http://www.asyura2.com/13/senkyo151/msg/809.html
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伝統とは成功した改革の積み重ねであるべきなのだが、改革、改良を無視して、掘っ立て柱で貴重なヒノキを腐らせてもいいという化石思考は常人には理解不能だ。だいたい伊勢神宮の神だってタカミムスヒからアマテラスに変更しているのであり、それをやったのが初代天皇テンムなのだから、それと較べても、掘っ立て方式を礎石方式に変えてヒノキの建物を200年もたすのに、何の躊躇がいるものか。
これだけの壮大で愚劣な無駄使い(今回の遷宮の費用は570億円)も天皇タブーと宗教タブーに拒まれ、ほとんど人はその愚劣を指摘しない。その意味では池澤夏樹の指摘は貴重である。
▼ 2013年7月3日9時33分
(終わりと始まり)伊勢神宮というシステム 池澤夏樹
http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201307020307.html
物見遊山に行こうと思った。
向かう先は、二十年に一度の式年遷宮を目前にして話題の伊勢神宮。これまで未見だったのは、奈良京都から微妙に遠いからか。五十年前の修学旅行のコースには入っていなかった。
見物人はまずここが内宮(ないくう)と外宮(げくう)の二つからなることを教えられる。内宮は日本神話の頂点に立つ太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)り、外宮は豊受大神(とようけおおみかみ)を祀る。
・・・
木造だから寿命が短いというのも説明にはならない。屋根は葺き替えればいいし、柱が掘っ立てで腐食に耐えないというなら礎石を入れればいい。
しかし、明治42年の遷宮の時、礎石を入れては、という提案を明治天皇は退けた。
・・・
▼2013.7.27
式年遷宮
文化
http://pub.ne.jp/yosh/?entry_id=4983850
今年は、伊勢神宮が20年に一度の遷宮、出雲大社が60年に一度の遷宮が行われる年に当たり二つの遷宮が重なります。神力が十全に発揮されるように、社殿や宝物などを一新し、神様に移っていただく重要な儀式です。天照大御神を祀る伊勢神宮は、690年、持統天皇の御代に第1回の式年遷宮が行われ、今年で1300年余になります。
伊勢神宮では明治37年7月、日露戦争のさなかに、時の芳川内務大臣と田中宮内大臣が参内し、「式年遷宮の古法改正」について上奏しました。両大臣は「遷宮の用材の確保が難しくなっています。今度の遷宮では、柱を土中に建てる古法を改め、柱下に礎石を置き、コンクリートで固めれば200年もちます。その間にヒノキが育って、大材を得るのも楽になります」と、遷宮の一種の合理化策を提案しました。しかし、明治天皇はこれを退けました。天皇が侍従に語られたところでは、天皇は「近年、建築法が進歩し、そういうことを言い出す者が必ず出てくると思っていたが、それは大変な間違いだ。神宮はわが国固有の建て方だ。これを見て建国の古いことを知り、祖先があのような質素な建物で立ち居されたこともわかる。現在のこの建て方は永世不変でなくてはいけない。建築法が進歩したからといって、レンガとかコンクリートで造るべきではない」との判断を伝えたそうです。両大臣は優れた識見を持ち、多くの功績を残した人物でしたが、こと遷宮については明治天皇の理解に及ばなかったようです。両大臣の進歩的進言をいれていれば、むろん今日の遷宮はなかったのです。さて、明治天皇は、さらに注目すべき言葉を残しています。「大材が足らないなら御扉(みとびら、正殿の扉)なども一枚板でなければならないわけでもない。継ぎ合わせて形を整えればよい。それに材はヒノキに限らない、他の木でも差し支えない。そうすれば大材が不足することはない」と語られたそうです。「遷宮の外見より精神が大切」との戒めは、噛み締めるべき認識だと伊藤和史氏は書いています。
▼明治天皇 2つの判断 2013-06-03 22:40:25
テーマ:ブログ
http://ameblo.jp/moon-light-shower/entry-11544234783.html
この記事は「変態毎日新聞」の日曜くらぶ
からなんですが
毎日新聞だから…ちょっと嫌ですが
毎日新聞と言えども遷宮の特集をしているらしくNo.8にもなっていました。
今朝、会社で新聞を片付けていて、ふと見つけ
お知らせしたくなりました。
最初の方は省略します。
私が知らせたい部分から
『明治時代では、明治2年、同22年、同42年の3回、遷宮が行われた。
国家の力で古儀への回帰が図られる中、興味深いエピソードがある。
明治37年7月というから、日露戦争のさなかの出来事だ。
芳川顕正内務大臣と田中光顕宮内大臣から「式年造営の古法改正」について上奏があった。
同42年の第57回遷宮以降に関してである。
両大臣は「遷宮の用材の確保が難しくなっています。
今度の遷宮では、柱を土中に建てる古法を改め、柱下に礎石を置きコンクリートで固めれば200年もちます。
その間にヒノキが育って、大材を得るのも楽になります」と、遷宮の一種の合理化策を提案した。
しかし、明治天皇はこれを退けた(「明治天皇紀」)
当時の日野西資博侍従が後年語ったところでは、天皇は
「近年、建築法が進歩し、そういうことを言い出す者が必ず出てくると思っていたが、それは大変な間違いだ。
神宮はわが国固有の建て方だ。
これを見て建国の古いことを知り、祖先があのような質素な建物で立ち居されたこともわかる。
現在のこの建て方は永世不変でなくてはいけない。
建築法が進歩したからといって、れんがとかコンクリートで造るべきではない」との判断を伝えたそうだ。
(「明治天皇の御日常」新学社教友館)
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さて明治天皇は、さらに注目すべき言葉を残している。
「明治天皇の御日常」のそのすぐあとのところで、「大材が足らないなら、御扉(正殿の扉)なども一枚板でなければいけないわけでもない。
継ぎ合わせて形を整えればよい。
それに材はヒノキに限らない、他の木でも差し支えない。
そうすれば大材が不足することはない」と語っているのである。
遷宮の外見より精神が大切との戒めだろう。
かみしめるべき認識だと思う。
【伊藤和史】』
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