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「雲泥の差がある日米の“ピカドン・メモリー”
(写真はこちらから拝借)
今日から68年前、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍のエノラ・ゲイ号(B29)が広島市に原子爆弾を投下した。
ウィキによれば、この核兵器一発で、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万〜16万6千人が被爆から2〜4カ月以内に死亡したとされる。
今日の日や、三日後の8月9日の長崎市の原爆は、「原爆の日」あるいは「原爆記念日」という言葉がよく使われる。
毎年今の時期になると、この「原爆の日」、「原爆記念日」、「平和祈念式典」などという言葉に対して少し複雑な心境になる。
「〜の日」とか「〜の記念日」というのは、誕生日・結婚記念日・命日などの個人的な記念日のほか、公的な機関が制定した記念日、地方自治体が自分の地域や特産品などをPRするため・地元で発生した大災害を忘れないよう制定した記念日があるようである。
だから「記念日」なるものが、良いメモリアルと悪いメモリアルの両方に使われることは分っている。
戦争という文脈をひとます横に置いて核兵器を見てみる。
この兵器は生物、無生物を問わず、一瞬のうちに焼き尽くす威力を持ち、生き残った者たちも、遠からず凄惨な死に向かわせる。
この無機的で巨大な殺戮性を思えば、この兵器が30万人以上が集う都市で使われたことを「〜の日」とか「〜記念日」という言葉で意識することは、何となく釈然としない感がある。
自分だけなのかもしれないが、「〜の日」とか「〜記念日」は、日本でも開闢(かいびゃく)以来、数えきれないほど起きていた自然災害や大火災などを記憶する場合なら、妥当だと思う。
だが原爆の都市投下による大量殺戮に「記念日」という日本語を使うのは、なぜか抵抗がある。
原爆が他の爆弾と同様に大量殺戮兵器の一種として考えるなら、ことさら他の兵器と区別することはないようにも思うが、どうやら自分の感情はそのようにはとらえていないようだ。
殺戮兵器に人道的だとか、非人道的だとかいう区別があるのかと言われれば、それまでなのである。
そうは思っても、核兵器はそれまでの通常兵器とは圧倒的に異なる印象を受ける。
剣も、銃も、砲弾も、ミサイルも標的を殺すためにあるが、それでもここには過去から、殺す相手の顔や流れる血を見る。
湾岸戦争では多国籍軍が遠方から電子ゲームのように、画面を見ながら遠隔攻撃をした。
いわゆる電子戦(Electronic Warfare)であるが、ここには戦争につきものの、現場の血生臭ささが捨象され、指令領域にいる軍隊は冷血の極みだと酷評されていたことは記憶に新しい。
湾岸つながりではないが、湾岸署(踊る大捜査線)のドラマですっかり名台詞となった「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」ではないが、「殺戮は現場で起きているんだ!」ということになる。
原子爆弾による瞬間的なジェノサイドには実行する側に“人間の顔”が見えないのだ。
それまでに人類が経験した戦争の血生臭さも阿鼻叫喚も核爆発の一瞬には存在しない。
この部分で核兵器の大量殺戮には人類史的な感情から、とてつもない違和感がある。
しかし、この日について、他に適切な日本語がないのであれば、違和感があっても受け入れるしかない。大事なことは、この原爆の日に人間や他の命の存在に対して一瞬でも敬虔な気持ちになることだと思う。
神州の泉はネコ好きなので、原爆で多くのネコたちが一瞬で蒸散ないし炭化したことも忘れてはいない。
街角や軒下で平和にまどろんでいたネコたちが瞬時に焼き尽くされたことは、人間の炭化とともにむごさを増幅させる。
なぜだろう。ミサイルで破壊された街には語る言葉を持つが、原爆で灰燼に帰した街に対しては言葉がない。
どちらにも破壊と死があるのだけれど・・、心は別のこととして認識している。
原爆は、それが日本に見舞われた瞬間から「ピカドン」という俗称で言われ始めた。
ピカッと光ってからド〜ンと響いたのでピカドンである。
雷光と雷鳴の時間差と同じである。
このピカドンの日が来ると、日本人は毎年平和を祈念する。
だが、これを落としたアメリカ人のほうはどうなんだろうか。
政府レベルでも民間レベルでも、公式には一向に彼らの声が聞こえてこない。
当事国である日米両国のこの差異は何だろうか。
唯一の被爆国という言葉は、多くの日本人が常套句とする。
それならば彼らは核保有国に対して、日本の人類史的な被曝の事実を忘れるなという強いメッセージを発しなければおかしい。
とくにアメリカに対してはそれを強く言うべきである。
ところが、核保有国に対するメッセージをほとんど出さずに、このような悲惨なことが二度と起こらないように祈りますと言いながら、肝心な部分をぼかす。
原爆投下を“過ち”と認識するなら、投下した主体に反省を猛烈に促すのが道理であろう。
主体とはアメリカ合衆国である。
これをなぜ日本がやらないかと言えば、WGIP(戦争贖罪史観)に日本人が浸かっていることと、「閉ざされた言語空間」に幽閉されているからだ。
原爆においても、アメリカ批判はいっさいタブーなのである。
アメリカはアメリカ国内や国際世界に対して、広島・長崎の原爆投下を正当化する。
落とさなければ戦争が長引き、アメリカ将兵50〜100万人の犠牲者が増えていた。
したがって正義の原爆だったという文脈で押し通す。
ここには人類史的な配慮が微塵もない。
アメリカは原爆を落として日本を降伏に導いた後、ニュルンベルグ裁判を凝らした違法軍事法廷「東京裁判」を開廷した。
その後はGHQの占領統治で、執拗なまでに日本悪玉論を日本人に植え付けた。
なぜアメリカは日本人を先天的に極悪な民族として裁かなければならなかったのか!?
ニュルンベルグ裁判とはナチスのユダヤ人虐殺を裁いた法廷である。
アメリカは日本人をナチスのユダヤ人迫害と同じ文脈に仕立てるために極東国際軍事裁判を開いたのである。
戦争は双方にそれを起こす誘因がある。
どちらかが百パーセント悪いということはない。
それがよく分かっているアメリカが、なぜ日本人だけをアジア人を虐待した極悪な民族として裁いたのか考えたことがあるだろうか。
それは自分たちがやった人類史的な原爆ジェノサイドを正当化し、その罪から逃れるためなのである。
1995年、スミソニアン博物館で原爆展示の試みが為されたとき、退役軍人が熾烈に反対したのもこの文脈に含まれる。
いつもこの時期になると、アメリカという国の卑劣さが見えてくる。」
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投稿者 笑坊 日時 2013 年 8 月 06 日 13:54:50: EaaOcpw/cGfrA
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