http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/877.html
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昨年の記事のようです。しかし、今年も最高裁による協議会が開かれているということです。
「従来の原発訴訟が手続き適法審査にとどまったのに対し、実質的な安全審査に踏み込むべし」ということは、まあより良い方向性へ向いていると思えますが、しかし、現状は「福島第一原発事故を踏まえ、このままでは司法の信頼が揺らぎかねないとの危機感があるとみられる」ということで、日本の一般市民の安全を守るということではない様子です。
日本の司法関係者はやはり危機感をあまり持っていないように見えますね。しかし、現実は相当に日本の現状は危ないのではないでしょうか。
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http://www.azusawa.jp/topics/topics-20121030.html
原発訴訟について最高裁が協議会を開いたことの意味を問う
梓澤和幸
2012年8月31日付東京新聞掲載の記事によると(同日付朝日新聞の短い記事もあった)、 最高裁は司法行政のラインで全国から35人の裁判官を集めて原発訴訟研究会を開いた。研究会は1月26日、27日に開かれた。 過去に行われた原発訴訟では原発の安全性について深刻な疑問が出されていたにもかかわらず、 最終的にはただの一度も原発が差止められることはなかった。このことについて政府・東電への批判だけでなく、 いったい司法は何をしていたのかということについて、厳しく苦しい福島の被害者たちの体験を背景に、鋭い批判が裁判官たちに対して寄せられていた。 その一つの例は、只野靖弁護士による浜岡差止訴訟における判決文を引用した批判である。只野弁護士が引用した判決文とは次のようなものである。
「(地震について)確かに、我々が知り得る歴史上の事象は限られており、 安政東海地震又は宝永東海地震の歴史上の南海トラフ沿いのプレート境界型地震の中で最大の地震でない可能性を全く否定することまではできない」 「しかし、このような抽象的な可能性の域を出ない巨大地震を国の施策上むやみに考慮することは避けなければならない」(判決114頁)
「(地震時には安全システムも同時に故障するという原告の主張について)しかしながら、全体として本件原子炉施設の安全性が確保されるのであれば、 安全評価審査指針が定めるように、安全設計審査指針に基づいて別途設計上の考慮がされることを前提に、 内部事象としての異常事態について単一故障の仮定による安全評価をするという方法をとることも、それ自体として不合理ではない。 そして、原子炉施設においては、安全評価審査指針に基づく安全評価とは別に耐震設計審査指針等の基準を満たすことが要請され、 その基準を満たしていれば安全上重要な施設が同時に複数故障するということはおよそ考えられないのであるから、 安全評価の過程においてまで地震発生を共通原因とした故障の仮定をする必要は認められず、 内部事象としての異常事態について単一故障の仮定をすれば十分であると認められる。 したがって、原告らが主張するようなシュラウドの分離、複数の再循環配管破断の同時発生、複数の主蒸気管の同時破断、 停電時非常用ディーゼル発電機の2台同時起動失敗等の複数同時故障を想定する必要はない。」(原判決106頁)
NPJで只野弁護士の文章を紹介したところ、それはインターネットの世界で深い共感をもって迎えられた。 この共感の奥底にあるものは、かくのごとき批判を受けながら、「ああ私たちも過ちを犯していた」 という声がただの一人として上がってこないという、 この不思議な人々の良心の有様についてである。ただの一つも個人からは上がってこなかった代わりに、 司法行政が人々からの裁判官の内面を問う声への回答として出したのが最高裁主導の研究会である。
東京新聞の記事はいう。35人のうち原発訴訟について7人の裁判官が報告書を出した。 その多数は、従来の原発訴訟が手続き適法審査にとどまったのに対し、実質的な安全審査に踏み込むべしとするものであり、 そのような傾向に対し、異論が出なかったというのである。
報道記事には、「福島第一原発事故を踏まえ、このままでは司法の信頼が揺らぎかねないとの危機感があるとみられる」 という下りがある。 問題は、主語である。誰が抱いた危機感なのか。記事でははっきりしないが、最高裁司法行政当局であると私はみる。 ここで問題がもう一つ登場する。では、今まで原発訴訟の下級審を司法行政当局は事実上その影響力を行使して、圧力を与えてきたのではないか。 今度は少しその手を緩めて安全審査に踏み込もうというのであろうか。
もう一つ私がここで問題にしたいのは、その圧力に事実上屈して、あるいは負けて、 あるいは圧倒されて原告の人たちの悲痛ともいえる警告に背をそむけてきた裁判官たちの良心の問い(sense of guilty)はどうなっているのか、 という問題である。なぜこれを問題にするかというと、今福島第一原発事故の影響によって脱原発、反原発の風が吹いているが、 また別の風が吹けば、そちらにたなびくということが予想されるからである。 それは、司法がもともと持っている力、すなわち裁判官それぞれの良心の力に期待できないからである。 おそらくこの文章は、現職の裁判官または元職の裁判官の目に触れることであろう。 ならば名乗り出て、いや私はこれから良心にのみ従って原発訴訟に対峙しますと言って欲しいものである。
裁判官が、憲法76条の指し示す通り、その良心にのみ従って裁判を進めていれば、福島第一原発事故とそれがもたらす塗炭の苦しみはなかった。
とすれば、それを許してきた専門家知識人、すなわち私たち法律家の罪は決して軽くはない。地獄の劫火に焼かれてもやむを得ないのである。
その痛みをもって、新藤宗幸著 「司法官僚」(岩波新書)の叙述を引用する。
@ 司法官僚として高度に訓練された調査官が、最高裁判決の作成に大きな影響力をもつとされ、 しかも最高裁判事のうちの職業裁判官も司法官僚トップ経験者であるとき、判決が実現の秩序維持に力点を置くものとなるのも当然といえよう(106頁)。
A 一種の 「最高裁見解」 が、事務総局や各事件局主宰の裁判官会同・協議会において示される。 したがって、人事への実質的関与こそが、司法官僚機構にとってプロフェッションである裁判官を操作する有力な手段となっていることは否めないのである (118頁)。
B 事務総局には官房系局にくわえて民事・刑事・行政・家庭の四事件局がもうけられている。 これらの局は全国の地裁・家裁、高裁における判決や裁判官の訴訟指揮についての情報を収集し、その分析をすすめている。 この作業はひとつには法令解釈や訴訟手続きの 「統一性」 をはかるためのものだが、 その情報が個々の裁判官の人事評価情報として人事局に伝達されていると考えるのは、きわめて自然のことであろう(134頁)。
このような文脈で見るとき、事は原発訴訟では終わらないのである。 交通(鉄道、航空)の安全、道路・環境の保全を行政の裁量、行政の定めた水準への適合性審査で終わらせている裁判所の審理のあり方に、 福島第一原発事故が深刻な警告を与えていると見るべきなのである。 かくして安全の根本、環境の根本が問われている事件は、大きな変革を遂げなければならない。
以上述べてきたことは、原発訴訟のみにとどまらず、築地移転訴訟問題や神田駅超高架化差止訴訟問題にも関わることである。 手続の細かい瑕疵が問題なのではなく、問われているのは関係する人々の生命と身体の安全であり、 子どもや孫、そのまた孫といった後世の人々に残す災厄の蓋然性なのである。 判決文を凝らして手続適法性 “だけ” を問うのではなく、原告たちがそれぞれの生活よりも重要な価値として、 訴訟の追行を願っているその真の期待に良心を共鳴させることが求められていると信ずるのである。裁判官のみなさん、是非応答してください。
2012.10.30
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