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http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201308140587.html
朝日新聞 朝刊 2013年8月15日
「強盗、殺人…軍命でも私は実行犯」 罪語り、誓う不戦
広い庭にやせこけた兵士が片ひざをついている。台座に「不戦」の2文字。この像を建てた主、矢野正美(まさみ)さん(愛媛県西条市)は昨年2月、92歳で亡くなった。戦場で犯した罪を語り、何度も「8月15日まで生きたい」と言い残した。矢野さんが伝えたかったものとは何なのか。
■兵の体験、次代に
首都圏を中心に戦争体験者の証言記録に取り組んできた神(じん)直子さん(35)に、矢野さんから突然連絡が来たのは、7年前の夏。その朝、テレビで神さんの活動が紹介された。
「ぜひ、愛媛に来てください」。3カ月後、神さんの前で矢野さんは2日間、従軍したフィリピンであったことを語り続けた。
ルソン島のある村で、ゲリラ潜伏を調べていた時。教会から出て来た老女が怪しいと、上官が銃剣で突くよう命じた。
「しょうがない。グスッと胸を突いたら血がばーっと出てね。空(くう)をつかんで、その人は倒れました」。別の村では、残っていた子連れの女性を襲った。
「強盗、強姦(ごうかん)、殺人、放火。軍命であっても、私は実行犯。罪の意識はある。かといって(戦友の)慰霊には何回も行ったが、謝罪のすべを知りません」
こんな恐ろしい告白もあった。
敗走を続け、飢えに苦しんだ山中で、日本人の逃亡兵を仲間の兵が殺した。その晩、仲間の飯ごうから、久しぶりに肉の臭いがした。「奪い合うように食べました」。次の日には自ら死体の所へ行き、足の肉をはぎ取った。
1941年に陸軍に入隊した矢野さんは、44年夏、旧満州からフィリピンに転じた。米軍との激戦で日本軍約60万人中50万人が死に、矢野さんの部隊の生き残りはわずか1割。フィリピン人は100万人以上が犠牲になった。
45年12月、25歳で復員。家庭をもうけ、砂利運搬船を持ち、懸命に働いた。会社を興し、財をなした。
■狂気・むごさ、碑に
戦後40年がたったころ、同郷の陶芸家・安倍安人(あんじん)さん(74)が、矢野さんの戦中の日記を偶然読んだ。収容所でトイレ紙にメモしたものを引き揚げ後、
大学ノート6冊に清書していた。「きれいごとじゃない、人間と人間のつぶし合いを、
矢野さんは克明に書いていた。驚きました」
日記は安倍さんらの手で出版社に持ち込まれ、「ルソン島敗残実記。」と題されて86年、世に出た。矢野さんは何も言わず、子や孫に一冊ずつ渡した。
長女のみゆきさん(66)にはショックだった。目を背けたくなる父親の行為が描かれていた。幼いころ聞かされたのは、フィリピン人や戦友とののどかな交情の話ばかりだった。
妻の清美さん(86)は驚かなかった。夫の腰には、敵に撃たれた銃弾のかけらが残っていた。「いくつも傷を抱えているのは、わかっていました」
本が出て数年後、矢野さんは近くに住む彫刻家の近藤哲夫さん(71)に、兵士の銅像を依頼した。「ただの慰霊碑じゃない。人間を異常にしてしまうほど、戦争はむごいもんだと伝えたい」と口説いた。91年3月、像は完成した。
矢野さんは、神さんに語った。「僕ができんかったことをあなたがやろうとしている。自分ももう一度、話さなくちゃいかんと」
戦場で起きたことを語れる人は、年々去ってゆく。神さんは、他の元兵士の証言とともに矢野さんの映像を編集し、若者むけの平和教育に使っている。フィリピンの戦争被害者の前でも紹介された。
矢野さんは最後の数年、たびたび人前で体験を語った。戦争のことを考える若い人や団体に出会うと10万円、100万円といった金額を寄付して応援をした。
体調を崩して入院したのは去年1月。最期の日、「8月15日まで生きたい」と繰り返した。極限状態のなかで死んでいった戦友を、毎年思う大切な日だった。
残された庭の像は、「不戦之碑」と名付けられた。兵士の肩に、蝉(せみ)しぐれがふりそそいでいる。(石橋英昭)
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