01. 2013年8月07日 09:14:16
: niiL5nr8dQ
【第291回】 2013年8月7日 山崎 元 [経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員] 小泉進次郎氏に知ってほしい「ベーシックインカム」 社会保障費は特別なのか? 数日前、ツイッターのタイムラインを見ていたら、自由民主党の青年局長を務める小泉進次郎氏の発言を賞賛するツイートを見つけた。 そのツイートが引用する記事を見ると、小泉進次郎氏は「なぜ社会保障の予算だけが、毎年1兆円増えるのが当たり前なのか。ここに切り込まなければ、本当の財政再建はできない。消費税率を上げるたびに、社会保障を良くしたら、いつまでたっても財政再建が進まない」と国会内で記者団に語ったという(「朝日新聞DIGITAL」8月2日)。 確かに、社会保障費は毎年約1兆円のペースで伸びている。財政を圧迫していることは間違いない。さらに、今のところ最大野党である民主党は、社会保障費が拡大する政策に熱心だ。自民党の青年局長が、財政再建の観点から、社会保障費の拡大を批判するのは、不自然ではない。 また、思い起こしてみると、小泉進次郎氏の父・小泉純一郎氏が首相だった時にも社会保障費の抑制には熱心だった。おそらく、小泉親子は「大きな政府」が嫌いなのだ。 たとえば、小泉進次郎氏の言う70歳〜74歳の医療費の窓口負担を現在の1割から2割に引き上げるべきだといった措置は、過剰な医療機関利用を抑制するためにも、若い世代との公平性の観点からも、適切だろう。効率化、公平化は速やかに行うべきだ。 ただし、今後、高齢化が進み、これに少子化が追い打ちをかける日本の人口構造を考えると、年金・医療・介護といった費目の社会保障費支出が拡大するのは、やむを得ない面がある。また、非正規労働者が増えるなど、経済的な弱者の環境が厳しくなる中で、生活保護や雇用保険のようなセーフティーネットの充実も必要ではないか。 「社会保障費」は単純に目の敵にすればいいというものではない。 国民会議は「がっかり」 社会保障制度改革国民会議は、民主党政権下で消費税率引き上げ法案を通すに際して、社会保障問題を棚上げするために作られた、と筆者は理解している。先入観を持って眺めるのは、委員の諸先生方に対して失礼かもしれないが、個々に立派な専門家たちによる会議であっても、もともとの意見の異なる、しかもそれぞれに多忙で他の仕事を抱える専門家を15人も集めた会議で、クリエイティブで深い議論ができるはずがない(事務局がコントロールすることになるだろう)。 かつて民主党が、本気で、社会保障が大事だ、あるいは年金制度を本当に抜本的に変えようと考えていたのなら、政権交替の直後に法案を通すのでなければ、変えようがないことが明らかだった。 この問題に限らず、国民の側では、「有識者の会議ができるということは、今すぐに何かを決めて、実行する気はないのだな」と理解するくらいで丁度いい。 案の定、同会議の最終報告書は、たとえばデフレで機能しない欠陥を抱えていた公的年金のマクロ経済スライドの手直しの実施さえも時期を曖昧にするような、現状維持的で中途半端なものになった。 民主党への政権交代は、年金をはじめとする社会保障改革に関して「失われた3年」をもたらしただけだったし、率直に言って、安倍政権も、デフレ脱却ほどに、社会保障改革に熱心であるとは思えない。 現実を考えるなら、物事には順番がある。 我が国の社会保障の抜本的な改革は、安倍政権の次、またはその次くらいの政権が取り組むテーマになるのだろう。 シンプルなセーフティーネット 将来の首相候補として小泉進次郎氏が世間の人気を博していることは周知の通りだ。実際に首相になるのかどうかは、筆者には分からないが、近い将来、彼が日本の進路に影響力のある政治家になることを期待してもいいだろう。 だとすると、小泉進次郎氏に是非知っておいてほしいことがある。 それは、「実質的な政府の大きさ」は政府支出の大きさだけで決まるものではないということであり、「非裁量的支出」の役割だ。これは、特に、社会保障を考える上では重要なポイントとなる。 親子共にインパクトのあるワンフレーズがお好きと思えるので、もっと直裁にいうと、小泉進次郎氏に、理解し、目指してほしいのは「ベーシックインカム」だ。 ベーシックインカムとは、国民一人一人に機械的に現金を給付する政策だ。たとえば、一人に毎月5万円を給付するとしよう。これで、年金、生活保護、雇用保険などの社会保障支出を全て置き換えることを考えてみよう。 仮に、4人家族だとすると、毎月20万円ということだから、贅沢はできないかもしれないが、工夫すれば十分健康な生活ができるのではないか。 独身の若者の場合、何人かでルームシェアで住むことを考えてもいいだろうし、一人5万円で足りない場合は、アルバイトなどをすることになろうが、アルバイトだけで暮らすよりは随分楽だ。 ベーシックインカムは、シンプルで利用者にとって予測しやすい、つまりは利用しやすいセーフティーネットだ。 ついでに言うと、ベーシックインカムでは、生活保護の給付を受けるために必要な手続きや自治体との駆け引きも要らないし、生活保護を受けることにともなう「恥」のような余計な感情を持つ必要がない。 年金をベーシックインカムに置き換えることをどう考えるかだが、そもそも賦課方式の年金の給付は、年齢による差別がある生活保護給付だと考えていい。高齢でも元気な人もいれば、まだ高齢者の域でなくて不元気な人もいる。彼らを年齢で区別するのは、フェアとはいえまい。 なお、ベーシックインカムだけでは老後の生活費が足りないという人のためには、個人型確定拠出年金のような老後に備えた自助努力を支援するシステムを追加すれば十分な補完になる。 また、ベーシックインカムは現金を給付するので、その使い途は、個々人の自由だ。食費でも、子どもの教育費でも、寄付でも構わない。お金の使い途に関して、国の介入がない。受け取る側の自由は制限されない。 ベーシックインカム、さらに数々の長所 仮に、一人一月5万円のベーシックインカムを全国民に支給するなら、年間の総支出額は約75兆円だ。これは、全社会保障給付支出がざっと100兆円でそのうち約30兆円が医療費関係だから、年金、生活保護などの支出は既に約70兆円あり、これを置き換えるなら「一月5万円のベーシック・インカム」の実現のために追加的に必要なお金は数兆円のオーダーだ。財源的には、十分実現可能である。 ベーシックインカムは、しばしば二つの誤解を受ける。これが「悪平等的なバラマキ」ではないかという誤解と、ベーシックインカムがあると「人々に勤労意欲がなくなるのではないか」という誤解だ。 支出面だけを見るとベーシックインカムは究極のバラマキとでも呼びたくなるフラットな仕組みだが、ベーシックインカムを理解する上で重要なポイントは、「税負担とベーシックインカムを合わせて見る」ということだ。再分配は「差し引き」で理解すべきだ。 たとえば高額所得者にベーシックインカムは必要ないだろう。だが、高額所得者に対しては、十分フェアだと思えるレベルまで、ベーシックインカムの分も考慮した税金を課せばいい。 すると、個々の国民の側では、税金の「出」とベーシックインカムの「入り」のお金の「出・入り」両方が生じることになるが、ベーシックインカムは審査も手続きも不要であり、端的に言って、現在、年金や生活保護に関わっている役人の相当数が不要になる。 年金保険料を税金に変えて税務当局がまとめて徴収し、年金給付がベーシックインカムに代わると、社会保険庁の年金に関わる役人は全て必要がなくなる。地方自治体で生活保護に関わる役人の仕事もなくすることができる。こう言うと、小泉進次郎氏もベーシックインカムの魅力を感じてくださるのではないだろうか。 ベーシックインカムは、官僚の裁量を減らし、仕事を減らし、ひいては官僚の人数を減らす上で極めて強力な武器なのだ。小泉純一郎首相時代に流行った少々古い言葉でいう「構造改革」にとっての最強のツールだといってもいい。 ベーシックインカムがあると勤労意欲がなくなるというのも誤解だ。確かに、ベーシックインカムの支給水準を働かなくても贅沢な暮らしができるくらいまで上げることができると、働かなくなる人が増えるだろう。 しかし、そもそも財源的にそこまで上げることができないだろうし、そこまで上げる必要もない。個々の国民は、一定の最低限を確保した上で、追加的に働くと、税引き後の可処分所得を増やすことができる。たぶん勤労意欲は失われないだろうし、問題があればベーシックインカムを適切な水準に調整すればいい。 なお、多くの人が不本意な労働をしなくても豊かに暮らせるのは「いい社会」だ。「働かざる者、食うべからず(=死んでも仕方がない)」という社会よりも、「働かない者も、生きていける」社会の方がいいのは明らかだろう。 ベーシックインカムで国民が「強いられた労働」に使う時間が減ると、文化がより栄えて、楽しい社会になるのではないだろうか。 仮に、ベーシックインカムを出し過ぎてしまった場合には、後から、増税して回収してもいいし、ベーシックインカムを減らして調整してもいい。 やりとりするのはお金なので、たとえば公共事業を通じた再配分のように、利用の少ない道路や建物を作るような不可逆的な無駄が社会的に発生しにくい。再分配の失敗を後からローコストに修正できる点でも、ベーシックインカムはいい。 ベーシックインカムの心 たとえば、年金・生活保護・雇用保険の主要部分をベーシックインカムに集約した政府を考えると、この仕事に関わる官僚はごく僅かな人数しか必要ないことが想像できよう。 たとえば、ベーシックインカムで100兆円配るがそれに関わる公務員が1000人である政府と、社会保障支出は70兆円だが、それに関わる公務員が1万人いる政府とでは、実質的にどちらが「大きな政府」だろうか。 大きな政府が問題なのは、政府による支出が、人的資源の配分も含めて、非効率的な資源配分を生みやすいからだ。富の再分配自体は社会的に合意ができる限り問題にするには及ばない。 そう考えると、官僚や政治家が関わる「裁量的支出」の大きさと非効率こそが「大きな政府」の真の問題で、ベーシックインカムのような給付にもお金の使途にも裁量が及ばない支出は、仮に規模が大きいとしても、資源配分の非効率にはつながりにくい。 政府の大きさを考える場合、富の再配分の大きさに注目するか、社会的資源配分に対する政府の裁量の大きさに注目するかで、結果は大いに異なる。 たとえば、組み合わせとしては、ベーシックインカムを大きな額にして再配分を大きくしても、官僚による裁量は小さい制度を構築することが可能だ。これは、資源配分への介入規模の意味では「小さな政府」による制度であり、キャッチフレーズ的にいうと「大きな福祉、小さな政府」あるいは「小さな政府で、優しい社会」の実現が可能であることを意味する(小泉進次郎氏なら、もっと魅力的なフレーズを生むだろう)。 他方、ベーシックインカム、あるいはベーシックインカム的な制度は、官僚が関与する余地が小さく、官僚にとってのメリットが少なく、しかも官僚が使える他の予算を圧迫するので、立法から実施要領を決めるプロセスのどこかに官僚を関与させると実現しない。たとえば、民主党の「子ども手当」はベーシックインカム的な非裁量的再分配政策だったが、官僚に骨抜きにされて、児童手当に戻されてしまった。 率直にいって、ベーシックインカムは、実現すると素晴らしいが、極めて実現しにくい制度である。 たとえば、年金なのに注目した場合、現時点ないし近未来の年金受給者と小泉進次郎氏の同世代との有利・不利は、特に後者世代にとって制度自体への不信につながりかねないくらいに大きくなっている。社会全体の効率性を確保しつつ、社会保障を含む富の再分配制度を再構築するために、ベーシックインカムは少なくとも有力なアイデアを提供する。 ベーシックインカムは、小泉純一郎氏が執念を燃やした「郵政民営化」よりも遥かにスケールが大きい、より徹底した構造改革の手段だ。これこそ、小泉進次郎氏のライフワークにふさわしいと思うのだが、いかがだろうか。小泉進次郎氏には、まずベーシックインカムの心を理解して、「ベーシックインカム的」な(非裁量的で、現金給付的な)政策を実現してほしいし、ゆくゆくはベーシックインカムそのものの実現を目指してほしい。 日本の規模の社会でベーシックインカムを実現することができるなら、これは、世界に誇っていい歴史的偉業ではないだろうか。 |