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東京都教育委員会が先月27日、実教出版(東京)の高校日本史教科書にある一部の記述が、都教委の考えに合わないとして、「使用は適切ではない」とする見解を議決し、それを都立高に通知した問題。
特定の教科書を名指しして、「この教科書は採択するな」といわんばかりの圧力を学校にかける。東京都の教育委員会の「見解」の決議も、各校への通知も、「戦後の教科書をめぐる動きの中でも前例がない。極めて悪質なできごと」(高嶋伸欣琉球大名誉教授)である。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)
高校教科書は、学校が選び、都道府県教委が採否を決めている。どのような教科書を採択するかは、学校現場の要望が最大限尊重されねばならない。生徒たちには、知る権利、学ぶ権利がある。まして、都教委が排除しようとしている教科書は、「日本史」である。これから社会に出、世界にはばたく若者にとって、広く通用する認識を獲得する権利がある。
さらには高校の学校現場には、それぞれ創意工夫をこらした課程やコースなどがあり、教科書の選定は、まさしく日々の授業の充実と生徒のやりがい、育成のかかる高度な選択となる。ゆえに、各校の生徒の志向・進路などを直接知る教科・科目の担当教諭が教科書を選定し、それを各校の「教科書選定委員会」(委員長・校長)が決定し、教育委員会はそれを基本的に認定するというプロセスが採用されている。
子どもたちや教師を軽視し、校長などに圧力をかけ、「都教委の考え」にあわせようとしている点で、まず現代の「教育」の本道から逸脱している。さらに、その「都教委の考え」とやらは、候補とされる日本史の教科書のなかに、「国旗国歌」をめぐる記述で、「自治体で強制の動きがある」という指摘部分があることについて、「都教委の考え方と異なる」と目を吊り上げ、都教委としては「都立高校などで使用することは適切でない」と結論づける見解をまとめ、それをわざわざ決議し、それを根拠に都立高に通知、電話までするなどそて、圧力をかけてまわったというのだから、悪質極まりない。東京都の教育行政の堕落と崩落をそのまま象徴してやまない出来事といえる。
報道によると都教委は、昨年3月以降、各校に「都教委の考えと合わない」と電話で伝えるなどして、13年度の教科書に選定しないよう要求してまわったということのようだ。この被害にあった教科書は、実教出版の日本史Aだ。この教科書は全国で約14%のシェアをもつが、この都教委の立ち回り、そして採択の「最終判断」、つまり最後のハンコを押すのは都教委という仕組みもあり、都立高でこの教科書を選定した高校はなかったともいわれているのである。
この事態は、ひとつの教科書会社の問題ではない。明らかに、そもそも強制などありえないとして成立した「国旗国歌」について、校長を縛り込み、教師たちを萎縮させて、都立高校から平和と自由と民主主義の風土を根こそぎ奪い、さらには生徒たちの思想信条の領域にまで手を染めようとしている。
都教委は、「国旗掲揚、国家斉唱は学習指導要領に基づくもので、適正な実施は児童・生徒の模範となるべき教員の責務。各学校は今回の通知を教科書選定の指針にしてほしい」(TBS)などとして、実教出版の日本史教科書が「日の丸・君が代について一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と正しく指摘していることに「反論」と「自己正当化」を試みているが、すでにこの段階で、日本国憲法が定めた平和主義と民主主義と人権尊重社会の志向から逸脱していることは明らかである。
そのことは、都教委が問題としてしている実教出版の日本史Aの教科書が、11年度の検定で「政府は国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし現実はそうなっていない」としていた部分について、文部科学省の意見がつき、後半を「公務員への強制の動き」などと書き換えて合格している事実が雄弁に物語っている。
都教委が、学校行事で日の丸に向かい君が代を斉唱することを通達で義務付け、従わない職員に対しては「懲戒処分」でのぞむ姿勢を鮮明にしたのは2003年のことで、これに対し都立高校の元教員が思想や良心の自由を保障した憲法に違反するとして訴えを起こした。最高裁は一昨年、都教委の教職員への義務づけの行為について、憲法に違反しないとする判断を示した。ただし最高裁は、翌年の判決では「減給や停職には慎重な考慮が必要」との判断を示していることも、都教委は忘れるべきではない。
また、そうした流れの中で、実教出版の日本史教科書は、一部修正の上、検定に合格しており、同社の教科書は歴史もあり教師や生徒からの信頼も厚い。それを昨年の日本史Aに引き続き、さらに日本史Bの採択時期にあっては、都教委はわざわざ「議決」までして、延べ194校に上るという都立校に直接働きかけ、採択を阻もうとしている。これは明らかな職権乱用であり、都の教育行政の暴走・逸脱行為にほかならない。
最高裁が、都教委の教職員への義務づけについて、憲法に違反しないとの判断を示したのは、教育の公正よりも、教育行政の機構内部における二つの潮流について、機会の公平を確保するよう求めたものと私は解釈している。そこに加えて、「減給や停職には慎重な考慮が必要」との判断が重ねられたわけであるから、なおさら都教委は、校長への圧力やそれを介した教員への恫喝行為について、慎重であることが求められている。にもかかわらず、都教委は、教科書採択の最終確認者である立場を利用し、教師や教育行政の枠組みを踏み越えて、検定済みの教科書を発行する出版社にまで、その圧力・恫喝行為の手を伸ばし、さらにそれを強めようとしているのである。
都教委は私的機関ではない。都立高校も私的機関ではない。品位と節度と信頼が要求される公的機関による公務として、都教委のこうした行為は適切といえるだろうか。社会の同意と信頼を獲得しうる行為と呼べるだろうか。到底、そうとは思えない。
報道によると、今回の一件について、東京都教育庁の金子一彦指導部長は「国歌斉唱が最高裁で合憲とされたことを踏まえれば『強制の動きがある』と記述された教科書を都立学校で使うことはできない」(NHK)と話している。政府は国旗・国歌の制定にあたり、国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにしていた。それは厳然たる歴史的事実である。それでも、東京都の事例のように、学校行事で日の丸に向かい君が代を斉唱することを通達で義務付けてしまう自治体が現れることは、たしかに起こりうるし、現に起きている。
それが憲法の許容範囲であると最高裁が認めたことが、なぜ、そのまま「強制してもよい」と「強制」を許容する都教委の考えに結びつくのか。また、さらに飛躍して、自分たちがやってきたその「事実」についてさえ、なかったことにしようとしているのである。しかしながら、都教委の長年わたる暴走行為を、歴史から抹殺することはできない。
実教出版の日本史Aについては、自らの足元での採択を阻むことができたのかもしれないが、その事実を消し去ることはできないのである。さらに強権をもってこんどの日本史Bについての都立高での採択を阻もうとする、その逸脱行為はもはや断じて許されるものではない。都教委のこの逸脱・暴走行為が、自らの失策・暴走を隠蔽しようとするものなのか、間違いを間違いでなかったと正当化をはかるためなのか、あるいは教育の価値を「国旗掲揚や国歌斉唱」に見出すゆがんだ思想を社会に貫徹させようとする試みなのかは定かではないが、慎重な考慮を欠いた教師に対する厳罰が許容されないのと同様、教科書としての正当に認められた教科書の採択を、妨害する行為も許されることは断じてない。
実教出版の「政府は国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし現実はそうなっていない」の記述には、文部科学省の意見がつき「日の丸・君が代について一部の自治体で公務員への強制の動きがある」とされ検定を合格している。慎重に慎重を求められる教科書検定のこのプロセスの意味も、この事実も、都教委が思うよりはるかに重い。
「日の丸・君が代について一部の自治体で公務員への強制の動きがある」ことは、すでに歴史的事実なのである。いかなる理由があろうとも、それを都教委の独断で覆すことはできない。消しゴムで消せば済むようなことではないのである。都教委の行為は、都教委の扱いの範囲を超えて起きている。都教委は、日本の教科書検定制度に対し、さしたる根拠もないままに、真っ向から難癖をつけてかかる行為ともいえる。
そしてこれは、憲法21条にも深くかかわることであり、事態はすでに教育界、出版界、メディア界を巻き込んでいる。都の教育行政の問題でも、実教出版一社の問題でもなく、教育界、出版界のみにとどまる問題でもない。生徒の未来にかかわり、すなわち日本の未来にかわわっている。日本の民主主義の現状と到達点と底力が問われる、大きな節目ともいえる重要な出来事である。
(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)
http://jcj-daily.seesaa.net/article/368886834.html#more
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