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2013年08月15日 世相を斬る あいば達也
小沢一郎や「生活の党」の党の話題が世間を賑わす時空間が少なくなってきて久しい。筆者自身も、小沢一郎は一回休みのサイクルに入ったと観察している。安倍自民の売国乃至は壊国政治に国民がホトホト呆れない限り、小沢が永田町で存在感を発揮する機会は訪れないと考えている。小沢一郎と云う稀有の政治家の運命が、既存権益勢力やB層、C層だらけの愚民によって葬られるのは、あまりにも忍びない。たしかに、客観的事実を積み重ねて展望する限り、小沢一郎の存在が再認識される可能性は、かなり低くなったと推測出来る状況になっている。毎日が、如何にも小沢の凋落を揶揄するように、党の引っ越しに関する記事を配信している。
≪生活:党本部引っ越しへ 所属議員大幅減で台所事情苦しく
生活の党は、東京・永田町にある党本部の移転に向け、新たな入居先を探している。昨年末の衆院選、先月の参院選と2度の国政選挙で選挙費用がかさん だが、いずれも惨敗。所属議員数が大幅に減少し、台所事情も苦しくなったことが引っ越しを探る背景にあるようだ。
現在の党本部は、赤坂から近く、都内の一等地にあり、小沢一郎代表らが民主党を集団離党した後、昨年8月に入居した。当初は8階建てビルの2、3階を借りていたが、現在は3階(約80平方メートル)のみに縮小。10月に契約の更新を迎えることも移転の検討 に入るきっかけになっている。
生活の党は旗揚げ当初、衆参両院で49人の所属議員を抱えていたが、いまは9人。所属議員数などに応じて支給される政党交付金も先の参院選で現職6 人が敗れ、目減りは免れない。
小沢氏も個人事務所として使っていた赤坂のマンションを売却するなど、やり繰りに腐心してきたが、党幹部は「所帯が小さくなって、台所は苦しい。安くて広い物件があれば移転したい」と話している。≫(毎日新聞)
なんとも腹立たしい記事だが、多分事実だろう。“そもそも論”を今さら繰り出しても詮無いこととは知りながら、考えざるを得ない点が非常に辛い。09年3月突如小沢一郎の公設第一秘書の大久保氏が東京地検により逮捕されたのを皮切りに、地検特捜部の暴走と迷走が繰り返され、検察とマスメディアの恥部と云うものが世間の注目を集めたわけだ。しかし、多くの国民は検察やマスメディアと云う巨大な権力の不正義や横暴に日和見的態度で接することで、権力への恭順を示した。大阪・東京地検特捜部の改竄や捏造等々、多くの犯罪的行為がなされたにも関わらず、多くの国民は“見ざる聞かざる言わざる”の態度に逃げ込んだ。
多くの評論家やジャーナリストも、小沢一郎への検察の捜査手法に批判的だったし、検察の劣化を嘆いては見せたが、民主党を離脱した政権交代の立役者の孤独な闘いを、対岸の火事の如く傍観するに過ぎなかった。そして、小沢一郎の政治力が退潮傾向を見せるに従い、今や、永田町における小沢一郎の影響力はゼロに近いと見ているようだ。たしかに、時間を輪切りにすることが可能であれば、その観察眼が間違いだと指摘する勇気は、筆者にもない。
しかし、十訓抄の“虎は死して皮を留め、人は死して名を残す”の喩えで小沢一郎を終わらせるのは、筆者としては納得がいかない。国家や国民のため等と大袈裟なことを言うつもりもない。不正義がまかり通る世間を嘆いても、今さらである。今の日本の現実が、そこにある以上、其の儘に認める方が精神的に安泰だ。ただ、存在を認めるからといって、その存在そのものが正しいとまでは認めない。やはり、現在の存在そのものに誤謬や瑕疵があることを指摘しない事は、一切の改革を放棄するようなものである。
だからといって、グローバルな原理原則に従うことで、日本の改革を進めようと等と考える事は、尚最悪である。まだ僅かの残されている自然国家の長所が悉く破壊されるだけで、人工国家の真似事をする謂われは皆無である。民主主義が怪しくなり、連動して資本主義が怪しくなり、企業が資本家の存在を抹消して、金融と云う誰とも知らぬ怪物に乗っ取られ、国家は今や、その企業の僕となりかけている。国境さえ点線のような存在に向かっている。安倍自民の場合、金融資本に親和的であるにも関わらず、点線のような国境は嫌だと駄々を捏ねているが、この辺は歴史的には“戯言政権”と記されるだけのことだろう。
見出しに戻ると。“虎は死して皮を留め、人は死して名を残す”の格言通り、小沢一郎が名を残すことに何の疑問も感じないが、それだけで良いのだろうか、と自問してみる。答えは常に、”それじゃ小沢の理念だけが残る“それだけでも良いのかもしれないが、やはり大いに不満がある。理念だけ残っても、それを推進する馬力が生まれなければ、小沢の理念は空疎なものに貶められる危険が伴う。ただ、今の鈍感な国民に「自立と共生」と云う理念を、其の儘語っても、”馬の耳に念仏“の感は拭えない。哲学的思考の抜け落ちた国民に、「自立と共生」の日本社会をイメージさせることは、実は容易ではない。
もっともっと噛み砕かなければならない。多くの説明を省くのが、小沢一郎の小沢たる所以かもしれないが、それでは駄目だ。噛み砕き、具体的事例を示しながら、愚かモノにも理解できる処まで、御足労でも降りてきて貰わないと話にならない。特に、現状の世界全体を眺め、今後の日本がどのような方向に進めば良いのか、そして、日本人の日常生活がどのような状態になる世界をイメージしているのか、伝道師の心境で語るべきである。何故なら、日本人は実は、“自立も共生”も経験したことのない民族なのである。常に、生活だけをしてきた民族であり、抵抗や思考よりも、流れに逆らわずに生きる術を習得した民族だからである。
無論、自然国家の民族と云うものは、似たりよったりで、特に日本民族が突出しているわけではないが、島国である分、その傾向は非常に色濃く出ている。小沢の政治理念そのものが残るだけで、結構厄介な日本だ。それを、安倍自民の愚策が崩壊するまでに準備すること自体大変だが、その準備を怠っては、実を得る可能性は限りなく遠ざかる。有権者を信じる気持は貴重だが、それだけで充分と云う事もない。おそらく、日本人の劣化は、小沢が考えている何倍も劣化している。そのことを、是非小沢や生活の党は気づいて貰いたい。党本部が、どんなあばら屋に引っ越そうが構いはしない。しかし、小学生に語り聞かせる忍耐と努力は、絶対に欠かせないだろう。
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