05. アサマタロー 2013年8月01日 12:21:37
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道真は実力が有れば、皆が認めると謀略を巡らす人種が居るとは信じなかった。だから、先帝にも助けを求めなかった。それを妬み・存在が邪魔に思われ潰された日本人は有史以来多い。信長も当主になるまで非凡さを隠して生き延びた。日本人の上流階級には道真を嵌めた藤原家系が多い。イサン・トンイそのものだ。 小沢さんももっと刎頚の友が必要だった?学者官僚の宮沢喜一も78歳だった。後、7〜8年は大丈夫。民主党から野田系を追い出し、民主党名が薄汚れたから、労働党で再挑戦!みんな・社民・共産党も入れて連合政権を! 【引用】 一 道真の左遷 世継が語る。 ――この左大臣藤原時平公は、基経公の長男でございます。御母は人康親王の御娘であります。醍醐の帝の御代に、この時平公は左大臣の位で、年もたいそうお若くいらっしゃいました。一方菅原道真公は、右大臣の位でいらっしゃいました。その当時、醍醐帝は御年がたいそうお若くいらっしゃいましたゆえ、左右の大臣に世の政を行うようにとの宣旨をお下しなさりましたが、その頃左大臣時平公はお年が二十八、九ぐらいで、右大臣道真公のお年は五十七、八でいらっしゃったでしょうか。ともども世の政をお執りになりましたが、右大臣道真公は学才もことのほかに優れご立派でいらっしゃり、お心配りも格別に賢明でいらっしゃいました。左大臣時平公はお年も若く、学才もことのほかに劣っていらっしゃったことから、帝の右大臣への御寵遇が格別でおありでしたので、左大臣はそれを穏やかでなくお思いになっていたところに、そうなるべき運命でおありでしたのでしょうか、右大臣の御ためには不都合なことが出来いたしまして、昌泰四年正月二十五日のこと、太宰権帥に任じ申し上げて、道真公は筑前に流されなさいました。 この道真公には、お子さま方が大勢おありでございましたが、姫君たちは婿を迎え、男君たちは皆それぞれの年齢、ご器量に応じて官位を得ていらっしゃいました。その男君たちも皆所を変えて流されなさり悲しいことでしたが、まだ幼くいらっしゃった男君や女君たちは、父君を慕って泣いていらっしゃったので、小さい者たちは差し支えなかろうと、朝廷もお許しになられたので、道真公は一緒にお連れになって筑前にお下りになったのでございますよ。この度の帝のご処置は極めてお厳しかったので、この成人された男君たちを父君とは同じ方向にさえお遣わしになりませんでした。あれにつけこれにつけ道真公はたいそう悲しくお思いになられて、お庭先の梅の花をご覧になって、 こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな (やがて東風が吹いたならおまえの香りを筑前の配所まで送ってくれよ。梅の花よ、主人が居ないからといって春を忘れるなよ) とお詠みになり、また亭子の帝(宇多天皇)には次の歌をお残し申されました。 流れゆくわれはみくづとなりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ (流されてゆく私は、藻屑同様の身となり果てました。畏れながらわが君があの水屑をせき止める柵とならせられて、わが身をとどめて下さいませ) 無実の罪によって、こんなにも処罰なされたことをひどくお嘆きになり続け、そのまま途中の山崎でご乗船の際、出家してしまわれました。その間、きわめて悲しいことがたくさんあったのです。日数が経って都が遠くなるにつれ、しみじみ心細くお思いなされて、 君が住む宿のこずゑをゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや (君が住んでいる屋敷の梢を、このように流されてゆく旅路を行きつつも、それが隠れるまで振り返り振り返り見たことであるよ) とお詠みになりました。 また、播磨の国にご到着なされて、明石の駅という所でお泊まりなさいましたが、そこの駅の長が事の意外に驚き悲しんでいる様子をご覧になって、お作りになった漢詩はまことに悲痛なものでした。 駅 長 無 驚 時 変 改 一 栄 一 落 是 春 秋 (駅長よ、昨日まで大臣として宮中にあった自分が今日は左遷の身となる、この時勢の移り変わりを驚きなさるな。春には百花咲き乱れて一たびは栄えても秋ともなれば万物は凋落する、この春秋の推移の示すところが天の理法なのだ) かくして九州にご到着なされて、しみじみとあわれに心細くお感じになられた夕暮れ時、遠方に所々煙の立つのを御覧になられて、 夕されば野にも山にも立つけぶりなげきよりこそもえまさりけれ (夕方になるとあたりの野にも山にも煙が立ちのぼる。あの煙は私の「嘆き」という木を添えるのでいっそう燃えまさるのであるな) とお詠みになりました。また、雲が浮いて漂っているのを御覧になられて、 山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見るときはなほたのまれぬ (朝に山から離れて飛んでゆく雲が夕方ふたたび山に戻ってくる影を見るときには、諦めてはいるもののそれでもやはり、あの雲のようにもう一度都へ戻れはすまいかと心頼みにされることだ) ともお詠みになりました。また、いくら何でもこのまま終わることはあるまいと、わが境遇をお思いになられたのでありましょう、月の明るい夜に、 海ならずたたへる水のそこまでにきよきこころは月ぞ照らさむ (海どころではなくさらに深くたたえた水の底まで清らかな私の心は、きっと月が照らして明らかにしてくれることであろう) とお詠みになりました。この歌は本当に適切にお詠みになったものですよ。まことにそのとおりで、日月こそはこの潔白の心を照らしてくださるだろうと、さようなお心持ちであったことでしょう。 かように世継の話を聞いてくると、この翁は、まことに政治上の重大な事柄は勿論のこと、こうした歌や詩などの方面までもよどみなく風格のある語り口で言い続け語り続けるので、見聞く人々は目もくらむような気持ちで驚きあきれ、感動しながらじっと見つめていた。物事の事情に通じている人なども、すぐ近くまでにじり寄って脇目もふらず見聞きしている、そんな人々の様子を見て、世継はまるでためておいた糸をぐんぐんたぐり出すように話し続けるが、その有様は稀有なことと言ってよい。繁樹はといえば、これも感に堪えず涙をぬぐいながら興に入っていた。 世継は語り続ける。 ――筑紫の国では住んでいらっしゃる所の御門を固く閉ざして謹慎していらっしゃいます。太宰府の建物ははるか離れておりますが楼上の瓦などが見まいとしても自然御目に入ってきます上に、またすぐ近くに観音寺という寺がありましたのでその鐘の音をお聞きになられてお作りになりました詩が、次の作ですよ。 都 府 楼 纔 看 瓦 色 観 音 寺 只 聴 鐘 声 (本来なら長官として事務を執るべき都府楼を、罪せられた身では近づくことすらできず、わずかにその瓦の色を見るだけだ。また、観音寺に詣でたくとも、同様にただ鐘の音を聞くだけしか許されぬ) この詩は、『白氏文集』にある「遺愛寺鐘欹枕聴 香炉峰雪撥簾看」(遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き、香炉峰の雪は簾を撥げて看る)という詩に勝るぐらいにお作りになられたと、昔の学者たちも申しましたよ。 また、かの筑紫の国で九月九日菊の花を御覧になりました折に――道真公がまだ都にいらっしゃった時、九月の今宵、内裏において菊の宴がありました際、この大臣のお作りになられた詩を帝がいたく感動なさって御衣を下賜なさったのでしたが――その御衣を筑紫まで持ってお下りになっていらっしゃったので、それを御覧になるといよいよその折のことをお思い出しになられてお作りになりました詩、それは次の作です。 去 年 今 夜 侍 清 涼 秋 思 詩 篇 独 断 腸 恩 賜 御 衣 今 在 此 捧 持 毎 日 拝 余 香 (去年の今夜は宮中清涼殿における菊の宴で陛下の御前に侍し、「秋思」の御題で詩一篇を作り断腸の思いを述べました。そして御衣を賜り面目を施しましたが、やがて左遷の身となり今は筑紫におります。しかし、恩賜の御衣は片時も身を離さず今もここにあり、毎日捧持してはその余香を拝しております) この詩は、当時の人々が大変に感心申されました。 ところで、これらの詩はただ散り散りに伝わっているのではありません。あの筑紫の国でお作りになりました詩を書き集めて一巻となさり『後集』(すでに『菅家文草』が編まれていたゆえ)と名づけられたのです。また、歌の方も折々に詠まれたものを書きつけていらっしゃったのですが、それがしぜん世間に漏れ伝わったのです。私がまだ若うございました時、この道真公の御左遷のことがたいそうおいたわしく悲しく存じられましたので、当時大学寮の学生で世に不遇でいられた方をたずねてお願いし承諾を得た上で、相当な袋入りの食料やら折詰めようのものを調えてはお礼代わりに持って参り『後集』など習い覚えたのでしたが、ひどいことに年のせいで、すっかり忘れ果ててしまいましたよ。ここにお話したのは、ただほんのすこし覚えておりましたものです。 こう言うと、聞いていた人々は、「本当にまあ、たいそうな風流人でいらっしゃいますねえ。今どきの人は、そこまで風流を愛することがありましょうか」と言って、口々に褒めあっていた。 世継は、さらに語り続ける。 ――又、雨の降る日、もの思いにふけりながら庭先を眺めやって、次の歌をお詠みになりました。 あめのしたかわける程のなければや著てしぬれ衣ひるよしもなき (雨の降りしきるこの天の下には乾いている所がほんの少しもないからだろうか、無理矢理着せられた無実の濡れ衣は乾かしてはらす術もない) そして、そのまま赦されることなく筑紫でお亡くなりになりましたが、その夜のうちに道真公の御霊がこの都の北野におびただしい数の松をお生やしなさいまして渡り住まれましたのを、ただ今の北野の宮と申しまして、霊威畏るべき荒人神でいらっしゃいます。ですから、帝も行幸なさいまして、たいそう大切にご尊崇申し上げなさるようでございます。 また、筑紫でのご住居は、安楽寺(現在、太宰府天満宮)と申しまして、朝廷より別当や所司など任命なさいまして、たいそう尊い所となっております。 |