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1930年代、飯田下伊那地方は草の根ファシズムの嵐が吹き荒れていた。
在郷軍人の組織「信州郷軍同志会」の中心地だった。同志会は陸軍中央の支援も受け国策への同調を強い、戦争機運を高揚した。
31年。愛国勤労党の県議、中原謹司は南信国民大会で「国論ヲ喚起シ満蒙国策ヲ断行シテ世界ニ大義ヲ敷クベシ」と決議。満州(中国東北部)移民国策化を訴えた。
政府は36年、移民送出を国策とした。同志会幹部だった中原は移民熱をあおり、飯田下伊那は全国有数の送出地域になった。
この流れに抗した村長がいた。大下条村(現阿南町)の佐々木忠綱である。
<国策の強い呪縛>
世界恐慌(29年)は、繭価の急落につながり、飯田下伊那の経済を直撃した。
農村の窮乏を背景に当初は自発的な移民もあったが、次第に希望者が減少。国は村ぐるみで移住させる「分村移民」を打ち出した。応じれば移民はもちろん、残った村にも生活道路などへの補助金や低利貸し付けをする。
37年に村長に就いた佐々木は翌38年、下伊那郡町村会の満州視察団に参加する。24日間の視察の結果、団の報告書は「困難は伴うが(中略)これを人に勧め得る確信を得た」と結ぶ。
佐々木は違った。旧満州の農民を追い出し日本人が入植したような形跡も見られ、何となく不安を感じた。それに日本人が地元の人々に威張りすぎてはいないか―。
帰国した佐々木は分村移民を推進しなかった。
周りの村は駆り立てられた。補助金を得るため村外にも勧誘に回り、移民の獲得競争が起きた。
45年8月9日のソ連侵攻、敗戦、逃避行。集団自決をした開拓団も出た。
河野村(現豊丘村)の胡桃沢盛村長は戦後間もなく、移民の旗振り役をした自責の念から自ら命を絶った。国策と戦争に強いられた悲劇の一つである。
<圧力に拒否貫く>
満州に侵略した日本は32年、傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国した。移民は農地開拓にとどまらず、治安の維持やソ連への防備など政治・軍事上の役割を担わされていた。
約27万人の移民のうち、長野県は青少年義勇軍を含め3万3千人と全国最多。飯田下伊那は8350人の農業移民を送り出した。
信州、特に飯田下伊那が多かった背景に、官民一体の「動員の構造」ががっちり仕組まれていたことがある。
県は専門部署の拓務課を置いて町村役場を指導。移住者数の実績を競わせた。
教員ら約600人が摘発された33年の二・四事件を境に、教育界は満州に移民を送り出す動員装置に化していった。
こうした中で信州郷軍同志会は存在感を高めた。中原は各地の講演で満州移民を喧伝(けんでん)した。
同志会には陸軍中央がバックにいた。神戸大学名誉教授の須崎慎一さん(佐久市在住)が中原の手帳を調べた結果、陸軍中央から高額の現金が機密費として中原らに提供されていることが分かった。
分村移民を拒む佐々木は中原からどう喝に近い言葉を投げかけられた。別の研究者が得た証言だ。
同志会は40年、大政翼賛運動に参画。県内各地への翼賛壮年団の組織化に影響力を発揮した。
<立ち止まり考える>
佐々木は翼賛壮年団から圧力を受けたと後年、明らかにした。
「壮年団に『各村が全て分村しているのに、なぜ分村せんのか』と詰め寄られたが、拒否した。もしあの時に分村しておったなら大勢の犠牲者を出し、自分も生きておれなかったのではないか」
戦後、伊那自由大学の聴講生の座談会で語った発言だ。
自由大学は上田の農村青年が京都帝大出身の哲学者、土田杏村(きょうそん)の指導を受け大正時代の21年に開講。伊那や松本に広がった。
佐々木は夜中に自宅を出発、夜通し歩いて自由大学を受講した。20代後半の知識欲旺盛な時代に進歩的、リベラルな見方を学んだ。
役場吏員の出征の宴席で「おまえ絶対に死ぬなよ、生きて帰ってこいよ」と言うと、書記に「村長、失言ではないか」とたしなめられた逸話もある。戦時下でも個人を尊ぶ価値観が垣間見える。
分村拒否をめぐっては迷いに迷ったらしい。「自分で行きたくないところに村の人をやるのはどうか」と妻に相談した。すると妻は「そう思うならやめたほうがいい」と答えた。まっとうな考えが決断を後押しした。
補助金絡みの巧妙に仕組まれた国策は今に通じる。福島原発の被災民と逃避行する満州移民が重なる。民に犠牲を強いる動員の構造の典型は戦争だが、民も協力の歯車になりうる。歴史が教える。
納得のいかない変化の波が押し寄せてきたら歴史の中に佇(たたず)んでみよう。自分ならどう考え行動するか、自問したい。抗すべき正体を見破るために。
http://www.shinmai.co.jp/news/20130815/KT130813ETI090004000.php
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