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2013年07月18日 世相を斬る あいば達也
石原慎太郎よ、シナの属国になりたくないからアメリカの属国がイイと言うのだろうか?隷米属国のフリをして、核武装論かな?そんな餓鬼の戦術など、既に見抜かれているだろうに、どうにもならない情緒論を展開しているが、こうした言葉に血がたぎる人々と云うのは、多かれ少なかれ居るもんだよな。石原や橋下に、日本の政治を任せたら、中国、ロシア、韓国、ASEANを敵に回し、トドノツマリ、アメリカ様も敵に回すことになるだろう。
「過去の先輩はそういう気持ちでこの国をつくってきた。せっかくつくった国を日本の役人が滅ぼそうとしている。役人に使われた自民党がだめにしようとしている。」ここで問題なのは、役人が良いの悪いのではない。“せっかくつくった国 ”って明治維新に取り組んだ連中のことのようだが、石原の民族主義の底の浅さが明確に示されている。“脱亜入欧”それ自体が歴史のボタンの掛け違いなんだよ。安倍も“日本を取り戻す”と言っているが、何処の時代の日本を指しているのか曖昧だ。
安倍も石原も、同次元で“薄っぺら”な歴史認識の民族派である。明治維新以降の日本の歴史に学ぶべき処などありゃしない。欧州の真似事に汲々とした日本民族の姿を目の当たりにするだけではないか。戻るのなら、縄文時代まで戻る気概が必要なんだよ。まぁ徳川幕府でも構わんがね、少なくとも明治維新以降は、参考になる歴史は日本にはない。筆者は、正直欧米型デモクラシーと云うものが、日本人向きな制度だとは、コレッポッチも思っていない。
仮に、日本でデモクラシー的な行為が可能だとすれば、一定の大きさの共同体自治でしか実行しえないと考えている。まぁ、こんなことを今さら言っても、半分意味はないのだが、敢えて言えば、そういう事とになる。“松木けんこうのつぶやき”が良いことを言っている。欧米型デモクラシーも似合わない、グローバル経済も似合わない、金融資本主義も似合わない、それが日本と云う四方八方海に囲まれた国家の原点なのだ、と筆者は思う。何も奪わず、何も奪われずが理想の国家だよ。それが嫌なら、グローバル世界の一員らしく、移民国家まで議論しなければならない。
≪ 外需依存の危うさ
新聞各紙は中国の経済成長の鈍化を伝えています。アベノミクスの売りの一つは「円安」です。
つまりは、円が安くなり、輸出が増えれば、輸出産業が経済を牽引してくれるという「内需」ではなく「外需」に頼る考え方です。 一方で、海外市場は中国のような新興国を中心に政治的にも社会的にも不安定な地域が数多くあります。中国も、一党独裁の政治体制を敷き、法の支配も十分ではありません。
そういった国の市場の拡大をあまりに頼り過ぎることは日本国の舵取りのやり方として正しくありません。
また、自動車や家電産業は勿論日本にとっては重要な産業ですが、一方で「派遣切り問題」に象徴されるように物づくり産業では非正規雇用で低い賃金で働かざるをおえない若者が増えております。
その結果、若い労働者の消費意欲が下がり、国内経済の活気が失われている実態があります。いたずらに外需に頼るのではなく、しっかりと国内消費を増やし、日本経済の足腰を強くする政策が必要です。≫(松木けんこうのつぶやき)
松木けんこうも政治家だから、筆者のような荒唐無稽なことは言えないだろうが、外需依存ではなく、内需中心の国家像を描くと云うことは、実は準鎖国政策に繋がっているのだ。松木や小沢一郎は気づいているけど口に出さないのか、気づいていないのか、それは別にして、経済成長を前提にした国家政策そのものが、幻想なのである。その幻想を追い求めようとしている限り、国家の病状は悪化の一途を辿るのである。合理よりも合意を求めてしまう民族には西洋デモクラシーは、丈の長いズボンを引き摺るような違和感を抱えて無理やり穿いている風情だ。
故にデモクラシーの原理原則は歪んだ形でしか推移しない。山本七平が看破した「空気」の問題に行き着くのである。“すべてを制御し統制し、強力な規範となって、各人の口を封じてしまう現象”に雁字搦めにされているのだから、社会自体がデモクラシー向きではないのだろう。論理的思考が出来る立場の人間でも、情緒的同調性を睨みながら行動するので、結果的に論理的思考は追いやられる。このような民族はどうしても“お上”頼みになるわけだし、“お上”の制御を掻い潜り、自己の欲望を満たすと云う現象を起こす。
このような民族の特性を利用して、維新以降官僚制が跋扈し、現在に至っているのだが、江戸時代においても似たような現象はあったのだろう。おそらく、縄文時代くらいまで戻らないと、日本を取り戻すことは出来ないわけで、開国により、日本と云う国が流浪の旅に就き、永遠に故郷に戻れない根なし草になったことは、明白なのだろう。名誉白人と言われた時代から、日本人は更に腐った。今さら戻る故郷がないのであれば、故郷をつくり直せば良いわけだ。取り戻すのではなく、新たな国家像を創造するしかないのだろう。
そのためにやるべきことは、行政単位の縮小である。自治共同体が成立し得る大きさに変えることだ。押し並べて、そっくりの駅舎を造ったり、同じようなスーパーが林立する街づくりをするべきではないのだ。そのような国家を改めて創造する為には、アングロサクソンの文化をこれ以上取り入れる事は戒めるべきだ。アングロサクソンの価値感から脱出する思考、大きなビジョンを示すのが政治家の務めだ。本来であれば、そのような思想家が生まれるのが一番だが、日本社会では、かなり難しい願望になる。結局政治家が、それを担うしかなさそうだ。ただ、内需重視の政策を追求していけば、意外な形で、自治意識も目覚め、個性的共同体の姿が見えてくるのかもしれない。井上ひさしの「吉里吉里人」がモデルを提供している。
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