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2013年07月10日 天木直人のブログ
きょう7月10日の毎日新聞「発信箱」というコラムで栗原俊雄という学芸部の記者が教えてくれた。
今何かと話題になっている日本国憲法だが、その前文の前に書かれている「上諭」(じょうゆ)を知っているかと。
そこにはこう書かれていると。
「朕(ちん)は、(中略)帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」
果たして憲法論議に熱心な者たちのどれほどの者がこの「上諭」について知っているだろうか。
栗原氏がこのコラムで言いたい事は。もちろん「上諭」そのものではない。
「上諭」の存在によってあらためて知らされることになる現行憲法が帝国議会によって議決され、昭和天皇によって裁可されたという非民主的な史実である。
そしてこの事が象徴する大日本帝国の残滓は戦後史の日本のいたるところでなお見られる。
つまり戦後の日本は旧日本帝国から決別出来ていないのである。
栗原氏はそのコラムを次のように締めくくっている。
「21日に投開票される参院選の結果、憲法改正がいっそう現実味を帯びるかもしれない。そこで現れてくる新しい憲法案に、どれくらい『帝国』の面影があるのか、注視したい」
しかし、そのような消極的な態度では憲法改悪は防げない。
もし将来のいつの日かに憲法改正が行われるとしたら、その時こそ大日本帝国への回帰ではなく、決別する時だ。
つまり今度の憲法改正は、本当の意味で日本国民が決める憲法となる。
日本ではじめて民主革命の起きる時だ。
そういう積極的な認識を持たなくてはいけない。
その革命が大日本帝国時代に戻るようでは洒落にもならない。
世界の笑いものになる。
今度の憲法改正は戦後われわれ国民が出来なかった大日本帝国からの決別のチャンスだ。
そう考えれば憲法改正についてやる気が出てくる。
自分の手で民主国家日本をつくるという気概が湧いてくる。
大日本帝国時代に戻そう地代錯誤の奴らはどこのどいつだ、許せないということになる。
毎日新聞の栗原記者のコラムはそう思って読むべきである・・・
◇
発信箱:「帝国」の面影を注視=栗原俊雄(学芸部)
http://mainichi.jp/opinion/news/20130710k0000m070115000c.html
毎日新聞 2013年07月10日 00時18分
大日本帝国です。それも21世紀の。「今、どんなことを取材しているんですか」と知人の編集者に聞かれ、そう答えたところ彼はけげんな顔をした(ように見えた)。
敗戦で帝国は瓦解(がかい)した。だが歴史は、上から包丁で切られた羊かんのように垂直に断絶するものではなく、緩やかにつながっていくものだ。
たとえば今、何かと話題の日本国憲法。前文の前にある「上諭(じょうゆ)」をご存じだろうか。「朕(ちん)は、(中略)帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とある。
上諭とは旧憲法下で法律などを公布する際、天皇の裁可があったことを示すために冒頭に付す語だ。日本国憲法はつまり、大日本帝国憲法73条の定める手続きによって改正され、朕=昭和天皇が裁可したものなのだ。天皇主権から国民主権へと、内容は革命的に変わっているが、二つの憲法はつながってもいる。
あるいは、5月15日の当コラムで触れた勲章制度も帝国の遺産だ。日本国憲法前文は国民主権をうたい、これに反する「一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とある。にもかかわらず、帝国時代に制定された「勅令」や「太政官布告」によって運用されている。
変転めまぐるしい近現代史の中で、連綿と続いているものを見つめることで祖国・日本の背骨、本質が立ち現れてくるはずだ。そう確信して、私は「帝国」を探している。
21日に投開票される参院選の結果、憲法改正がいっそう現実味を帯びるかもしれない。そこで現れてくる新しい憲法案に、どれくらい「帝国」の面影があるのか、注視したい。
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