶店などである事が多かった。携帯電話でお誘いすると、非常に気軽に、会って下さる東條さんの気さくさに、私は東條さんへの親しみを深めて行った。上述の様に、私が東條さんと知り合ったのは1999年で、靖国神社を巡る問題が注目を浴びて居た時期だったので、お会いした時には、靖国神社について話をする事が多かった。正直に言ふが、私は、東條さんに会ふまで、靖国神社を巡る色々な問題について、非常に無関心であった。若い頃は左翼的だった事も有って、私は、靖国神社に対しては無関心であったし、批判的ですらあった。その私が、靖国神社を巡る問題への関心を深め、国は、靖国神社を護持するべきであるし、総理大臣は当然靖国神社を参拝するべきだと言ふ考えを改め、深めたのは、明らかに、東條さんとの出会ひが有ったからであった。もちろん、「靖国問題」ばかりを話した訳ではない。東條さんが取り組んでおられた遺骨収集問題や福祉の問題、病気だった東條さんのお母様の話、子供の頃の事、東條さんがアメリカを訪れた際の体験、マスコミの取材の話、教育の話題、料理の話、等々、二人の間の話題は多岐に及んだ。又、喫茶店でお会ひしてそうした話をするばかりではなく、私の方から、東條さんを食事に誘ったり、サントリー・ホールで開かれる音楽会に誘ったりして、私と東條さんの友情は深まって行った。そんな東條さんとの交友の中で、とても印象に残って居る思ひ出が有る。
小泉内閣の或る年、小泉首相が8月15日に靖国神社に参拝するかしないかがマスコミを賑わせて居た或る年の事である。国内外の反応を含めてマスコミが過熱報道を繰り返して居たその年の初夏の事、マスコミの過熱報道に辟易させられた私は、東條さんに電話を掛けた。そして、東條さんに、或るお願ひをした。それは、東條家のお墓にお参りさせて頂けないか?と言ふお願いであった。身内でも何でもない自分が、そんな厚かましい事をお願ひするのは失礼かとも思ひながら、思ひ切って掛けた電話であった。だが、電話に出た東條さんは、とても喜んでくれた。そして、東條さんが私のお願ひを聞いてくれて少し後の或る日、私は、東條さんに連れられて、東條家のお墓の前に立つ事が出来た。初夏の晴れた日の事であった。高層ビル群が近くに見えるそのお墓の前に、私は、東條さんと二人で立ち、初夏の陽光と木々の影の中で、墓石に水をかけ、手を合はせた。その時、私の心をよぎった物は、本来静寂であるべき靖国神社を巡る政治的喧噪の姦(かしま)しさと、私と東條さんだけが立つその墓の前の静けさの対照であった。共に「A級戦犯」と呼ばれた人の霊が眠る場所でありながら、不幸にして政治的喧噪の場と成ってしまったその夏の靖国神社と、極くわずかの人々だけが訪れるその東條家の墓の周りの静けさは、不思議な対照である様に思はれたのである。東條さんは、私に、礼の言葉を述べた。そうして、私たちが、その東條家の墓を後にしようとした時である。東條さんは、私に、「先生、もう一か所、おいで頂きたい所が御座居ます」と言ったのであった。東條さんは、私を自分の車に乗せると、東條家の墓からほど近い或る場所に私を連れて行った。そこは、池袋のサンシャイン・ビルのすぐ近くに有る七人の「A級戦犯」の慰霊碑の前であった。
そこは、かつて、巣鴨プリズンが有った場所である。そして、1948年12月23日、今上天皇の誕生日に、アメリカが、東條さんの祖父、東條英機氏を含む7人の「A級戦犯」の絞首刑を執行した処刑場の跡である。東條家の墓を訪れ、墓参りをした私を、東條さんは、その処刑場跡の慰霊碑の前に連れて来たのである。そして、そこで、線香に火をつけ、私とともに、その七人の霊の前で、東條さんは、合掌したのだった。私は、この時の事が忘れられない。祖父である東條英機氏の霊が眠る東條家の墓に私を連れて行った後、東條さんは、自分の祖父だけでなく、共に絞首台の露と消えた「A級戦犯」たちの慰霊碑の前に私を連れて来たのである。そして、自分の祖父だけでなく、一緒に処刑された「A級戦犯」の人々の霊にも手を合はせて欲しいと希望したのである。
私は、東條さんのその心に打たれた。私の様な取るに足らない人間でも、祈りに訪れた者を、御自分の祖父だけでなく、他の「A級戦犯」の霊の居る場所に案内し、一緒に手を合はせて欲しいと希望する東條さんのその無私な心に感動したのである。この時、風のいたずらで、線香になかなか火がつかなかった事が、懐かしい思ひ出として脳裏に残って居る。
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東條さんは、明るい人だった。東條さんとお会ひした時の事を思ひ出すと、私の脳裏に浮かぶのは、女学生の様に明るく笑ったり、微笑んで居る東條さんの表情である。決して、いかめしい顔をして難しい話ばかりする人でもなければ、自分の主張を頑なに述べる様な人でもなかった。
或る時、東條さんに、広島の被爆者の戦後を描いたこうの史代さんの「夕凪の街・桜の国」を見せた事が有った。東條さんは、まんがと言ふ物を余り読み馴れて居ないのではないかと思ひながら、この作品を好きな私が東條さんに「夕凪の街・桜の国」を見せたところ、第一話の主人公である若い女性の絵を見て、東條さんは、「まあ」と言って声を上げた。その絵の可憐さに東條さんは心を打たれたのである。その時の東條さんの声と表情を自分は今もとても良く覚えて居る。その絵に心を奪はれた東條さんの心の美しさを感じたものである。
祖父、東條英機氏が東京裁判で裁かれ、処刑されてからの東條家の人々が歩んだ年月については、既に多くの記事や本が書かれて居る。東條さんをはじめとする遺族は、心ない差別にさらされ、孤立を余議無くされる中で戦後を生きてきたが、そうした差別は、私が東條さんに出会った時代に成っても続いて居ると感じた事が有った。
こんな事が有った。或る時、私は、東條さんを音楽会にお誘ひした。東京赤坂のサントリー・ホールで開かれた音楽会の券を差し上げて、私の友人数人と一緒に音楽会を聴いた後、私は、東條さんと私の数人の友人をサントリー・ホールに隣接するレストランでの食事に誘ったのだった。その夜、私が、東條さんの他に、誘ったのは、私の三人の友人である。ところが、その三人のうちの一人が、急用で来れなくなった。その人は、私と東條さんの共通の知人である、或る有名な編集者であった。彼が来れなくなったので、私と東條さんは、音楽会の後、その編集長が来ないまま、予約して居たそのレストランに行った。すると、そこに、離れた席で音楽会を聴いた私の別の友人である二人の女性が、予定通り、予約したそのテーブルに現れた。その二人は、東條さんとは初対面であった。
五人の予定であった音楽会の後の食事が四人に成ったその席で、私は、友人である二人の女性に東條さんを紹介した。二人は、東條さんが、あの東條英機の孫であると聞いて、少し驚いた様だったが、四人で、おしゃべりをしながら、食事を楽しんだ。東條さんも楽しそうで、美味しい料理を楽しみながら、私たちは、音楽会の後のひと時を過ごした。相手が東條さんだったので、東條英機氏についての話も少し出たと記憶するが、二人の女性のうち、一人は、ロシア語の翻訳家で、歴史にも詳しい人であった。この方は、東條さんと話をしながら、東條さんの祖父について、かなり同情的な事を言って居た事を覚えて居る。問題は、もう一人の女性であった。Eさんと呼んでおこう。高名なジャーナリストである。
演奏会後のその食事を終え、私が家に帰った後の事である。その夜の内であったと記憶するが、そのEさんから、私にメールが来て居た。メールを開くと、そこには、彼女の怒りの言葉が書かれてあった。何故、自分を東條英機の孫である女性と同席させたのか?と言ふ内容の、怒りの言葉である。私は驚いた。そして、そのメールを熟読した後で、彼女に返事を出した。彼女からは、またメールが来て、何通かメールをやりとりしたが、要するに、彼女は、東條英機の孫などと同席したくないのに、同席させられたと言って、東條さんを音楽界の後の食事に連れて来た私をなじって居るのだった。私は、急用が出来て来なかったが、Eさんと私の共通の友人であり、そして、東條さんの友人でもある編集者が一緒にその音楽会と食事に来る予定であった事を再度説明した。別にEさんを東條さんに紹介したかったと言ふ訳でもなく、単にその編集者を囲んで楽しく食事をしたいと思っただけなのですが、と言ふ意味の返事をメールで述べた。だが、Eさんの怒りは激しかった。
このEさんと言ふ女性は、リベラルな姿勢で知られるジャーナリストである。リベラルと言ふより、「左翼」と言ふ方が正確かも知れない。誰もが名を知る高名なジャーナリストであるが、第二次世界大戦や靖国神社の問題では、確かに、東條さんと対極の位置に在る人であった。だが、私は、そんな難しい事を考えてその夜の音楽会と食事にEさんと東條さんを含む友人たちを誘った訳では全くない。三人の共通の知人である編集者を囲んで、サントリー・ホールでクラシック音楽を聴き、美味しい物を食べようと思っただけである。別に討論会をしようとした訳ではない。そして、ドタキャンが多いその編集者が、急に来なくなったので、Eさんと東條さんをそう言ふ形で紹介する結果に成っただけの事である。そして、実際、その食事の席では、難しい政治の話や東條さんの祖父を巡って議論をした訳でもなく、楽しく食事をしたに過ぎなかったのである。実際、食事の席では、Eさん自身、東條さんを前にして、にこやかに振る舞って居たので、私は、自宅に帰ってから、Eさんからそんな怒りのメールが来るとは、夢にも思って居なかったのである。だが、Eさんは、私に、東條英機の孫である東條由布子さんを会はせたと言ふただそれだけの事で、信じられないまでの激しい怒りのメールを私に送って来たのであった。
私は、Eさんのメールに丁重な返事を送った。だが、Eさんの怒りは収まらない。そこで、私は、さすがにEさんの言ふ事はおかしいと思ひ、彼女にこの様な意味の事を書いてメールを送った。「東條さんと同席した事がそんなに御不快だったとおっしゃるなら謝りますが、それは、差別じゃないですか?」私が、メールで「差別」と言ふ言葉を書いた後、Eさんの態度は急変した。差別などではありません、と言ふ意味の返事をEさんはメールで送って返して来た。リベラルなジャーナリストと見なされるEさんは、「差別」と言ふ言葉には敏感だった様だ。「差別」を批判する側のリベラルな立場に在る自分が、その「差別」をして居ると批判されて、彼女はひどく戸惑った様子だった。東條英機首相が何をした人物であろうと、それは、当時幼少だった東條英機の孫、東條由布子さんとは何の関係も無い。しかし、Eさんは、その無関係な東條由布子さんと、ひょんな事で同席させられた事に怒り、信じられない程感情的なメールを私に送って来たのである。だから、私は、彼女とのメールの中で、「差別」と言ふ言葉を出して彼女の反応に異を唱えたのだったが、Eさんは、「差別」と言ふ言葉が自分に投げ掛けられた事に動転したのか、この件に関するメールはそれ以上送って来なかった。正直に言って、この時のEさんのこの反応は、差別その物であったと、私は今も思って居る。そんな差別を、左翼リベラル派であり、誰もがその名を知る高名なジャーナリストがすると言ふ事が、私には悲しかった。
私は、Eさんのメールの事は、もちろん、東條さんには言はなかった。少し経った頃、東條さんは、その夜の演奏会と食事に誘った事を私に感謝し、そして、Eさんについては、「いい方ですね」と、私に言った。今思へば、東條さんらしい言葉である。東條さんは、人を信じる人であった。その事が、東條さんが関はった他の事においても、色々な形で現れ、そして、東條さんに不利な立場に追ひ込む事も有ったのだが、このEさんの件は、戦後半世紀以上が経っても、東條さんを含めた東條英機氏の遺族に対する差別が生き続けて居た事の実例に他ならなかった。
或る時、私は、東條さんに率直に尋ねた。「東條さん、つらい思ひをして来られたんでしょう?」正確な言葉は忘れたが、そんな意味の言葉を、私は、東條さんに投げ掛けた。すると、東條さんは、首を横に振って、こんな意味の言葉を言った。「いえいえ、そんな事は有りません」私は、信じられなかった。そこで、更に、正確な言葉は忘れたが、「差別される事が有ったんじゃないですか?」と言ふ意味の問ひを重ねた。すると、東條さんは、こう答えた。「幼い兄妹を守るために、じっと抱きかかえて、我慢しました。」この言葉は、正確にこうだったと記憶する。暴力を含めた差別の中で、東條さんは、戦後を生きて来たのである。
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東條さんについて、少なからぬ人々が誤解して居る事が有る。それは、東條さんが、或る時期からマスコミなどに登場し始めたのは、東條さんが、祖父東條英機氏の名誉を回復したいと思ったからだ、と言ふ誤解である。非常に多くの人がそう思って居る様である。だが、それは全く違ふ。東條さんは、靖国神社を巡る問題や、東京裁判について、度々発言したが、それらの発言を聞いて居て分かる事は、東條さんは、祖父(東條英機)の名誉を回復しようと思ってそうした発言をして居るのでもなければ、戦後、東條家の人々が経験した差別や迫害を語りたかったのでもないと言ふ事だった。東條さんは、日本の国民が、祖父東條英機に怨嗟の感情を持ち続ける事は当然の事として受け止めて居たと、私は思ふ。そして、上に述べた様に、戦後、東條さん自身を含む東條家の人々が経験した差別と苦難については、語ろうとしなかった。明らかに、東條さんは、そうした東條さん自身と東條家の人々への怨嗟と憎悪を甘んじて受けると言ふ姿勢だったのである。東條さんが、或る時期から、靖国神社や東京裁判について公の場に登場し、発言する様に成った動機は、これらの問題で、日本が外国に、特に中国に妥協する事が、日本の独立と尊厳に関はると、東條さんが懸念したからなのである。
良く知られた様に、東條英機氏は、巣鴨プリズンに収監された後、家族に対して、「一切語るなかれ」と命じ、東條家の人間として、「弁明」を語る事を禁じたと言はれて居る。東條由布子さんも、物心ずいてから、永くその遺訓を守って居た。だが、その東條さんが、祖父の遺訓を破り、靖国について、東京裁判について発言する様に成ったのは、何故だったのだろうか?東條さんは、私に、「『プライド』と言う映画を見たのが切っ掛けだったんですの」と、私に言った事が有る。だが、それは、あくまでも「切っ掛け」だろう。東條さんに沈黙を破らせた最大の動機は、靖国神社への首相の参拝、分祀の検討と言った問題において、中国の内政干渉が繰り返され、日本政府が、中国の言ひ成りになるのではないかと、東條さんが懸念した事だったのだろうと、私は思って居る。その証拠は、上に述べた東條さんの言葉である。−−「東條家は、それでもいいんです。でも、それじゃ、中国の言ひなりじゃありませんか。中国の言ひなりに成っていいのか、と私は言ひたいんです」。−−私は、これこそが、東條さんに沈黙を破らせた動機だったのだろうと、思って居る。「祖父の名誉」が、東條さんの動機ではなかったのである。
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東條さんは、南方諸島での日本兵の遺骨収集の仕事に参加して居た。南方の島々には、今も多くの日本兵の遺骨が、密林の中で、或いは、洞窟の中に、無言で眠り続けて居る。東條さんは、そうした南方の島々に残された日本兵の遺骨収集に情熱を抱き、南洋の島での遺骨収集に自ら加はって居た。或る時、東條さんは、不発手榴弾が残る狭い洞窟の空間に自らはって入り込み、そこに横たはって居た日本兵の遺骨を自ら回収した事が有ったと言ふ。東條さんの話では、後からその現場の写真を見た自衛隊関係者は、「良く、こんな危険な所に入って作業をしましたね」と言って、驚いたと言ふ。そして、その時、東條さんは、その日本兵の遺骨に向かって、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と言ひながら、その作業を行なひ、遺骨を洞窟から回収したと、私は、東條さんから聞いて居る。その話を聞いた時、私が思った事は、東條さんは、何故、その日本兵の遺骨に向かって「ごめんなさい」と言ったのだろうと言ふ事である。東條さんは、その時、あの戦争を経験しながら生き残った日本人の一人として、「ごめんなさい」と言ったのだろうか?それとも、東條英機の孫として、「ごめんなさい」と言ったのだろうか?東條さんからその話を聞いた後、私は、その事を考えた。もし、東條さんが遺骨に向かって「ごめんなさい」と言った理由が後者だったとしたら、こんな辛い話は無い。私は、もちろん、東條さんにそんな事を聞く勇気は無かったが、その「ごめんなさい」と言ふ東條さんの言葉には、東條英機の孫として戦後を生きた東條さんの全てがこめられて居た様に思はれてならない。東條さんは、祖父の決断と政治には全く無関係である。しかし、戦後、日本人の怨嗟を受け、東條英機の孫である事を恐らく片時も忘れる事無く生きて来たであろう東條さんの万感が、その遺骨に対する「ごめんなさい」と言ふ言葉に込められて居たのではなかったか?東條さんが亡くなった今、私は、そんな気がしてならないのである。
7
東條さんを知るに連れて、私は、東條さんを色々な人に紹介したいと思ふ様に成った。当時、東條さんは、既に本を出して居たし、東條英機の孫として、保守系言論人とメディアの間では、既に一定の知名度を得て居た。だが、冒頭の逸話でもわかる様に、東條さんは、保守論談に辟易して居た。非常に保守的な価値観、政治信条の持ち主であるにも関はらず、である。東條さんは、保守論談と保守系メディアと付き合ふ中で、東條さんの肉声がそのまま伝えられず、保守論談の「偉い人たち」によって、発言を変えられる事を何度も経験したと、私に語った。それで、東條さんは、保守論談と言ふ物に辟易させられて居たのである。だからだろう、東條さんは、私が東條さんを未知の人に紹介する事をとても喜び、楽しみにして居た。
東條さんは、自分と意見の違ふ人に出会ふ事を何より楽しみにして居た。冒頭で述べた様に、私が東條さんに初めてお目に掛かったのは、新宿のトークライブハウス「ロフトプラスワン」であった。この店は、毎夜、色々なゲストが「一日店長」として壇上に登場し、聴き手と共に、自分のして居る事や思想信条を語ると言ふユニークなライブハウスである。この店は、主に、左翼系の人々が集ふ店で、その為、ゲストとして登場する論客も左翼系の人が多かったが、私は、懇意だったこの店のスタッフと話して、保守の中の保守である東條さんに何度か登場してもらふ事とした。東條さんは、その事をとても喜んだ。それまで東條さんが出会ひ、対論する様な人々は、「保守」系の人々ばかりで、同店で、左翼的な観客や論客と意見を交換出来る事を、東條さんは、本当に喜んだのである。
そうした場で私が、東條さんを紹介した人々の名を挙げると、同店(ロフトプラスワン)の席停である平野悠氏、店長の加藤梅造氏に始まって、月刊「創」編集長の篠田博之氏、パロディストのマッド・天野氏、フリー・ジャーナリストの岩本太郎氏、木村愛二氏、長岡義幸氏など、が含まれる。又、客として東條さんの話を聞きに来て居た人々の多くは、明らかに左翼系の人々が多かった。これらの人々の多くは、首相の靖国神社参拝や、東京裁判の見直しに反対して居た人々である。そんな左翼的な人々や靖国神社などには拒否的な人々と、正面からぶつかって対話が出来る事を、東條さんは、本当に楽しみにして居た。
或る時、観客の中に、在日朝鮮人の男性が来て居た事が有った。マッド・天野さん等と共に、東京裁判を批判するパネル討論をした夜の事である。討論が全て終はった後で、その男性が、東條さんに近ずいて来て、東條さんと直接言葉を交はし始めた。その在日の男性は、非常に左翼的な人である。だが、その夜の東條さんの話をずっと聞いた後で、その男性は、東條さんに近ずき、感想などを語り始めたのだった。その男性が、在日朝鮮人である事を知った東條さんは、顔を輝かせた。そして、「私、ソウルで生まれたんですのよ。」と、嬉しそうに言った。まるで、古い友人にでも会ったかの様に、東條さんは、その在日の男性としばし談笑したが、その男性も、意見の違いを別として、東條さんに相当の親近感を抱いた様に、私の眼には見えた。この夜もそうだったが、東條さんは、靖国神社や東京裁判の問題で意見が正反対である様な人々から、意見の違いを超えて、驚くほどの好感を得て居たのである。
東條さんは、或る時、在日韓国人二世である姜尚中(カン・サンジュン)氏と対談した事も有る。その際、姜氏は、自身の親族に憲兵が居た事を語り、東條さんの心情が分かる気がする、と言ふ意味の事を東條さんに言ったそうである。
姜尚中氏は、東條さんとは、明らかに対極と言って良い政治信条の持ち主であるが、その姜尚中氏が東條さんにその様な事を言ったのは、単なる社交辞令ではなかったのではないかと、自分は思って居る。東條さんは、姜尚中氏が、自分と対極の信条の持ち主である事は百も承知しておられたが、その様な対極の信条の持ち主であり、そして、在日二世である姜尚中氏と対話する機会を得た事を喜んで居たと、私は思ふ。
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東條さんは、或る時、私にこう言った事が有る。「私(わたくし)、朝日や毎日の記者の取材を受けるのが、一番嬉しいんですよ」。上述したロフト・プラスワンでの振る舞ひと同様、東條さんは、「保守」系のメディアよりも、靖国問題や歴史問題で意見の違ふ「左翼」系メディアの取材を受ける事、そして、彼らに持論を語る事を東條さんは好んだのである。そして、ロフト・プラスワンの場合と同様、東條さんは、そうした「左翼」系のメディア関係者から、一定の好感を得て居た。いや、かなり好感を得て居たのではないか、と私は思ふ。
こんな事が有った。首相の靖国神社参拝が歳時記の様にメディアの話題に成って居た或る夏、東條さんが、私に、「TBSの取材を受けたんですのよ」と、嬉しそうに言った事が有った。話を聞くと、TBS報道部のディレクターが、東條さんに懇願する様に取材を申し込んで来たのだと言ふ。そして、そのTBSのディレクターが、東條さんにこう言ったと言ふ。「東條さん、保守系の方達が、誰も、私たちの取材を受けてくれないんです。靖国神社の事でインタビューを申し込んでも、みんな断られてしまふんです」私は、東條さんのその話に興味を持った。「保守系の方達が、TBSの取材を受けないと言ふのは、何故なんですか?」と、私は聞いた。すると、東條さんは答えた。「TBSの報道の仕方に不満だからでしょう。みんな、TBSには出ないって言ってるみたいですよ」記憶なので、一字一句この通りの言葉ではなかったかも知れないが、東條さんは、そう言ふ意味の事を言った。記憶で東條さんの言った事を要約すると、TBSは、インタビューをしても、都合の悪い部分をカットするので、保守系言論人の取材ボイコットを受けて居る、と言ふ意味の事を東條さんは私に言った。そして、それにも関はらず、東條さんだけは、保守系論客として、TBSのインタビューに応じて居たので、TBSのディレクターは、東條さんに「またお願ひします」と言って、平頭感謝したと言ふ。「この次は、ニュース23に生放送で筑紫(哲也)さんの対談させなきゃ出ないわよって、言ひました」と言って、東條さんは明るく笑ったが、その後、東條さんがニュース23に生出演する事は無かったと記憶する。
東條さんのこうした姿勢は、外国メディアに対しても同様であった。或る時、東條さんは、保守言論人の間では「反日的」と見なされて居た或るアメリカのジャーナリストの取材を受けた事が有った。東條さんによると、その際、東條さんの周辺の人々は、「やめた方がいい」と言って、そのアメリカのジャーナリストに会はない事を強く薦めたと言ふ。しかし、東條さんは、喜んでその取材を受けた。どの様なインタビューだったのか、私は今に至るまでその出来あがった記事は読んで居ないのだが、東條さんによると、その「反日的」な事で有名なアメリカ人記者がこんな記事を書くのか、と東條さんの周辺の人々を驚かせるほど、公平で、東條さんに対して好意的ですらあった記事に成ったのだと言ふ。その事を私に語る東條さんの表情が明るかった事が印象に残って居る。
又、或る時、東條さんは、韓国のテレビ局の取材を受けた事が有った。東條さんによると、韓国のそのテレビ局のクルーは、上述したTBSの取材陣と同様、「日本の保守系言論人がインタビューを申し込んでも皆断るので、日本の保守派の声を取材したい」と言って、東條さんにインタビューへの出演を要請して来たそうである。東條さんは、「保守」言論人が揃って取材を拒否して居たその韓国のテレビ局の取材も快諾し、韓国人ジャーナリストの取材を受けた。その際、東條さんによると、その韓国人ジャーナリストと東條さんの間で、激しい議論が起きたそうである。韓国人らしいと言ふべきか、取材と言ふより、意見のぶつけあいに成ったらしく、かなり激しい議論が交はされた様である。東條さんは、遠慮無く、韓国人ジャーナリストを批判し、持論を展開したと聞く。ところが、その結果、出来あがった韓国のテレビ番組に中で、その韓国人ジャーナリストは、東條さんの見解は批判したものの、番組の終はりに、「取材に応じて下さった東條由布子さんに感謝する」と言ふコメントを加えて、放送したのだと、東條さんは私に聞かせてくれた。
東條さんは、後ろを見せない論客であった。相手が日本人の左翼であれ、アメリカ人ジャーナリストであれ、韓国のテレビ局であれ、いつも質問には正面から対峙し、堂々と自論を述べる人だった。だが、同時に、どんなに自分の見解と異なる意見の持ち主でも、アメリカ人であろうと、韓国人であろうと、相手を尊敬し、意見の違いを憎悪や民族的差別に結びつける様な人ではなかった。私は、東條さんのそう言ふ所が大好きであった。
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こうした人柄の故であろう。東條さんは、「身内」である筈の「保守」論壇の人々に対して、同じ「保守」だからと言ふ理由で批判を控えると言ふ様な事は無かった。相手がどんなに偉い人であれ、おかしいと思った事は、遠慮無くおかしいと言ふのが、東條さんだった。逆に、「保守」論壇の中には、東條英機の孫である東條さんに、自分たちが期待する様な発言をして欲しいと願ひ、東條さん自身の意見ではない事を東條さんに言はせようとしたり、書かせようとする人が居たと、私は、東條さんから聞いて居る。
「保守」論壇の長老格であったI氏などは、東條さんによれば、靖国神社を巡る問題で、「保守」の人々の司令塔的存在だった様であるが、東條さんは、このI氏などを繰り返し批判して居た。そして、靖国神社を巡る保守派の人々の発言は、そうした一部の人々によって統制されており、東條さん等には自由な発言の機会が与えられない、と言ふ意味の言葉を、私は、東條さんから何度も聞いた事が有る。
東條さんは、言はゆる「A級戦犯」を靖国神社から分祀する事は、神道の在り方として出来無い事であるのに加えて、上述の様に、そんな事を受け入れたら、日本は中国の言ひなりではありませんか、と言ふ理由で強く反対して居た。東條さんのそうした発言、姿勢の根底に、東條さんの靖国神社への深い思ひ入れが有った事は言ふまでも無い。東條さんは、靖国神社を「靖国様」と呼び、当時非常に高齢に成って居た東條さんのお母さまを車椅子に乗せて、度々靖国神社にお連れして居た様に、靖国神社に対して、深い思ひを抱いて居た。だが、その東條さんが、同じ様に靖国神社を守ろうとして居る筈の「保守」言論人に、しばしば厳しい批判を加える事に、私は一度ならず驚かされた。
特に、私が驚かされたのは、東條さんが批判を加える、そうした靖国神社側の人々である筈の「保守」言論人や関係者の中に、実は、中国や朝鮮半島勢力の影響を強く受けた人々が、少なからず居ると言ふ東條さんの言葉であった。東條さんは、靖国神社を守る側の人々の中に、そうした外国勢力が浸透して居る、と言ふ意味の事を私に度々語った。そして、そうした外国勢力は、「保守」の側の大物言論人を女性で籠絡するなどして居ると言った、にわかには信じられない様な話までをも、私に生々しく語って聞かせたのであった。又、「保守」系とみなされる或る女性が、韓国の情報機関の高官の愛人であるとか、事実ならば、日本の「保守」の奥深い所に外国の情報網が触手を伸ばして居ると考えざるを得ない様な話を聞かされた事も有った。
東條さんが私に語ったそうした「保守」の深部への外国勢力の浸透がどこまで本当だったのか、私には分からない。だが、もし、東條さんが語った事が全て本当だったのなら、靖国神社を支えて居る筈の人々や、「保守言論人」とみなされて居る人々に対して、中国や朝鮮半島勢力が行なって来た浸透工作は、想像を絶した物に達して居る事に成る。東條さんが他界した今、私には、東條さんが私に語って聞かせたそうした話の出所を確かめる術は無いが、気に成って仕方の無い事である。
更に、もっと気に成る事が有った。この様に、東條さんは、靖国神社を支える筈の「保守」の側の人々に、更には「保守論壇」の人々に対する中国や朝鮮半島勢力の浸透ぶりを心配して居たのであるが、その東條さん自身にも、外国勢力が接近して居たのである。そうした勢力にの一つは、東條さんに対して非常に友好的な姿勢で接近して来たので、東條さんもどう対応するべきか、悩んで居た。東條さんは、非常に慎重に対応して居た様だが、東條さんを利用しようとする勢力が国内外に在った事は、留意すべき事だと思ふ。
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最近、若い世代を中心に、非常にナショナリスティックな発言を繰り返す人々が多い様である。その中にも色々な個人が居るので、ひとまとめに語る事は出来無いが、私個人は、そうした人々に対して違和感を感じることが少なくない。私は、あの大戦は、日本が望んで起こした物ではなく、アメリカや中国によって戦ふ事を強いられた結果、始まった戦争だと思って居る。だから、東條英機氏には、同情すべき点が多々有ったし、戦後、東條英機氏を含めた「戦犯」たちを裁いた東京裁判は、国際法に違反する不法な法廷であったと思って居る。更に、中国や韓国が、歴史問題や領土に関する事柄で取ってきた不当な姿勢には断固反撃すべきだとも思って居る。だから、そうした事柄について、若い日本人が反発する気持ちは大いに分かるし、共感、同意する部分も少なからず有るのである。
しかし、私は、一部の若者たちがインターネットやデモで表明する余りにも排外的なスローガンには共鳴しないし、嫌悪感すら感じる事が少なくない。「いい韓国人も悪い韓国人も殺せ」などと書いたスローガンを掲げて都内を行進するデモが有ったと聞くが、この様な人々は、日本の恥だと、私は思って居る。ただし、それでも言論は自由でなければならない。言論に対抗する物は言論であって、法律による言論規制など有ってはならない。だからこそ、こうした排外的な言辞を繰り返す人々に対しては、愛国派の日本人こそが、批判を加えなければいけないと、私は思って居る。
そんな昨今の世相を見ながら、私は、東條さんが生きて居たら、何と言ふだろうか?と思はずには居られない。東條英機の孫として、戦後、不当な差別を受けながら生きて来た東條さんは、「戦後」と呼ばれる時代の犠牲者であった。だが、その東條さんは、愚痴一つこぼさず、自らと自らの家族に加えられた差別すらをも当然のこととして受け入れながら、祖国を愛し、祖国の為に、誰にもおもねらず、損に成る事を知りながら、発言を続けた。その様な、「戦後」と呼ばれる時代の最も不当な立場に置かれて来た東條さんは、しかし、排外主義からは最も遠い、開かれた心の持ち主であった。東條さんは、いかに外国勢力に反論する時であっても、今、一部の人々が口にする様な差別的言辞は決して述べる事の無い公平な人であった。
その東條さんが、今、日本に居ない事を、私は、本当に残念に思ふ。
平成25年(西暦2013年)8月15日(木)
68回目の終戦記念日に
西岡昌紀(にしおかまさのり)
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