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2013年07月04日 Electronic Journal
小沢一郎を「謀殺」しようとしている仕掛け人について述べる
前に、小沢一郎という政治家がどういう政治家であるかについて
述べることにします。小沢氏について知っていただくと、現在の
政治家のレベルの低さがよくわかると思います。
小沢一郎という政治家の政治活動の原点は、次のことを実現す
ることにあります。
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戦後民主主義の誤った内容を正したい
──平野貞夫著/ビジネス社刊
『新説/小沢一郎謀殺事件/日本の危機は救えるか』
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要するに、小沢氏は真の民主主義社会を作りたいのです。その
ためには、戦後の民主主義の誤っていることを正す必要がありま
す。この誤った民主主義では国民は不幸になるし、国家社会は滅
亡する──小沢氏はそう考えているのです。
小沢一郎という政治家は、この原点から一度もぶれることなく
現在でも政治活動をやっているのです。小沢氏が政界に進出した
のは1969年12月27日のことです。父親の突然の死によっ
て、第32回衆議院総選挙に岩手2区から初出馬したのです。そ
のとき、小沢氏は次の公約を掲げて選挙戦を戦い、トップで初当
選を果たしています。
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現代の社会は多種多様化した欲望が生まれ、政治がこれに応え
きれず、国民生活と遊離している。このために政治不信が生ま
れ、社会的に大きな混乱が起きている。さらに政治が無力化し
て官僚に政策決定を任せているため、生き生きとした政治が行
われていない。このままでは日本の行く末は暗澹たるものだ。
こうした弊害をなくするため、まず官僚政治を打破し、政策決
定を政治家の手に取り戻さなくてはならない。政治に新しい考
えを取り入れ、浄化と刷新を行う。
──平野貞夫著の前掲書より
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これを見て驚くことは、小沢氏の公約が現在とまったくぶれて
いないことです。小沢氏が初当選した翌年の3月には大阪万博が
開催されており、日本は高度成長の最盛期にあったのですが、小
沢氏は早くも高度に成長した資本主義の矛盾に気が付き、その修
正が必要だと考えたのです。
1972年には、読売新聞社が安倍晋太郎(現安倍首相の父)
代議士を含む自民党の代議士の論文を集めて掲載した次の書籍を
上梓したのです。
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『自民党改造案/明日の保守政権を考える』
1972年/読売新聞社刊
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実は小沢氏は新人代議士ながらこの企画に応募し、「保守政党
体質改善案」というテーマで論文を書き、本への掲載が認められ
ているのです。その論文において、小沢氏は次の4つの提案をし
ています。
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1.組織面における改革
・党員拡大と党組織の整備
2.資金面における改革
・政治資金の大衆化による財界依存からの脱出
3.政策立案面における改革
・党政調各部会の改組による官僚依存の改善
4.総裁選挙の改善
・米大統領選の予備選方式の導入
──平野貞夫著の前掲書より
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既にこの時点で小沢氏は政治資金の「財界依存からの脱出」を
説き、政策立案面において「官僚依存の改善」を指摘し、政治主
導を主張しているのです。明らかにこの時点で、小沢氏は政治家
として一頭地抜けた存在になっていたのです。
1972年5月には沖縄が返還され、7月には第1次田中角栄
内閣が発足しています。そして、9月には田中首相は中国を訪問
し、日中国交正常化を実現しているのです。
小沢氏は、田中角栄首相の下で政治修業をすることになり、い
わゆる「金竹小」(金丸、竹下、小沢)の金権政治の枠内に入れ
られ、いわゆる田中流政治のよい面と問題点を身をもって体験す
ることになります。しかし、世間は小沢氏を「金竹小」の1人の
金権政治家としてみるようになるのですが、小沢氏自身はその金
権政治の実態を知ることによって、その金権政治からの脱却をそ
の時点で決意するのです。それが、それから約20年後の小沢氏
の自民党離党につながるのです。
しかし、新人代議士の改革案を受け入れるほど自民党は甘くは
なかったのです。1974年には田中金脈騒ぎで田中首相が退陣
し、三木内閣が発足します。そして、1976年にロッキード事
件で田中前首相は逮捕されましたが、自民党の田中派は最大派閥
であり続けたのです。
しかし、小沢氏の党内での出世は年齢が若いということもあっ
て意外に遅かったのです。1975年に三木内閣で科学技術政務
次官、1976年に福田内閣で建設政務次官、1981年に鈴木
内閣で自民党政調会長になり、1985年に第3次中曽根内閣で
自治大臣・国家公安委員長に就任したのです。はじめての大臣就
任です。その年に田中元首相が脳梗塞で倒れています。
1987年に竹下内閣が発足し、小沢氏は内閣官房副長官に就
任します。そして1989年7月に第15回参院選挙で自民党は
大敗し、参院の与野党議席数で逆転され、ねじれの状態になって
しまったのです。その年に発足した海部内閣で、小沢氏は幹事長
に就任するのですが、自民党としてはじめて党運営の困難なとき
の幹事長就任です。 ――─ [自民党でいいのか/04]
≪画像および関連情報≫
●「金竹小」の関係はどうだったか
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もともと、竹下と金丸は国対族として野党とのパイプを築い
ており、自民党が参議院で過半数を割りねじれ国会となった
局面でその重要性を増し、党幹事長の小沢をして公明党・民
社党との折衝に当たらせ、自公民路線を固めて政権運営の道
筋をつけた。この野党両党とのつながりと、当時他派より結
束力が強いと言われていた最大派閥の経世会を背景に、政権
の死命を制する位置にあった。3者は縁戚関係で結ばれ相互
扶助の関係によって日本の政治を動かしていたが、再登板を
狙う竹下と小沢を会長にして更なる世代交代を見据える金丸
・小沢との間に次第に隙間風が吹くようになる。また、海部
内閣退陣表明後に金丸が小沢に後継出馬を強く勧め、小沢が
断ると当時一般人気の高かった派内の橋本龍太郎を差し置い
て他派の宮澤喜一を推すことを金丸・小沢主導で決定するな
どしたことから、両名に反発する機運が派内にも生じた。そ
して金丸が東京佐川急便事件で議員辞職すると、竹下側近の
橋本・小渕恵三・梶山静六らと金丸側近の小沢・羽田孜・渡
部恒三・奥田敬和らの間で派閥の実権を争って、経世会は遂
に分裂に至った。 ──ウィキペディア
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