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映画「黒い雨」で北村和夫が、「正義の戦争より腐った平和のほうがましだ」という場面がある。
平和というのは基本的に現在を続けるということだから、こんな平和が続くより戦争のほうがましだ、という国民が広範に存在することがありうる。今村昌平は医者の息子という特権階級に生まれ、兵役忌避のために上級の学校に入った。彼の心情はかつての地主階級の側にあり、地主の娘の嫁入りを心配して見せた、ということなのだろうか。その地主の娘が嫁入り道具をそろえる背後には、十俵のうち八俵を年貢にとられる貧困に沈む小作たちの、言葉に翻訳すればこの世界は維持するに値するかという暗い意識が、しかしこの世界についての知識を持たない彼らが決して言葉にしないまま意識の底に沈めてしまった、こんな世界は滅びるべきではないかという、世界に対する否定の意志があったはずだ。
小作制度の廃止、農地解放のためには地主の私的所有権を否定しなければならない。人権の一部を制限しなければならない。今なら、公共の福祉に反しない限り、と但し書きがつく部分だ。「自由」と「民主」は対立する。自由をそのまま放任すれば金持ち・大地主が一人勝ちする世界になる。古代ローマには護民官という制度があったがあれは元老院の貴族・大土地所有者による談合政治(自由主義)から平民を守るためのものでのちに帝政に発展する。平民にとっては中央に強大な権力者・デスポットがいて金持ち貴族大土地所有者から自分たちを保護してくれるほうが(民主主義)良いのだ。
治安維持法はその第一条で、國體ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス、としている。しかし、国体・天皇制と、私有財産制度・資本主義は無矛盾ではない。前者は王権神授説に基づく宗教国家であり、後者は近代・西欧的なブルジョアシステムである。圧倒的な西欧文明・資本主義の圧力にさらされた後発地域がそれに対抗するために古い土着の宗教・権威に拠るということは常にありうる。アラブ世界のイスラム原理主義のような一見復古的、反動的な思想の下に、ある種の社会主義が隠されていたりする。天皇制という、一君万民の共治といった牧歌をつきつめると資本主義を否定する根拠になりうるのではないか、という天皇制原理主義ともいえる思想は決して荒唐無稽な空論ではないと思われた。天皇機関説論争とか、国体明徴運動とかは日本は資本主義をとるのか、反資本主義をとるかという体制の選択をめぐる対立であったと思われる。ファシズムは失敗した社会主義の試みだ、と吉本隆明は数十年前に書いたが、農本ファシストと呼ばれる天皇制原理主義者は反資本主義・社会主義の側に立ち、そして昭和天皇自身は資本主義・ブルジョア民主主義の側に立った。昭和天皇にとって2.26の青年将校たちは偽装された共産主義であった。
イスラム原理主義やキリスト教社会主義では、預言者たちが「神の国」を語ればよかった。しかしあるべき天皇制国家をいくら唱えても、現人神が私はそんなことは言っていない、と言われてしまえばなすすべがない。天皇制ファシストたちはその壁を倒すことができなかった。しかし彼らは国民の経済的に貧しい部分、貧農・小作の恐怖政治を出現させるところまでは詰めて見せた。無謀な戦争で国を滅ぼした、と彼らに非難の声を上げる人たちは大日本帝国が滅びないほうがよかったと思っているのだろう。大日本帝国は滅びるべきであった。国民を豊かにしない国家を滅ぼしたのは彼らの功績であるはずだ。
私の父は農家の三男坊で畑をもらえず、職を求めて都市に流入した細民であり、わたしはその細民の子供だ。私の家にはおいしいものを食べるという文化がなかった。そもそもおいしいという概念を知らなかった。世界が変わっていなかったら私は今もアジアの貧困の底に沈んでいたはずだ。貧民たちは(ぼくらは)自分たちに貧困を強いる世界を何度でも壊すだろう。
近代日本は遅れてきた帝国主義であり、植民地主義のびりのランナーであると同時に、アジアの解放、民族独立運動の先頭ランナーでもあったとよく言われている。北一輝は日清戦争の後、日支同盟を結んで欧米列強の植民地主義と闘えと書いたがそれは美しいが未知の道であった。それに反して欧米のまねをしてアジアに植民地を獲得するのは既知の道であった。近代日本はその二つの道の間を最大限の振幅で揺れた。さらに昭和前期には、それに天皇制共産主義イデオロギーによる世界革命戦争という要素が加わった。天皇制共産主義イデオロギーは結局世界性を持たないと歴史の中で明らかになったが、北一輝の思想は後のGHQの改革を先取りするものであった。マルクスは、革命とは無から有を生み出すものではなく、すでに現在のうちにはらまれている未来の生みの苦しみを短くするのだと書いたが、その言い方を借りれば2.26クーデタで天皇制社会主義国家を成立させるという北一輝のビジョンが最も正解に近かったと思われる。それはまさに「あわやホームランと見まごうばかりの大ファウル」(花田清輝)であった。その企図の崩れた後日本は国家意思を形成できず、もはや国家の体をなしていないといわれる状態で戦争の中を転げまわった。高見順が、日本革命のエネルギーが中国大陸で暴発している、と書いたように。
労働と資本の二つの階級が戦うとき、常にどちらかが勝つとは限らない、共倒れということだってあるといったのはマルクスだったかレーニンだったか忘れた。日本の民衆は革命に勝つことはできなかったが、地主と財閥を両脇に抱きかかえて世界戦争の火の中に飛び込んだ、民衆は生き残ったが地主と財閥は炎の中で焼け死に戦争を生き延びられなかった。310万という犠牲者の数はあまりに多いが彼らの死は無駄な犬死だったのではない。世界は確実に変わったのだ。あの戦争には意味があった。古い世界が滅びた。その恩恵を最も受けているのが私たちだ。
昭和前期軍人たちが、近時国民の栄養状態が劣化している、軍の主力をなす農民の子弟の体格が落ちては強い軍隊は作れない、労働者が腹を減らしていては優秀な武器が作れないと、農民の年貢軽減、労働賃金の上昇を要求したが、これは労働分配率を上げろということだ。軍国主義の言葉で社会主義を語っているのだ。昭和の軍部とアメリカ占領軍の改革は同じ方向を向いていた。アメリカ占領軍のニューディラーたちにとって日本はあたかも満州国のようなもので、彼らはそこで社会主義の実験をした。そしてそれは本国以上に成功した…。
今、あの戦後の高度成長期、人々が働けば働いただけ暮らしが豊かになっていったあの時代を、単なる一過性のエピソードとして過去の歴史の中に封印しようと試みる人たちがいる。そうさせてはならない。日本型経営というのは生産手段の労働者所有ということであり世界史の最先端に立つ、ついに発見された社会主義的所有形態なのだと思われる。
現在においてなお、階級としてのブルジョアジー=資本の所有者は支配者として復活していない。プロレタリア革命は終わってしまった、という吉本隆明の判断は今なお有効性を保っている。この世界には新しい支配者がいるのであり、そこではプロレタリア革命論はもはや有効性を持たない。僕らは永久革命の時代(マルクス)に生きているのだ。
ところで、戦争終結から講和の時期にかけて昭和天皇が「逆コース」の動きに深くかかわっていたことが豊下楢彦らの研究で明らかにされつつある。共産主義革命による皇統の断絶を怖れた昭和天皇は沖縄をアメリカに売り渡して、米軍の長期駐留を望んだのだという。米軍を国内に引き入れて天皇制を守ってもらおうとしたのだ。(そんなことをしたら日本はアメリカの植民地になってしまう。)ところでこのとき彼が怖れた「共産主義革命」は「ソ連の侵略」というより2.26クーデタとそれに期待を込めた貧しい日本国民そのものだ。当初の日米安保条約には「内乱条項」があって米軍は日本の内乱に介入できることになっていた。つまり昭和天皇はアメリカに日本国民を殺してくれと要請していたのだ。
明治維新のとき勝海舟も西郷隆盛も外国の軍事介入を断ったという。内戦に外国勢力を引き込んだら属国になってしまうというのは常識だ。アメリカを日本の宗主国として戴くのは昭和天皇に発するということだ。天皇制というのは万邦無比のわが国体などではなく、革命を逃れて外国に亡命した王様がその外国に祖国を征服してもらって国王に返り咲くというありふれた王家の一つにすぎないのだろう。
「「東京裁判」を読む」を読んでいたら不思議な文章に出会った。というより著者たちが不思議な、と言っている。
白鳥敏夫の憲法論――皇室のキリスト教化と戦争放棄
(前略)2月9日の公判で元駐イタリア大使、白鳥敏夫の弁護資料として提出された不思議な文書がある。(略)
書簡で白鳥は皇室のキリスト教化と戦争放棄の平和憲法制定を訴えている。白鳥は日本の敗戦をかつてのユダヤ王国の滅亡に譬え、日本民族との類似性を指摘する。(略)
ここからは理解しがたい内容だが、キリスト教と神道は共通性があり、それゆえ「日本人もそのままイエスの教義を受け入れて差し支えなきにあらずや」ただ「従来の意味における宗教としてキリスト教が広く日本に行き渡るは容易の技にはこれなかるべく」国民を教導するため天皇が率先してキリスト教に改宗すべきではないかというのだ。
不思議と実現した白鳥敏夫の吉田茂宛書簡の中身
井上 ちょっと余談的な話になりますが、白鳥敏夫の弁護で吉田茂と白鳥の書簡が出てきます。結果的には証拠採用されないんですが、どういうつもりで、白鳥がこういうことを書いていたのか、よくわからない。皇室のキリスト教化と平和憲法が必要であるという。これが昭和20年12月10日付となっている。この時点でこれを書いている。
保阪 白鳥が憲法を作ったなんて話もあるほどです。むろん事実ではありませんが。
半藤 憲法の平和条項は白鳥のプランであるとね。最近しきりにいわれている。
井上 ただ、この二つは不思議と実現しているんですよ。まあ、皇室がキリスト教になったわけではないですが、その後の皇室を囲むキリスト教人脈を予言しているようでもあるし、不思議なんですよ。(後略)
天皇家は日本の文化と伝統を体現することをやめると決めたのだろうか。一木一草にまで天皇制が浸透しているウルトラなナショナリズムなどという日本の民族主義についての評価は実は買い被りの都市伝説にすぎないのではないか。
(何のことを言っているのかわからない方もいらっしゃると思うので、参考になる本をいくつか挙げておきます。
戦時戦後体制論 雨宮昭一
昭和天皇の終戦史 吉田裕
草の根のファシズム
それでも日本人は戦争を選んだ 加藤陽子
「以上のことを歴史認識の問題として捉え返してみると、私たち日本人は、あまりにも安易に次のような歴史認識に寄りかかりながら、戦後史を生きてきたといえるだろう。すなわち、一方の極に常に軍刀をガチャつかせながら威圧を加える粗野で粗暴な軍人を置き、他方の局には国家の前途を憂慮して苦悩するリベラルで合理主義的なシビリアンを置くような歴史認識、そして良心的ではあるが政治的には非力である後者の人々が、軍人グループに力で持ってねじ伏せられていく中で、戦争への道が準備されていったとするような歴史認識である。」吉田
「みなさんは、三十年代の教訓とはなにかと聞かれてすぐに答えられますか。ここでは、二つの点から答えておきましょう。一つには、帝国議会衆議院議員選挙や県会議員選挙の結果などから見るとわかるのですが、一九三七年の日中戦争のころまで、当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革(たとえば、労働者の団結権や団体交渉を認める法律制定など、戦後、GHQによる諸改革で実現された項目を想起してください)を求めていたということです。二つには、民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を当時の国民もまた強く待望していたということです。
しかし戦前の政治システムの下で、国民の生活を豊かにするはずの社会民主主義的な改革への要求が、既成政党、貴族院、枢密院など多くの壁に阻まれて実現できなかったことは、みなさんもよくご存知のはずです。その結果いかなる事態が起こったのか。
社会民主主義的な改革要求は既存の政治システムの下では無理だということで、擬似的な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まっていったのです。そんな馬鹿なという顔をしていますね。しかし陸軍の改革案の中には、自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善など、項目それ自体ではとてもよい社会民主主義的な改革項目が盛られていました。」 加藤
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