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2013年07月16日 Electronic Journal
平野貞夫氏は、小沢一郎氏を政治的に「謀殺」しようとした真
犯人を特定するために上梓した新刊書において、5つの仕掛け人
候補を上げています。7月3日のEJ第3581号でご紹介しま
したが、以下に再現します。ここから「仕掛け人候補その1」に
ついての話に入ります。
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仕掛け人候補その1 「政治家」←
仕掛け人候補その2 「官僚」
仕掛け人候補その3 「財界」
仕掛け人候補その4 「巨大メディア」
仕掛け人候補その5 「ジャパンハンドラー」
──平野貞夫著/ビジネス社刊
『新説/小沢一郎謀殺事件/日本の危機は救えるか』
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「仕掛け人候補その1」は政治家です。小沢氏と同じムラの住
人である政治家のなかに犯人がいるというのです。同じムラの住
人であれば、どうしても利害がからんでくるからです。
ある人を好きか嫌いかというのは印象に基づく評価です。その
多くは見た目の印象です。人間というものは、何となくイメージ
の悪い人には近づかないので、その人のことを積極的に知ろうと
しないものです。それだけに、その人のさらなる悪いイメージが
出てくると、さらに距離を取ろうとし、なかにはその人を公然と
批判するようになるのです。
その典型が民主党です。2003年の民由合併時点における民
主党幹部──仙谷、前原、野田、玄葉、安住氏らは、2006年
に小沢氏が代表に就任してからも、同じ党内にいながら、ほとん
ど接触していなかったようなのです。
それが分ったのは、2011年の民主党代表選の直前のことで
す。代表候補の野田佳彦氏は、細川護煕氏を通じて小沢氏に会っ
ていますが、野田氏が小沢氏に会って話すのはそのときがはじめ
てだったというのです。民由合併から8年も経過しているのに、
民主党幹部の野田氏が一度も小沢氏と会って親しく話したことが
なかったのです。それでいて野田氏は小沢批判は何回もやってい
るのです。負け犬の遠吠えです。野田氏にしてそうですから、他
の幹部も同様であったと思われます。
小沢氏が政界入りしたのは1969年です。それから20年後
の1989年に小沢氏は自民党幹事長になっています。その20
年間は小沢氏を批判する人は誰もいなかったのです。小沢氏が政
治家から反感や反発を買うようになったのは、47歳で自民党幹
事長に就任してからのことです。
「反感」や「反発」は、その前段階の「嫌悪」が発展したもの
です。しかし、それが「排除」にまで発展するには、そこに相当
強い動機が働いているものです。これについて平野貞夫氏は自著
で次のように述べています。
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小沢氏を政治の世界から排除、さらにはその謀殺を企図するま
で忌み嫌うとなると、それなりの強い動機が必要である。「謀
殺」はともかくも、単なる「反感」から「排除」にまで動機が
高まるのには、契機がある。それは、小沢氏が「有言実行」の
人だからである。それによって、「いやなやつだ」と小沢氏に
反感を抱いていた多くの政治家が、「この男にいてもらっては
困る」、つまり「反感」から「排除」へと気分が大きく変わっ
たのである。 ──平野貞夫著/ビジネス社刊
『真説/小沢一郎謀殺事件/日本の危機は救えるか』
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平野貞夫氏は、自民党内の小沢排除の仕掛け人は、竹下登元首
相であるとみています。その理由は何かというと、竹下氏が退陣
の置き土産として残した「政治改革」を小沢氏が本気で実行して
しまったからです。
「政治改革」とは、自民党の政治改革推進本部(伊東正義本部
長、後藤田正晴本部長代理)が作成した「政治改革大綱」のこと
です。小沢氏はこの「政治改革大綱」を本気で実現させるべく動
き出したのです。竹下氏はそれを見て愕然とし、それ以後、さま
ざまな局面で小沢潰しを行うようになったのです。
なぜ、竹下氏は小沢潰しを仕掛けたのでしょうか。
小沢氏としては、その「政治改革大綱」には大いに不満があっ
たのです。そこには派閥の解消などは掲げられていたものの、選
挙制度の改革などはぼかされ、全般的にキレイゴトが並んでいる
だけの代物だったからです。
しかし、竹下氏をはじめとする自民党のベテラン議員の多くは
いわゆる55年体制を本音では壊したくなかったのです。なぜな
ら、与党の自民党と野党第一党の社会党は、55年体制の名の下
で、ウラでは実質的に手を組み、自民党の一党独裁を支えていた
からです。そのため、建前としては「政治改革」を唱えるものの
それはあくまで単なるポーズであって、実現は先送りしてきたの
です。その建前の政治改革を小沢氏は本気で実現させようとした
ので、竹下一派は、危険人物として小沢排除に動いたのです。そ
こに深刻な利害の対立があったのです。
宇野首相が女性問題で退任した後の海部政権で幹事長に就任し
た小沢氏は、「政治改革大綱」の作成者である伊東正義氏と後藤
田正晴氏に対し、次のように迫ったといわれます。
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先輩には失礼だが、この改革案はキレイ事ばかり言っていて
一番大事な問題を避けている。それは選挙制度の改革を本気
でやるかどうかです。派閥解消だけをいくら叫んでも派閥は
なくならない。原稿の選挙制度を変えなければならない。
──平野貞夫著の前掲書より
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しかし、選挙制度の改革は、現在の議員定数の削減の動きをみ
ても簡単にはまとまらないのです。自分の議席に関わる問題であ
るからです。 ── [自民党でいいのか/11]
≪画像および関連情報≫
●「死して尚残る竹下登の影響」/竹下登とは何者か
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竹下は、自分の政治手法を、「政治とはハーモナイゼーショ
ン(調整力)である」(「政治とは何か 竹下登回顧録」)
と語っている。つまり、自らビジョンを示して人々を誘導し
たり強圧的な政治を行うトップダウン型ではない。それぞれ
の部署にそれぞれの仕事を任せて自らは気配りや根回しとい
った調整役に徹して合意形成を行うボトムアップ型である。
この竹下の手法には致命的な問題がある。他人からの合意形
成を重視するあまりにリーダーとして組織の目標を掲げない
ことである。そのため、自民党はこの10年間確固たる目標
もなくひたすら利権のみを追求する政党、ハマコーこと浜田
幸一元衆院議員のいうところの「自眠党」になってしまった
のである。しかも竹下は自分の発言に付け入られる隙を作ら
せまいとして常に自分自身の明確な意見を出さなかった。竹
下は自らを表現した「言語明瞭、意味不明」は適切である。
しかし、政治家は自らの言葉で国民に訴えかけることによっ
て国民の信頼を得て政策を実行するのが責務なのに、自分自
身の言葉で語らないということは、政治不信を招くのは明ら
かである。それは今の日本の現状を見れば十分納得できるだ
ろう。 http://www.hit-press.jp/column/sk/sk40.html
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