http://www.asyura2.com/13/senkyo151/msg/729.html
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HNがないだけでなくIDもいろいろ変わるので、記号的イメージさえ固定化できない相手だが、尖閣諸島領有権問題における見解の違いを、私がその人の問い掛けから逃げている(スルーしている)とか、不誠実な対応をしているなどとなじっている人(以降X氏と表現)に対するレスポンスである。
文章が長くなるので、いくつかに分けて投稿させていただく。
その方に関連するコメント内容ややり取りの経緯は、最後にまとめて提示させていただく。
■ はじめに
尖閣諸島領有権に関するX氏と私の結論の違いは、次のようなものと考えている。
X氏には、氏の見解に対する私の要約に誤りがあれば、修正ないし補足をしていただきたい。
(X氏は、私の論に異議を唱え、これを知っているか、あれは読んだかといったようなことは数多く書かれているが、尖閣諸島領有権問題についてご自身のお考えをまとめて提示はされていないと思っている)
X氏は、尖閣諸島を歴史的に中国(明及び清)の領土とし、日本政府はそれを盗んだと考えられているようである。
私は、尖閣諸島が1894年まで日本及び琉球の領土ではなかったことを認めながらも、それまでの尖閣諸島が近代的意味で中国の領土であったかどうかは不明確であり、仮に中国の領土であったとしても、台湾及び澎湖諸島の日本への割譲を定めた下関条約交渉時はともかく(日本政府が狡猾な対応で隠していたから)、尖閣諸島が沖縄県に組み込まれたことが公知(行政区分や地図発行などで中国が知り得る状況)となった時点(1905年頃と推定)以降、ポツダム宣言受諾→サンフランシスコ講和条約(以降サ条約と表記)→日華平和条約交渉などの重要な節目を含む長い期間(短くみてもおよそ65年間)を経ての71年まで、中国側から日本(及び米国)の実効支配(領有)に対する抗議がなかったことを根拠に、尖閣諸島に対する日本の領有権が確定していると考えている。
中国が、X氏が言うような日本政府の領土編入過程の“瑕疵”や古来の領有権を盾に、尖閣諸島に対する領有権回復を主張できるのは、せいぜい1925年頃まではないかと考えている。
日本が企図した北東アジアにおける中華秩序の崩壊につながった日清戦争の渦中に尖閣諸島を日本領に組み入れた過程は、狡猾で胸を張れるものではないと考えているが、欧米列強に不平等条約の締結を迫られた経験や万国公法的世界で起きた支配をめぐる幾多の争いを考えれば、日本がことさら絶対的な悪であったとか不法行為を働いたといった謗りを受けなければならないことではない。
領土問題については、取られたと思う国家が取り返したり異議を唱えたりすることが要諦であり、事を荒立てないよう秘かに領土に編入したからといって権原がただちに無効となるわけではない。
日清戦争の結末(日本の勝利)が見えてきたなかで隠密に行われた1895年1月の「標杭建設ニ問スル件(閣議を求める請願)」を経ての「標杭を建設する旨の閣議決定(尖閣諸島の領土への編入)」や魚釣島など対象島嶼名を示さないかたち(尖閣諸島を八重山諸島の一部とすることで隠したと推測できる)での勅令「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」(1896年3月)といった尖閣諸島日本領編入過程が国際法的に正当かどうかという問いは、現在における尖閣諸島の領有権問題を判断するにあたって決定的な事柄ではないと考えている。
※ X氏は、1885年に日本領として宣言した大東島の日本領編経緯と尖閣諸島のそれとの違いを問いかけているが、大東島は、中国大陸や台湾から離れており、中国(清)に気を遣うことなく先占の法理を高らかに宣言できる条件にあった。当時は、歴史的経緯や現実的な海軍力の比較(日本劣位)から、日本政府、清に気を遣い緊張関係を高めないようにしていたのである。
台湾からそれほど離れておらず中国語で命名もされている島々(尖閣諸島)を領有するにあたって、当時の日本政府が清とのあいだで事を荒立てないよう秘密裏に動いたことは事実である。下関条約で割譲範囲となる台湾付属島嶼をリストアップしなかったのも、尖閣諸島を既に領有している事実を明らかにしたくなかったからであろう。清も割譲する島々を特定することを断念したのだから、この問題をめぐっては、外交的に評価すればどっちもどっちということになる。
X氏は、私に対し、問い掛けから逃げているとか、不誠実な対応をしているとなじっているが、X氏が尖閣諸島を日本領に編入した経緯を問題視する立場とすれば、私は、それをもって日本のやり方が狡猾と非難することはできても、現在における領有権の正当性とは直接関係しないと考える立場である。
いずれにしろ、中国が日本による尖閣諸島領有に異議を唱えた1971年に至るまで日本の尖閣諸島領有が隠されていたわけでなく、尖閣諸島に古来領有権があったと考えていたかもしれない中国には、尖閣諸島を我が物としている日本に異議を唱える時間はたっぷりあり、とりわけ、台湾及び澎湖諸島が返還されることになった日本敗戦後は格好の機会がいくつもあったはずである。
中国(清・中華民国・中華人民共和国の各政府)が、主権国家として行わなければならない主張を71年まで行わなかったことは、怠慢の謗りを免れることができないだろう。権利は主張してこそ意味を持つ。
このように考えていることから、1895年から数年間の日本領に編入した経緯を問題視するX氏の私に対する質問の回答は、基本的に、次に示す投稿を中心に、過去に行った関連投稿で十分だと思っている。
だからスルーしたり逃げたりしているわけではなく、その投稿を示すことで十分と考え、ことさら詳しい説明はしなかった。
※ 参照投稿
「中国李首相の妄言:戦後国際政治のなかで“ロンダリング”され日本領として確立している尖閣諸島」
http://www.asyura2.com/13/senkyo148/msg/400.html
■ 日本による尖閣諸島領有の正当性
尖閣諸島をめぐる領有権の争いを考える上で参照できる国際司法による判例がある。
フィリピンのミンダナオ島南沖合にあるパルマス島の領有権をめぐってアメリカとオランダが争った「パルマス島事件」に関する常設仲裁裁判所の判決(1928年)である。
その判決は、先占や時効など伝統的な領域権原に拠らずとも、“領域に対する主権の継続的かつ平穏な行使のみで権原として十分に有効”とした。
アメリカは、オランダが支配を開始する前にスペインがパルマス島を発見していることから、米西戦争後フィリピンに対するスペインの権原を継承したアメリカの領土であると主張した。
一方、オランダは、1677年からアメリカとの間で紛争が発生する時点までパルマス島に対し主権を行使してきた事実があり、仮にスペインが発見し領域権原を取得したという経緯があったとしても、スペインの権原は既に失われていると主張した。
常設仲裁裁判所は、“継続的な現実の支配に対する他国とりわけ係争国が示す黙認は支配の平穏性を示す重要な判断要素”と評価し、オランダの主張を認めたのである。
私は、「パルマス島事件」そのものも悪臭が漂う近代的な紛争だと思っているし、個人的価値観として、万国公法的世界観に基づく「無主地先占」などの論理を支持しているわけでもないが、現在の世界はその法理に支えられており、日本も中国もそれを受け容れている。
そうであるなら、パラダイムシフト後の世界はともかく、現実の問題はそれに従って解決すべきだと考えている。
まず、中国(中華人民共和国及び中華民国)は、尖閣諸島が歴史的に中国の領土であり台湾の付属島嶼であると主張している。そうであるなら、下関条約に基づく台湾割譲後に尖閣諸島が台湾から切り離され沖縄県に組み込まれた事実を知り得た時点で、割譲後であっても、日本政府に対し厳重な抗議をしなければならない。
日本を含む列強の圧迫下にあり国内も騒然としていた清や中華民国が、すでに割譲してしまった台湾関連の変化、とりわけ、いくつかの無人島群の行く末を気に掛ける意欲に欠けていたことや、50年後の1945年に日本の敗戦・中国の勝利というどんでん返しが待っていることを想像さえできなかったことは理解できる。
(日本の敗戦がなければ、日中で領有の権原解釈は違っていても、尖閣諸島の領有権問題が浮上することもなかった)
しかし、近代主権国家であるなら、自国の領土に関して無頓着であることは許されず、台湾付属島嶼と考える尖閣諸島が台湾から切り離されて沖縄県に組み込まれたことがわかった時点で厳重に抗議しなければならないのである。
それ以降も、尖閣諸島領有権問題について、中国側がクレームを申し入れる絶好の機会がいくつもあった。
連合国主要メンバーとして対日戦争に勝利した時点、サンフランシスコ講和条約で日本の領土が確定されようとしたとき、日華平和条約交渉時、日米で沖縄返還協定交渉が行われているときなどである。
中華民国は、サ条約発効タイミングで締結された日華平和条約の交渉過程でも、尖閣諸島に対する日本及び米国の実効支配にクレームを付けなかった。
49年に成立した中華人民共和国も、51年のサ条約絡みで領土問題を含む声明を発したが、南沙や西沙については触れながら尖閣諸島については触れていない。
沖縄返還協定交渉の結末をみた時点でようやく、中国は、1895年以降初めて、尖閣諸島の日本領有(支配)に対し抗議を行ったのである。中華民国は、沖縄返還協定が調印(71年6月17日)される直前の6月11日、中華人民共和国は、その年の暮れ12月30日である。
国民党政権との内戦に勝利し、敗戦まで日本領であった台湾と金門島などを除く大半の領域を支配した中国共産党が49年に成立させた中華人民共和国は、71年まで連合国にでの代表権を認められなかったため発言力は抑え込まれ、台湾という限られた領域に追いやられた国民党政権も、米国に支えられることでなんとか存続できる状況にあり、連合国の代表権はあっても主体的な言動は限られており、米国の意向に逆らう言動は困難だった。
日本にしても、6年間もの占領支配を受け、南西諸島などの分離や日米安保条約という名の軍事的支配の継続を受け容れることでようやく独立が許されるという厳しい状況である。
受諾したポツダム宣言の領土にかかわる文言にも縛られ、沖縄などの分離を伴う独立を受け容れざるを得なかったことでもわかるように、領土について強い主張をすることは難しかった。
沖縄返還交渉そのものが、中国の代表権が入れ替わるという国際政治の端境期を意識しながら行われたものである。
(朝鮮戦争の勃発や日本独立(サ講和会議)のタイミングも、中華人民共和国の成立や蒋介石政権の台湾逃避と無関係ではないだろう)
中華人民共和国が連合国(国連)で代表権(安保理常任理事国として)を得たのは71年10月25日である。代表権を失い国際的地位が決定的に低下することがわかっていた中華民国も、言いたいことを言いたかっただろうし、代表権を得た中華人民共和国も、台湾の領土にかかわる問題であってもきっちり発言しなければならないと思ったはずである。
米国は、尖閣諸島について台湾及び澎湖諸島と同時に中国のものとして“返還”したり、沖縄返還協定で尖閣諸島を切り離して中華民国に付与する条件を日本に突きつけたりすることも可能だったが、それを選択せず、日中間の紛争のネタになる決着を選択した。
戦後、アジア諸国の国家間関係を規定する最大のパワーは米国であり続け、尖閣諸島も、米国の軍事力と経済力を基礎とした戦後世界支配構造のなかで利用されたとも言える。
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