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★孫崎享氏の視点ー<2013/07/07>★ :本音言いまっせー!
今、参議院選挙が行われる。
自民党は原発の再稼働をする。貴方は原発の再稼働に賛成なのか。
自民党はTPPに参加しようとする。貴方はTPPに賛成なのか。
消費税の増税をしようとする。貴方は消費税増税に賛成なのか。
普天間の辺野古基地移転をしようとする。貴方は沖縄県民の意思に
反して実力行使をするのに賛成なのか。
では何故自民党に投票するのか。
いつの間にか選挙の争点をアベノミクスの是非を問うにされている。
操作されている。
しかし、我々の方に操作されたいという気持ちがあるのでないか。
今一度、伊丹万作氏の言葉を読んでみたい。
この問題については第2次大戦後、伊丹丹万作氏が指摘し、
何人かが引用している。極めて貴重な発言なので、共通の財産として
皆で知っておきたい。
底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房 、
初出:「映画春秋 創刊号」1946(昭和21)年8月 入力:鈴木厚司、
校正:田中敬三: 青空文庫作成ファイル
多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えて
だまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだ
といつた人間はまだ一人もいない。
ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。
多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしている
と思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。
たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、
軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされた
というだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされた
というにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る
勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間が
だませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりも
はるかに多かつたにちがいないのである。
しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と
分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、
次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますと
いうようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が
夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、
ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会と
いつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に
協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ
門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、
政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。
普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけた
ような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君で
あつたことを私は忘れない。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に
我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、
だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、
隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、
あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や
労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、
我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、
あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するので
あろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、
国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に
追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。
そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、
ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた
事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、
しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して
書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から
解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、
もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、
半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。
これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。
つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決して
いばつていいこととは、されていないのである。
だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるもの
とがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任も
また(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考える
ほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実
そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど
批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の
一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、
無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度
も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも
自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするも
のである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者に
ゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄
であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、
道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に
対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。
しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚に
のみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に
反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときは
ないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、
一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を
見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを
得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も
何度でもだまされるだろう。(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)
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