05. 2013年7月24日 14:11:23
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選挙時に支持率68%だったら、圧倒的な絶対多数を獲得していたはずだから、妥当な結果 ツイッターで「予測」できた参院選の選挙結果
選挙結果は、実感に近かったですか? 2013年7月24日(水) 慎 泰俊 参議院選の結果が、自分の「実感」に近いものになった人は、読者の中にどれほどいるだろうか。 ツイッターを使っている私の実感は、いつも現実とかなりずれる。去年の衆議院選挙のとき、私のツイッターのタイムラインは「選挙に行こう!」「そうだそうだ!」という声と、「憲法改正は避けるべきだろうし、自民の大勝は怖い」という声であふれていた。しかし、蓋を開けてみれば、投票率は過去最低、結果は(小選挙区という仕組みがあるとはいえ)自民党の圧勝となった。 今日は、ツイッターやフェイスブックといったSNS(交流サイト)を見ながら考えたこの「実感と現実のズレ」と、その可視化について書いてみたい。 山本太郎氏と鈴木寛氏の東京選挙区 今回の参議院選挙において個人的に最も象徴的だったのが、東京選挙区での候補であった山本太郎氏と鈴木寛氏だった。 実は、私のツイッターやフェイスブックから見える風景は、圧倒的な鈴木寛氏支持だった。私がフォローしている人々の多くは、「これまでに必要な法律を通すのに尽力してきた」、「誰も知らないところで最も必要とされている仕組みづくりに尽力してきた」として鈴木寛氏を支持していた。ブログを書いたり、ツイッターやメディアを通じて支持を表明したりとしながら、かなり強烈にサポートしているように見えた。 一方で、山本太郎氏に対してのコメントは冷ややかなもので、「放射能に関する発言には誤解していることが多い」、「大衆扇動をしているだけではないか」と手厳しかった。 しかし、結果は逆。山本太郎氏が当選し、鈴木寛氏は落選した。私のタイムラインは、この結果について「絶望した」、「日本は終わった」と嘆くコメントであふれていた。 以前なら、大手メディアの世論調査ぐらいでしか知ることのできなかった「民意」が、今ならSNSで直接、個人の投稿を通じて見えるようになった。だから、SNSの意見を通じて、大手メディアよりも社会全体がよく見えるに違いない。そんな思いもあったが、現実にはそんなことはなく、むしろ逆だったのだ。 今回の選挙結果は、日本にある「階層」を改めて可視化させてくれたように思える。 ここでいう階層とは、フランスの社会学者であるピエール・ブルデューが、20世紀の古典ともいえる著作“Distinction”において定義したものだ。彼のいう階層というのは、学歴、所得、生まれ、仕事内容、社会的地位などで構成される社会集団のことで、マルクスが言っていたような単純化された階級とは異なる。 ブルデューが豊富なデータとともに示したのは、こういった要素で区分けされた階層間では、音楽のジャンルや、よく買い物にいく店などの「好み」が明確に異なることだった。 こういった定義の階層はもちろん日本にも以前から存在している。そしてSNSを使うことによって、自らが所属している階層以外の意見が以前にも増して見えにくくなっている、というのは多くの人々が指摘するところである。 なぜSNSが私たちの所属する階層を明らかにするかというと、ツイッターでフォローしたり、フェイスブックでつながったりしているのは、学校の同級生だったり、故郷が同じだったり、仕事を一緒にしていたりする人が多いからだ。SNSでは、知らぬ間に自分たちと同じ階層の人だけに囲まれ、相対的に均一化された友人・知人の「好み」を日々、目にすることになる。さらに、フェイスブックなどでは、ユーザーがそこに居心地の良さを感じられるよう、自分にとって心地良いものが画面に表示されやすいようにプログラムが組まれているという。 選挙に見えた「好み」の違い 私がこの選挙で一番強く感じたのは、有権者が特定の候補者に投票する際の「決定要素の違い」にあった。 少し前に、ある政治家が言っていたことを思い出す。 「選挙に強い政治家は、政策や何かよりも、『私たちと一緒に泣き、怒ってくれる』と思われる人だよ。日本の選挙は今も情で動いている。だから、冠婚葬祭に常に顔を出すような政治家が強い」 だが、その人が言っていた「選挙に強い政治家」は、私のタイムラインを見る限りでは、どうも支持を多く集めているようには見えなかった。というのも、私のタイムライン上で発言する有権者は、その候補者が何を言っているか、何をやってきたかで投票先を選ぶような人が多かったからだ。 そしてもし、そういう政治家の取ってきた行動を見ながら投票するような合理的な人が社会におけるサイレントマジョリティだとすれば、鈴木寛氏がこの期間続けてきたインターネット上での討論は、まさにベストな選挙運動である。鈴木氏がネット上で様々な論客と展開してきた公開討論は、筆者が見る限り、かなりの盛り上がりを見せたように思う。 しかし、実際の選挙で鈴木寛氏が落選したことからも分かるように、大多数の人は、候補者の言っていることやしてきたことではなく、もっと単純な「好き嫌い」や「テレビで顔を見たことがある」といったことで人を選ぶのではないだろうか。手を振ったら笑い返してくれた、あるいは握手をしたら感じが良かった、とかいったことだ。いまだに政治の世界では「1握手1票」という言葉があるほどだ。 そうした直感的な投票行動はいいとか悪いとかを、とやかく言えるものでは決してない。それが民主主義の現実でもある。だから自分や自分の周囲の意見と違う結果が出たからといって、それを「衆愚政治」とか「絶望した」と断じるわけにはいかない。やまもといちろう氏が自身のブログで述べているように、不正選挙でないかぎり(今回は一部について公職選挙法違反がささやかれているが)「投票結果はすべて正しい」ということをまず受け止めることから始めるべきだろう。 発言内容よりも印象や感じの良さが勝る あくまで個人的な感想を述べると、確かに山本太郎氏の発言内容には若干共感できないものが多かった。特に原発に関するコメントは、一部の人々がツイッターで指摘していたように若干オーバーな印象で、誤解や、現地の人々に不快感を与えるものが多かったようにみえる。 しかし一方で、筆者がふと通りかかった町で見かけた山本氏の声と立ち居振る舞いからは、何かがあったときに骨を拾ってくれそうな「いいひと感」が醸し出されていた(うがった見方をすれば、元俳優として、そうした演技が得意なだけなのかもしれないが)。そして、山本氏のそうした振る舞いに心を動かされた人が、今回の選挙では多かったのではないだろうか。実際、「言っていることは訳分からないし時々思い込みで話すけど、あいつはいい奴だ」ということで信望を集める人は、世の中にたくさんいる。 SNSの発展によって、私たちはますます自分の見たいと思うものばかりが実際に目に見えるようになり、「見える」からこそ結果としてそれを現実のすべてのように錯覚しやすくなってきている。以前から多くの人が指摘しているようにウェブ上のコミュニティは同質性が高く、それゆえに心地良い空間だ。その中にあっても多少の意見の相違もあるから、一見健全な議論も働いているように感じられるかもしれない。 しかし、2回の選挙と選挙をとりまくSNSの風景が改めて示してくれたことは、私たちの多くが所属しているコミュニティは、どのコミュニティも決して社会全体を代弁できるわけではないということだった。私たちはこのことを常に肝に命じるべきだし、時には居心地の悪い、自分の「階層」の外の世界に目を向け、脚を運ぶ努力も忘れてはならないと感じる。そして、この連載のタイトルである「越境すること」は、ついつい人が陥りがちな極論や独善から脱する一番の方法だと私は考える。すなわち、マイノリティとマジョリティ、ビジネスと非営利、富裕と貧困、国内と国外などをそれぞれ体験してみること。 「SNSのわな」から抜け出す簡単な方法 十分ではないが、手軽な越境体験をする方法をご紹介しよう。私たちの所属する階層の意見と世間全体の意見の齟齬は、同じSNSを使って手軽に確認することができるのだ。やり方は簡単、いくつかのキーワードをツイッターのタイムラインで検索すればよいのだ。 実はこの期間、筆者は鈴木寛氏と山本太郎氏の名前をツイッターのタイムライン検索をして、その結果が表示されるようにしていた。そこで見える風景は私のタイムラインとは全く別のものだったが、選挙結果には思った以上に近かった。他の候補の名前を入力してみても、特に組織票が少ないとされている候補者については似たような結果になった(余談だが、この類の予測で最高の精度を誇るのは、候補者を予想してお金を賭ける「予測市場」だ)。ツイッターも一般化して、当初よりも利用者の層が厚くなった。全体の傾向を知るに耐える範囲をカバーするようになってきたのかもしれない。これは興味深いことで、今行われているであろうデータ分析の結果が楽しみだ。 ツイッターの創業者であるジャック・ドーシーとエヴァン・ウィリアムズが言っていたことを思い出す。「10億のユーザーがいれば、Twitterは地球の鼓動そのものになる。」 |