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<日本が、人類滅亡の悪の宗家になってはならない!>昭和天皇は軍部の核兵器開発を中止するように命じた
http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/215.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 8 月 07 日 06:23:50: 8rnauVNerwl2s
 


「数カ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。

それでは、人類滅亡の悪の宗家に日本がなるではないか。

またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築きあげたところだ。

そのような場所に新兵器を使用することには賛成できない。」(昭和天皇)
 
 
 
「終戦の季節」がやってきた。
もし、「日本人」だったら参考リンクの「鄭春河さんの遺稿」を読んでください。


■考察の杜から
 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/general/general_WAGYOU_LABEL.html

・・・
天皇の「原爆に対する態度」を著した資料がある。


1.『昭和天皇』  出雲井晶(いずもいあき)著  日本教文社

2.『日本・原爆開発の真実--究極の終戦秘史』  五島勉(ごとうべん)著  祥伝社

3.『天皇の真実』  河内正臣(こうちまさおみ)著  たま出版


これらの情報源は、昭和20年(1945年)2月当時、海軍航空本部の嘱託、ウラン情報担当だった『岩田幸雄』氏である。

彼は、陸軍大臣『杉山元』(すぎやまはじめ)宅で聞いた極秘の話を故あって公表した。(文末資料:p193)


資料「1」の中に、こんなエピソードがある。


昭和20年2月

『杉山元』元帥が、私邸に来ていた岩田氏にこう言った。

「岩田君、君は軍籍のない一民間人であるにもかかわらず、この戦争では日本軍のため挺身して偉大な貢献をしてくれ心から感謝している。

その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念ながら『新兵器』製造は中止した。

実は『御上』から強いおしかりを受けたのだ。」


・・・
ここで、『新兵器』とはもちろん『原爆』である。

そして『御上』とは、『昭和天皇』であった。


岩田氏は、「記録映画」を使って、杉山元帥に各国の原爆開発事情を伝えていた。(この映像は秘密の記録だった)

それを見た元帥は、こう語ったという。

「自分としては猶予は赦されず、製造を急がせていた。そして完成すれば、最初『ハワイ』に落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画であった」

ところが、「横やり」が入ったというのだ。


日本の原爆開発が本格化した頃、当時の首相、『東条英機』がその旨を昭和天皇に上奏した。

彼は、「起死回生の決定打として、天皇に喜んでいただける」・・・と思っていたようだ。

しかし、

昭和天皇は『意外に強い口調』で反対されたという。


「数カ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。

それでは、人類滅亡の悪の宗家に日本がなるではないか。

またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築きあげたところだ。

そのような場所に新兵器を使用することには賛成できない。」


・・・
叱責を受けた東条は、杉山にこう言った。

「天皇陛下のご意志に反することはできない」


しかし、杉山元帥はこう主張した。

「敗戦となれば日本が滅びてしまい、全てを無くしてしまう」


その論理はこうである。

「参謀総長の立場にある者として、日本を敗戦に導くことはできない。

戦争とは結果において勝利を得ることが肝要であり、今の日本は手段を云々できるときではない。

勝てば天皇にお喜び頂けるに違いない。そして天皇が希求される世界平和を実現できるではないか」(上記資料1)


しかし、東条とは平行線だった。
杉山は、参謀総長を東條に譲って退いた。


ところが、彼がカムバックする機会が訪れる。

同年7月

東条内閣総辞職後、『小磯国昭』内閣が誕生する。

杉山元帥は再び入閣し、陸軍大臣となった。

彼は秘密裏に、再度原爆開発を急がせた。

ところが新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発。

天皇陛下の耳に入った。


杉山元帥は、こう述懐する。

「天皇陛下から呼ばれた私は、『まだやっていたのか!』と強く叱責され、まことに面目なく、これ以上開発を進めることはできなくなった。

私は、日本が勝っても負けてもこの責任は取る覚悟だ。例え勝てたとしても天皇陛下の大御心(おおみごころ)を煩わせた罪は万死に価いする。

さらに多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。

ここで話したことは誰にも話さないでくれ給え。この事を知っている者は、天皇陛下と東条と自分だ。」


・・・
杉山元帥は、敗戦直後自決した。

  天皇は『未来』を見据えていた

大祭司天皇は、日本の神『ヤオヨロズ』の霊を受けて話す。

日本の運命は、悪魔に誘われ大陸に進出した時、すでに決していた。

それを予感していた昭和天皇は、御前会議でもこう言って抵抗していたのだ。

「大陸には出るな」


しかし、軍部の勇み足がそれを無視して暴走した。


外国には、天皇をヒトラーと同一視するような勘違いがあった。

しかし、天皇が政治に介入できたのはわずか三回だけである。


(1) 2.26事件  (「近衛軍を率いて鎮圧する」と言って激怒)

(2) 「張作霖爆殺事件」(天皇は激怒し、内閣が倒れるに至る)

(3) 終戦の決断 (原爆後も「本土決戦」を唱える軍部を押さえた)


それ以外はほとんど、陸軍を中心とする勢力によって押し切られていたのが実態である。軍部が力を握った日本の政治システムで、天皇個人の意向は生かされなかった。

これこそが「日本暴走の図式」である。(天皇の口を封じれば、危機が訪れる)


結局、天皇の原爆製造に抵抗する言葉は、遠い未来・・・日本が苦難を乗り切った後の世に向けた言葉だった。

そしてその姿勢は、ずっと一貫して変わらない。

昭和天皇の「核拡散防止条約」(核防条約)への強い関心は、この精神が産み出したものだ。それは、日本が「核を使う国」として汚名をはせ、日本の神ヤオヨロズの嫌悪を引き起こさないための措置だった。


「核を使う者、核に滅ぶ」

やがて、その因果が世界に知られる日が来るだろう。

その時、日本になぜ「核開発阻止」の力が働いたかが理解される。

それは、民族を護る神ヤオヨロズの先見の明であり、救いだったに違いない。


(資料・昭和天皇の極秘指令:6章  講談社)

<参考リンク>

■原爆開発中止を命じられた昭和天皇  1
 http://www.nicozon.net/watch/sm10961050


■大東亜戦争に勝利した日本
 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-510.html


■大東亜戦争 名言集 - YouTube
 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=EpZOYRxbjHs


■日本を取り戻そう・・・鄭春河さんの遺稿
 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1130.html


■鄭春河さんの遺稿
 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1659.html


※真実の歴史・戦後戦中政治
 

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コメント
 
01. 2013年8月07日 10:40:38 : F1Sr2Hx0Nj
よい投稿です。

02. 2013年8月07日 11:53:57 : lqOPOFnyLE
まったくなにを言いたいのか。
権威を振りかざさなくても、核兵器に未来もなければ、正当さもないことは明白である。

03. 2013年8月07日 12:28:58 : ulCOxFypGs
これは僕も知っていたが、中国か韓国のプロパガンダだと思うが天皇陛下を原爆に結びつけてトンデモ話をする輩がいるのが日本の問題だと僕も思うようになった。

04. 2013年8月07日 13:15:00 : 8NWByD7w0o
先が見えなかった昭和天皇。というより本質が英米の傀儡だったのかも。

核保有国 中国 北朝鮮 インド パキスタン ロシア イギリス フランス アメリカ イスラエル

これらの国同士の戦争は当面ない。核保有は戦争抑止力となることが見えなかった。

開発を続けていれば事後承認で核保有も出来たと思う、日本の国際的立場も上昇していただろう。


05. 2013年8月10日 20:44:59 : uJ8zlHnj5E
この投稿の元ネタのデタラメさは、まあ改めて述べるまでもないことなんだが、改めて一言二言いうんなら、

@当時の日本では原爆一個分の濃縮ウランをえらる可能性などなかった。
Aウラン型原爆は当時の技術水準ではものすごく大きく重たくなるので、核兵器本隊とおんなじくらい重要な運搬手段としてはB29くらいしかなかった。ところがこの記事では「ハワイまで届くロケット(!)」に載せることになってる。当時世界一進歩してたドイツのV2ロケットですら射程三百キロ程度、搭載重量一トン程度だったのに、秋水用のちっぽけな液体燃料ロケットですらヒーヒー言ってた日本に大陸間弾道弾に匹敵する大型ロケットなんか作る技術などあるはずもない。

で、デタラメの指摘はこのくらいとして、だ。


そうかそうか。お前らネトウヨの大好きな昭和天皇は日本が原爆を持つことに反対してたのか。ふーん。じゃあ核武装がしたくてしたくてたまらない田母神とかおまえらネトウヨどもは

  逆  賊

ってことで決定だね。


06. 2013年8月11日 06:33:41 : SlERP3Cgtg
天皇制維持のため、アメと戦って負ける筋書きがあった

からな。
持っていれば報復の可能性があるので、原爆投下はできなかったろう。

ヒロヒトは、平和主義者ではなかった。
戦争経済で,莫大な資産をきづいていた。


7. 2018年6月16日 16:10:40 : F5qHatfTGU : H4ruNkD@u7k[3]
あのときの天皇様は歯切れの悪い仰り様で、自分も含めて「おや?」と思った人は多かったと思う。
今ではその複雑な心境も事情も理解できるが、その頃は日教組の左巻き先生の影響でパヨってたから。
それにつけても、よしりんは当時マトモだったんだね。(今は見る影もないが、誰に弱み握られたんだか)

下記にある、その質問をした広島の放送局の記者さんの気持ちは分かるが、天皇様は投下前からずっと「もう戦争は止めたい」と米国に打診しておられたんだからね。
それを無視して無辜の民に二発も原爆を落としやがったんだよ?
生体実験に使ったということは、日本人を人間とは思ってなかったからに違いない。
わざわざ二種類の爆弾使い分けて腹立つわ。
それゆえ、原爆投下の全責任も罪も当時の亜米利加鬼畜政府にある。当たり前だ。
原爆を使用するのは禁じ手だよ?日本が先に落としたんなら報復されても文句言えないが、やってないのに余りにもひどすぎるじゃんか。
そこをなぜか「戦争した日本政府が悪い」てことで責め立てる被爆団体とか、全く理解しがたい。筋違いもいいとこだ。
本来ならあっちに文句を言って賠償請求をすべきだろうに。

______________


中外日報

天皇に「原爆」を問うた記者逝く

2010年10月2日付 中外日報(社説)
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-shasetu/10/1010/shasetu101002.html
(全文)


その一瞬、思わず顔をこわばらせた人もいたのではないか。昭和五十年十月三十一日、皇居「石橋の間」で行なわれた、昭和天皇、香淳皇后と日本記者クラブとの記者会見の席である。当時、中国放送(本社・広島市)の東京支社勤務だった秋信利彦放送記者は「関連質問」の段階で挙手し、昭和天皇に要旨次のように質問した。

●「戦争終結に当たって、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか」

●このような質問が出ることは、宮内庁に予告されていなかった。各紙の報道によると、天皇は要旨次のように答えられたという。

●「(原爆投下は)遺憾には思うが、戦争中のことであり、広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと思う」

平成十三年、常務を最後に中国放送を退社していた秋信氏を訪ねた時、同氏は筆者に、その時のことを次のように語った。

「広島の記者として、もう少し別の言葉で質問するつもりだったが、あのような表現になった。日本の記者が、被爆に触れないわけにはいかない。原爆をタブーにしてはならないという思いだった」

「広島の記者」の最大の課題は、原爆関連の報道である。秋信氏は、中国新聞(本社・広島市)の故・大牟田稔記者と協力して、その時まで十余年間、被爆者援護問題の取材に当たってきた。昭和天皇への質問はそうした取材経験とは無縁ではない。取材の中心は小頭症児問題だった。

母親の胎内にいる時に被爆すると、脳の発達が妨げられ、頭が小さくて知覚障害を持つ子が生まれることがある。広島では、そのような小頭症児が数十人生まれたと推定される。

昭和三十年代後半の厚生省(当時)は「小頭症は治療を必要とする病気ではない」として、援護の対象としていなかった。秋信氏と大牟田氏は、電波と新聞の両面から援護を求める論陣を張った。約二年後、小頭症は「近距離早期胎内被爆症候群」と認定され、国から「小頭児手当」が支給されることになった。その経過は平成十三年十二月六日付本欄で紹介した。

この間に両氏は、個人の名を挙げる報道をしなかった。それまでの広島の報道姿勢は「どこそこの家に、原爆後遺症とけなげに闘う人がいる」と、個人を対象にしていた。個人報道はややもすると、センセーショナルな特ダネとなり、カンパが寄せられる。だが、後に好ましくない"副作用"を残しがちだ。

だから両氏は、そのような"個の取材"をせず、全体的な視点からの、地味だが着実な報道に徹した。霞ヶ関の官僚は、そのような理詰めの報道を評価する傾向がある。「手当」の支給が決まったことで、身内に小頭症児がいるとの報告が相次いだ。

両氏は、小頭症児とその家族に「きのこ会」を結成させて、相談役を引き受けた。他社の記者仲間から取材の相談を受けると、事情を話し、極力"個の取材"を控えてもらった。

大牟田氏は生前「他社に特ダネを書くなという以上は、私自身も特ダネ報道はできません。だが、それでよかったと思います」と語った。被爆者関連報道で、プライバシーが尊重されるようになったきっかけの一つが「きのこ会」報道にあるとの見方もある。

中国新聞社論説主幹、広島平和文化センター理事長を歴任した大牟田氏が平成十三年に、七十一歳で死去した後、秋信氏はただ一人「きのこ会」相談役にとどまり、小頭症児たちが還暦を過ぎて生き抜く様子を見守ったが、九月十五日、七十五歳で大牟田氏の後を追った。特ダネを報道しないという記者道を貫いた両氏は今"倶会一処"の境地にあるのだろう。

皇族の記者会見の場で、原爆にかかわる質問は、秋信氏以後は出ていない。

___________


かつて日本は美しかった

2010-04-23

昭和天皇の記憶
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100423/1271973800(一部引用)

(略)

●記者「戦争終結に際し広島に原子爆弾が投下されたことを、どのように受け止めれられましたか」

●昭和天皇「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っております。こういう戦争中のことですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」

 ●だいたい言葉のアヤでこのご発言もさまざまな解釈が行われアレコレ言われる類のものです。●小林よしのり氏「昭和天皇論」では米国から帰国直後に米国を非難する発言などできようがなく、映像では昭和天皇は困惑して答えられている、記者の質問が非常識であると述べています。映像をチェックしてみると確かにその御様子が見て取れ、言葉に苦慮されています。質問をした記者は「反皇室」であり仕組んだ質問だったのでしょう。●陛下の御心は「終戦の勅書」にある通りです。

(略)

_________


ぼやきくっくり

外国人から見た日本と日本人(1)

日本と日本人 | author : くっくり | 2007.10.16 Tuesday
http://www.tal.univ-paris3.fr/plurital//travaux-2012-2013/projets-2012-2013-S1/Lucie-Gianola/PAGES-ASPIREES/3/24.html(抜粋)


■鄭春河=台湾人。血書嘆願を携えて志願し大東亜戦争に参戦。戦後の日台交流に多大な功績を残した。2005年逝去。

「大東亜戦争聖戦論」より

 私は生を日本に享けて僅か二十六年の日本人なれど、あくまで祖国を愛します。
 特に自虐的罪悪感をもつ同胞に先づその反省を促したい。
 願わくば、一時も早く目覚めて大義名分を明らかにし、民族の誇りにかけて速やかに戦前の日本人――真の日本国民に戻って下さい。

■彭榮次=台湾・李登輝前総統の側近。

2000年、訪台した小林よしのりに語った言葉

 台湾は数百年もの間、3つの言葉が入り乱れていた。しかし日本によってやっと1つの言葉を得た。そして日本は台湾に「アイデンティティー」という概念と「戦争」というロマンを持ち込んだ。我々はそんなこと考えたことなかったから熱狂した。我々は夢中になったんだ。けど突然見捨てられたんだ「あなたたちは日本人ではありません」(引用者注:日本の敗戦のこと)。

 だから、私たちは親から「お寺に行け」と言われた。昔、道教の寺では中国の古典を教えていた。寺子屋のような感じだったから、そこで中国というものを学んだよ。けど実際に入ってきた中国は全く違った。

 日本は「いさぎよさ」「切腹」の概念を我々台湾人に残していた。中国の価値観は「どんな汚いことをしても生き残る」というものだ。我々台湾人に受け入れられるはずがない。だから、二・二八事件ではその2つの価値観が衝突して負けたんだよ。負けるのは当たり前、だってこっちは「いさぎよく死ぬ」という価値観なんだから。だからみんなバタバタ死んじゃった。

 日本は今、中国とペタペタしてるようだが、日本と中国が仲良くできるはずがない。そのコンフリクトが台湾だ。日本にはすでに死んでしまった価値観が台湾に残ってる。日本が台湾に置いていった価値観だ。我々の世代は下の世代に「言葉(日本語)」を残すことはできなかった。でも価値観は残せたと思う。

 台湾語に「あさり」という言葉がある。日本語でいさぎよいこと…つまり「あっさり」が台湾語として残ったのが「あさり」だ。「あさり」という言葉はそのまま台湾語でホメ言葉になっている。「あさり」は日本が台湾に残した日本精神(リップンチェンシン)なのだ。



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