42. JohnMung 2013年7月03日 19:52:07
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生活の党と小沢一郎氏の「憲法についての考え方」は、下記の通りです。 少々長いですが、時間のあるときにでも、ご一読下さい。 (バカウヨを除く)阿修羅閲覧者のみなさんなら、小沢一郎氏と生活の党は、安倍自民党や石原・橋下維新とは、立ち位置を含めて、まるっきり違うことが分かるでしょう。 ”2013年05月9日「憲法についての考え方」発表” http://www.seikatsu1.jp/activity/diet/act0000062.html 青文字…改憲を検討すべき項目 赤文字…明文で改憲すべき項目 基本的な考え方 (1) 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調という日本国憲法の四大原則は、現在においても守るべき普遍的価値であり、引き続き堅持する。 (2) 国民主権から発する諸原理の安易な改正を認めないという日本国憲法の趣旨から、現行の改正手続規定(96条)は、堅持する。 (3) 日本国憲法の基本理念、原理を堅持したうえで、時代の要請を踏まえ、国連の平和活動、国会、内閣、司法、国と地方、緊急事態の関係で一部見直し、加憲する 第一章(天皇)関係1 天皇の国事行為・公的行為について (1) 国事行為については、基本的に現行の規定を維持しつつ、内閣等による緊急事態宣言を受けた国事行為を追加する。 (2) 公的行為のうち特に重要なものについて憲法上規定した上で、これらの行為について内閣が責任を負うべき旨規定することを検討する。 第二章(戦争の放棄)関係1 自衛権及び自衛隊 ・自衛権及び自衛隊については、現行の規定を維持した上で、下記の解釈を採る。 (1) 外国からの急迫かつ不正な侵害及びそのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に限って、我が国の独立と平和を維持し国民の安全を確保するため、やむを得ず行う必要最小限度の実力行使は、個別的又は集団的な自衛権の行使を含めて、妨げられない。それ以外では武力行使しない。 (2) 上記の自衛権を行使するために必要な最小限度の「自衛力」として、自衛隊を保有することができる。 2 国際協力 (1) 国連の平和維持活動に自衛隊が参加する根拠となる規定を設ける。 (2) 国連の平和維持活動への参加に際しては、実力行使を含むあらゆる手段を通じて、世界平和のために積極的に貢献する旨を規定する。 第三章(国民の権利及び義務)関係1 いわゆる「新しい人権」 (1) 「プライバシー権」・「知る権利」について、その内容を明確にして、憲法に規定する。 (2) 国による「環境保全の責務」を憲法に規定する。 (3) いわゆる「犯罪被害者等への配慮」について、憲法で明記する。 第四章(国会)関係1 二院制及び両議院の役割分担 (1) 二院制を維持しつつ、両議院に求められる役割・性格を理念として明記する。 (2) 法律の制定に関する衆議院の優越規定を改め、「衆議院で可決され、参議院で否決された法律案は、衆議院で過半数で再び可決されたときは、法律となる」とする方向で、検討を加える。 2 国会議員の選出方法 ・両議院の議員とも全国民を代表するという規定は維持しつつ、その選出方法の理念・原則について規定する。 3 議事手続等 (1) 会期制について定める52条を改正し、いわゆる通年国会を実現する。 (2) 本会議開会のための定足数(総議員の3分の1以上)を不要とする。 (3) 国務大臣の国会への出席義務を緩和する。 4 行政監視機能の強化 (1) 会計検査院を国会の附属機関と位置づける(あるいは、会計検査院を改組し、国会の附属機関として、行政監視院を設置する。)。 (2) 政府に対する国会の行政監視機能(違法又は著しく不適切な個別の行政執行に対する是正の勧告を含む。)をさらに実効的なものとするため、野党主導による国政調査権の発動が容易になるよう、いわゆる少数者調査権について規定する。 5 政党条項 ・政党について、憲法に位置づける。 第五章(内閣)関係1 衆議院の解散 (1) 衆議院の解散が内閣の権限であることを明記する。 (2) 衆議院の解散の実体的要件を規定する。 2 内閣総理大臣が欠けたとき等の臨時代理 ・内閣総理大臣が欠けたとき等の臨時代理について、憲法上の根拠規定を置く。 第六章(司法)関係1 憲法裁判所 ・憲法裁判所については、これを設置する方向で、その権限・構成等について検討を加える。 2 弾劾裁判所等 (1) 弾劾裁判所を適正に機能させるため、人事を含めた事務局の在り方その他その組織及び権能について、法律上の措置を含めて検討する。 (2) 検察官等に対しても、裁判官と同様の弾劾の制度を設けることも含め、何らかの措置を講ずることを検討する。 第七章(財政)関係・89条の整理 (1) 私学助成が可能となるように、判例の表現に従って、条文を明確化する。 第八章(地方自治)関係1 国と地方の役割分担 ・地方公共団体が住民の福祉の増進を図る観点から真に必要な施策を自らの判断と責任において策定し及び執行することができるようにするとともに、これに関連し、国の役割は、外交、防衛、司法、危機管理、治安の維持、基幹的な社会資本の整備、地球環境保全その他の国家の根幹に関わる事務に限られることを明記する。 2 地方公共団体の権限 (1) 地方公共団体が住民の福利厚生及び利便性の向上を図るために地域における行政を一貫して自主的・自立的に実施することができることとなるよう、国会を唯一の立法機関と定める第41条の規定を踏まえつつ、地方公共団体の自主立法である条例で国の法律の特例を設けることができる制度(いわゆる「条例の上書き権」)について検討を加える。 (2) 地方公共団体が地域における行政に要する費用を調達することができることとなるよう、地方公共団体の課税権を明記するとともに、地方公共団体の財源確保について規定する。 第九章(改正)関係・現行の規定を維持する。 その他関係・緊急事態 (1) 緊急事態に際し、対応策を迅速かつ強力に推進することができるよう、内閣による緊急事態宣言の根拠規定その他の緊急事態に関する事項について規定する。その際は、法律で定めるべき事項についても、併せて検討を行う。 (2) 大規模テロなどにより、内閣総理大臣を含む全国務大臣が欠けたとき等の臨時代理について、憲法上の根拠規定を置く。 (3) 緊急事態中に国会議員の任期が満了したが物理的に選挙を行うことができず、国会議員が不在となって国家機能の継続に支障を来す場合等を想定し、緊急時における国会議員の任期延長等について検討する。 ”2013年05月9日 憲法についての考え方 Q&A” http://www.seikatsu1.jp/activity/diet/act0000089.html 【総論及び改正要件関係】 憲法改正をどう考えるか(憲法改正論議の現状をどうみるか。憲法についての基本姿勢は。 1.旧来の護憲、改憲というイデオロギー的な議論は不毛である。また、憲法改正要件の緩和を憲法に関する議論を巻き起こす突破口にするという感覚的な議論も不適切である。憲法は国民の生活や財産、人権を守るために定められ、平和な暮らしを実現するための共同体のルールを定めたものであるから、基本原則を守りつつ、時代や環境の変化に応じて必要があれば改正すべきものである。 2.しかしながら、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調という日本国憲法の四大原則は、現在においても守るべき普遍的価値であり、引き続き堅持すべきである。 このような基本理念、原理を堅持した上で、時代の要請を踏まえ、国連の平和維持活動、国会、内閣、司法、国と地方、緊急事態の関係で憲法の規定を一部見直し、足らざるを補う「加憲」をする そもそも憲法をどのような性格のものと認識しているか。 憲法とは、国家以前の普遍的理念である「基本的人権の尊重」を貫徹するため統治権を制約するものであり、我が党は、こうした立憲主義の考え方を基本としている。 占領下で制定された経緯を踏まえて憲法改正についてどう考えるか。 「占領下で制定された憲法は、国民の自由な意思によらずに押しつけられたから無効である」という議論があるのは承知している。しかしながら、日本国憲法における基本理念、原理は、人類普遍のものであり、守られるべき価値観であるとともに、国民の間に定着している。このことをもってすると、占領下だから無効などという粗雑で形式的な議論をすべきではないと考える。(なお、自民党はこの憲法のもとで政権を担ってきたという経緯を忘れてはならない。) 憲法96条の改正について、憲法改正の要件の緩和をどう考えるか。 1.「占領下で制定された憲法は、国民の自由な意思によらずに押しつけられたから無効である」という議論があるのは承知している。しかしながら、日本国憲法における基本理念、原理は、人類普遍のものであり、守られるべき価値観であるとともに、国民の間に定着している。このことをもってすると、占領下だから無効などという粗雑で形式的な議論をすべきではないと考える。(なお、自民党はこの憲法のもとで政権を担ってきたという経緯を忘れてはならない。) 2.しかしながら、憲法は、国家の在り方や国法秩序の基本を定めるもので、国の最高法規である。そのような、国の基本を定める規範は、通常の法律のような、容易に改めることのできる性質のものでないことは言うまでもなく、かつ、最高法規として、その安定性が求められる性質のものである。96条の改正規定は、両議院の3分の2以上の賛成を発議要件としているが、これは、憲法の基本理念、原理を否定するような安易な改正は認めない、という意義を持っている。憲法は普遍的な基本的理念を規定しているものであり、多くのコンセンサスを得た上で改正を行うべき性格のものである。 なお、仮に国会の発議要件を緩和して過半数とした場合には、基本的に政権与党だけで改憲発議が可能となり、統治権に対する制約としての憲法の意味がなくなってしまうことになる。 国会の発議要件を緩和したとしても、国民投票による要件があるのだから、国民の良識に委ねればいいのではないか。
国会の発議要件を過半数に緩和すると、直近の国政選挙で過半数を得た政党が、与党のみの賛成で総選挙後直ちに憲法改正を発議し、国民投票を実施することが可能となる。この場合は、国民投票における投票行動が総選挙における投票行動と類似したものとなり、国民投票が憲法改正のためのハードルとして機能しなくなることが危惧される。 憲法は、国家の在り方や国法秩序の基本を定める最高法規として、安定性が求められる性質のものである。96条の改正規定が両議院の3分の2以上の賛成を発議要件としていることは、憲法の基本理念、原理を否定するような安易な改正は認めない、という意義を持っているものである。 基本理念に係る条項とその他の条項を分けて、改正要件を緩和すればいいのではないか。 1.これは傾聴に値する考え方であり、現に諸外国でも、そのようにしている例もある。 •憲法の全面改正や、国の基本原則などについての改正の場合は、両議院で総選挙をはさんだ2回ずつの議決(3分の2以上)に加えて、国民投票が必要(スペイン) •通常は、両議院の過半数の賛成に加えて3分の2以上の州議会の同意が必要とされるが、一定の条項の改正については、両議院の過半数の賛成に加えて、全州の州議会の同意が必要とされる(カナダ) •通常は下院の3分の2以上の賛成と上院の過半数の賛成が必要とされるが、共和国に関する事項や権利義務に関する規定などの改正については、要求があれば、これに加えて国民投票が必要とされる(ポーランド) しかし、上記の国々にあっても、議会での過半数の賛成+国民投票での過半数のみを要件とする例は見当たらない。そして、憲法の中で、基本理念に関する条項は何か、すなわち、改正要件を他の条項よりも厳しくすべき条項は何かを区分けする必要があり、また、区分けした場合にそれぞれの改正要件を具体的にどのようにすべきかなど、検討すべき課題は多いものと考える。 2.なお、主要国では、硬性憲法であるにもかかわらず、改正がかなり行われていることは事実であり、厳格な改正手続が改正を妨げているという見解は正しくない。その必要性があり、コンセンサスが得られれば、憲法は変えられるものである。 生活の党の憲法改正の方向性のポイントは何か。 我々は、国際貢献の規定を明確に位置付けるとともに、統治機構に関する規定の中には実態に合わない不備な点があるため、改正する必要があると考えている。例えば、以下のような点である。 •国連の平和維持活動に自衛隊が参加する根拠となる規定の整備 •民主的統制の適切な確保の観点からの行政に対する監視機能の強化(会計検査院を改組して行政監視機能も併せて、国会の附属機関として行政監視院を置くこと、いわゆる「少数者調査権」を規定すること、国会の事務組織(各議院の事務局・法制局)による資料提出要求権等の権限を強化すること等) •二院制の維持及び両議院の役割分担の明確化 •衆議院解散の手続及びその実体的要件の規定の整備 •国と地方の役割分担及び地方公共団体の権限の明確化 •緊急事態の際、民主的統制を確保し対処するための規定の整備 現行憲法においては、テロ、災害も含めた緊急事態の下で国家の統治機構が機能不全に陥った場合の規定が空白である。したがって、内閣による緊急事態宣言の根拠規定その他の緊急事態の際、民主的統制を確保し対処するための規定は必要であるとともに、内閣総理大臣を含む全国務大臣が欠けたときも含めた臨時代理についての憲法上の規定も必要である。 【補足】 予備的調査…衆議院のみの制度で、委員会がその議決により、審査又は調査のために必要な調査(予備的調査)を衆議院の調査局長又は法制局長に命ずることができる制度。議員40人以上の要請があれば、委員会は、予備的調査の命令を発しなければならない。省庁の協力を得て実施するが、強制力はない。衆議院規則第56条の2及び第56条の3。 今後の憲法論議について(憲法論議をどう位置付けるか。今後の憲法論議はどうあるべきか。 1.元首は、歴史的には統治権の一部を担う者とされてきたが、現在では、「元首」は様々な性格を有する存在として理解されるようになっている。日本国憲法のもとでの天皇を元首として位置付けるかどうかについては、その権能、性格を踏まえて判断する必要があるが、国民主権のもとで、象徴としての意義を有する存在とするのであれば、ことさらに天皇を元首として規定する必然性には乏しいものと考える。 2.なお、象徴という用語は、異質のものとの間の関係で成り立つ言葉である(同質のものとの関係である「代表」とは異なる。)。日本国及び日本国民統合の象徴であると規定されていることよりすると、主権者たる日本国民とは異なる存在であり、余人をもって天皇となることはできないのであるから、事実上万世一系の血統により天皇が決められていくということになる。 【第二章(戦争の放棄)関係】 9条改正をどう考えるか。
我が国は、国際協調主義をとる。しかしながら、国連の平和維持活動等に自衛隊が参加する根拠規定が憲法上明文では定められていない。また、国連の平和維持活動等への参加に際しての実力行使の可否及びその範囲についての規定もない。したがって、9条3項として、国連の平和維持活動に自衛隊が参加する根拠となる規定及び国連の平和維持活動等への参加に際しては、実力行使を含むあらゆる手段を通じて、世界平和のために積極的に貢献する旨の規定を設けるべきと考える。なお、これは、9条1項が禁止している武力行使(国家意思の発動として行われる実力行使)とは、性質が異なるものと考えている。 国連決議による自衛隊の海外派遣と集団安全保障との関係如何。 国連決議にもとづく自衛隊の海外派遣は、国連による集団安全保障の一環として認められるべきである。このような国連決議を経るという限られた条件の下において、派遣された自衛隊による実力行使については、9条1項が禁止している武力行使(国家意思の発動として行われる実力行使)とは性質が異なるものとして、認めるものとする。 自衛隊を憲法に位置付けるべきではないか。 現行の自衛隊を、必要最小限の自衛力として憲法上明記すべきとすることも、一つの考え方ではある。しかし、自衛隊がそのような存在としてとどまる限りは、現行の取扱いを維持することとしても問題はないものと考える。 なぜ、自民党憲法改正草案の国防軍の規定はだめなのか。 自衛隊は、自衛のための必要最小限の実力を行使する主体として存在するものであり、これを国防軍と呼ぶ必然性はないものと考える。むしろ、国防軍と呼ぶことで、その実体が変わるのではないかとの危惧が生じる。 なお、自民党の改憲案では、9条1項(侵略のための武力行使は放棄するが、自衛又は制裁のための武力行使は放棄しない)は維持しているものの、現行の9条2項(戦力の不保持)に代えて、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と規定することより、自衛権の行使に際して必要最小限度という要件を取り払い、自衛権の名の下に無限定な武力行使を容認することとしている。「国防軍」への名称変更とあわせ、現在の自衛隊からその性格が明確に変容する改憲案となっている。 【補足】 必要最小限度という要件は、安全保障基本法で規定するので大丈夫という議論があるが、このような根本的な事項こそ憲法から導き出されるべきものである 9条と集団的自衛権の行使をどう考えるか。 外国からの急迫かつ不正な侵害及びそのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に限って、憲法9条に則り我が国の独立と平和を維持し国民の安全を確保するため、やむを得ず行う必要最小限度の実力行使は、自衛権の行使として、それが個別的であると集団的であるとを問わず、妨げられない。それ以外では武力を行使しない。 集団的自衛権を認めるのか。 我が党は、「我が国の独立と平和を維持し国民の安全を確保するため、やむを得ず行う必要最小限度の」という厳しい限定を付して、自衛権の行使を認める。そのため、許容される自衛権の行使は、ほとんどの場合個別的自衛権の行使にあたるものと考えられるが、この限定の枠内にある限り、集団的自衛権の行使を否定するものではない。 我が国は、フルスペックな武力を有しているわけではないため、日本の防衛の任に当たる米軍が攻撃された場合や、周辺事態で日本のシーレーンを共同で守る米軍が攻撃された場合など、米軍に対する攻撃を撃退しなければ我が国の安全確保上脅威となる事態も想定される。従来は、これらが個別自衛権の発動か集団的自衛権の発動か、その境界について実益のない議論がされてきたが、平和主義と安全保障の観点からは、これらが「我が国の独立と平和を維持し国民の安全を確保するため、やむを得ず行う必要最小限度の」という要件に該当するか否かを議論することこそが肝要であると考える。 集団的自衛権の行使を解釈により認める理由は何か。なぜ明文改憲によらないのか。 現在の政府解釈では、「自衛のための必要最小限度を超えるもの」は戦力であり、集団的自衛権の行使はそれに当たるとされているが、自衛権行使の「必要最小限度」の質的・量的範囲は、情勢の変化により変わり得る。実態に合わせた適切な解釈のためには、自衛権行使の「必要最小限度」の原則が憲法から導き出せれば足り、また現行の憲法9条からはその趣旨を明確に読み取ることができるため、集団的自衛権と個別的自衛権を細かく区分しようとする議論や、そのような議論に基づいた規定を設けるための憲法改正を行うべき実益はない。 集団的自衛権の範囲(アルジェリア事件のような邦人保護も入るのか。地球の裏側まで行くのか。 単なる邦人保護は入らない。それは犯罪者に対して邦人を保護するというものであり、直ちに我が国の独立と平和に直接的な脅威が及ぶという性格とは別の局面だからである。もちろん、立法論的には、自衛隊が邦人の救出輸送を行うということは考慮すべき事項であるが、その場合の武器使用のあり方は、自衛権の議論とは別に考えるべきことである。 また、我が党は自衛権の行使に際して「我が国の独立と平和を維持し国民の安全を確保するため、やむを得ず行う必要最小限度」という厳しい限定を付しており、自衛のためと称して地球の裏側にまで自衛隊が派遣されることはありえないものと考える。 【第三章(国民の権利及び義務)関係】 新しい人権規定の必要性は何か(13条の総則規定で読めないのか、人権のインフレを招くのではないか。 単時代の要請に対応してその保障の必要性が特に認められるようになった人権については、明文で憲法に規定していくことが適当である。憲法13条は、本来、その保障すべき内容が条文から直ちに導かれるような、具体的な基本的人権を規定した条文ではなく、人権保障の究極の根拠となるべき抽象的条文であり、個別の人権の保障根拠としての13条の意義を過度に重要視すると、13条の意義をかえって矮小化するものとなる。 現行でも、歴史的経緯から様々な権利(公務員の選定罷免権、請願権、表現の自由、身体の拘束及び苦役からの自由等)が個別に規定されている。環境保全の必要性、知る権利、プライバシー権は、現代社会において特に憲法の明文による保障の必要性を打ち出すのに適切なものであると考えられる。 政教分離原則の例外を憲法上明記する必要性はないのか。 政教分離が大前提であり、この点の原則が憲法に明記されていれば足りる。その例外的な場合を正面から明記する必要はない。例外的な判断基準については、判例の積み重ねが存在しており、それに依れば足りる。 【第四章(国会)関係】 衆参の役割分担の方向性及び選挙制度についてどう考えるか。 衆参が同等の権限を有しており、共に同様の選挙により選ばれる現状が、必然的に衆参の違いをなくし、本来の二院制が目指している衆参の機能分担ができなくなっている。したがって、両院に求められる役割・性格を理念として憲法に明記して機能分担を図るとともに、以下のような点について憲法改正を含めて検討することとする。 •内閣総理大臣は衆議院議員から選ぶこととし、議会と内閣の関係を整理する。 •法律の制定に関し、「衆議院で可決され、参議院で否決された法律案は、衆議院で過半数で再び可決されたときは、法律となる。」として、衆議院の優越を強化する。 •参議院の決算審査機能・行政監視機能を重視して必要な権限を強化するとともに、中長期的課題に対する提言機能を強化するため補佐機構の拡充その他の施策を講ずる。 •参議院議員の選挙制度は、上記の参議院の役割を考慮したものとする。 •参議院について、国民代表の性格を維持しつつ、地方代表としての性格をも併せ持つ議院として位置づけ、選挙制度もこれにふさわしいものとする。 【第五章(内閣)関係】 首相公選制をなぜとらないのか。 首相公選制については、以下の理由から、採用すべきではない。 (1) 過去において成功を収めた制度例が未だ存在しないこと。イスラエルでは、首相のリーダーシップの強化をねらって首相公選制が導入されたものの、議会の多党分立化、首相の議会の統制の弱体化、国政停滞を招き、廃止された。 (2) 我が国の場合は、公選の内閣総理大臣の存在が天皇制との緊張関係をはらむこと。公選された首相は大統領のような存在となり、元首的な性格を帯びてくる。また、天皇は、国民の名において、国民に代わって国事行為を行うことから、国の政治の最高権力者を主権者たる国民が直接選ぶのなら、天皇の国事行為その他の関わりは論理的には必要なくなってしまう。 【第八章(地方自治)関係】 道州制についてどう考えるか。 道州制については、連邦制を採らず、現在の単一国家としての国家体制を維持する限り、広域の地方公共団体として道州を位置づけることで、現行憲法の範囲内で実現可能と考える。したがって、仮に道州制を導入することとなった場合でも、憲法改正は必要ないものと考える。 現行憲法92条は「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と規定し、具体的な組織や構成は限定していない。むしろ、時代の進展に伴い広域行政の必要性が高まっていることを踏まえれば、現行憲法は、広域の地方公共団体のあり方を、道州制の導入を含めて、相当程度立法政策に委ねていると解釈すべきである。 道州制と96条(改正規定)の改正の関係についてどう考えるか。 道州制の導入を、憲法改正で実現するとの主張の中には、その前段階として憲法96条を改正することとのパッケージになっているものも見受けられる。このような主張は、現行憲法の理念原則を踏まえた議論というよりは、道州制と絡めて、憲法96条の先行改正の是非を政治的に争点化しようとするものと考えざるを得ない。 なお、(我々は道州制の導入について憲法改正は不要と考えているが、仮に道州制導入に憲法改正が必要だという論旨を取るとしても)憲法改正が必要かどうかは、道州制の具体的内容を検討する中で、その結果として出てくる結論である。道州制の具体的な制度設計を固める前に、まず憲法96条改正が必要などとする主張は、憲法論議としては、いささか冷静さを欠くものと言わざるを得ない。 【その他関係】 憲法に必要な緊急事態の規定は、どのようなものか。 1.現行憲法においては、テロ、災害も含めた緊急事態の下で国家の統治機構が機能不全に陥った場合の規定が空白である。したがって、内閣による緊急事態宣言の根拠規定その他の緊急事態の際、民主的統制を確保し対処するための規定は必要であるとともに、内閣総理大臣を含む全国務大臣が欠けたときも含めた臨時代理についての憲法上の規定も必要である。 2.なお、自民党改憲案の99条3項に「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も…公の機関の指示に従わなければならない」とあるのは、強権的にすぎると考える。このような義務付けは、公共交通機関や医療機関など、一定の公共的な責務を負う者に限定すべきものである。 ”日本国憲法について〜議員間討議〜 第32回総合政策会議(2013年4月24日)” http://www.seikatsu1.jp/activity/diet/act0000054.html 4月24日に開かれた総合政策会議において、生活の党としての憲法に対する考えを、党所属国会議員で議論した。 会議の冒頭、小沢一郎代表は挨拶の中で、「日本国憲法の4つの基本理念、原則は、どのような時代であれ、洋の東西を問わず、普遍的に守らねばならない」と述べた。これを受け、党として「96条の憲法改正規定は維持すべき」という結論に達した。また小沢代表は、「従来の護憲、改憲の論議ではなく、根本に立ち返った議論が肝要」とした上で、「どういう国づくりをするか明示することが必要」と述べた。 議員間討議では、小沢代表が「世の中の状況が変化するにつれて、我々の生活を守り、幸せな社会を維持していくために不都合な部分が生じてきた、ということであれば、みんなで時代に合ったものに変えていくことは当然」との考えを示したことを受け、国連の平和活動、国会、内閣、司法、国と地方、緊急事態の関係での一部見直し、加憲の必要性が話し合われた。 ”憲法改正は憲法の在り方、それに基づく国家像をきちんと明示して議論すべき 小沢一郎代表定例記者会見(2013年4月8日)” http://www.seikatsu1.jp/activity/press/act0000048.html 4月8日(月)、小沢一郎代表が党本部にて定例の記者会見を行いました。会見の要旨は以下の通りです。 【会見要旨】 •主権回復の日について •参院選について •金融政策について •憲法改正について 主権回復の日について Q. 主権回復記念式典について決まったことはあるか。 A. まだ何も決めていないし、党としての出席要請はないそうだ。だから個人個人の話である。 参院選について Q. 憲法改正自体が参院選の争点になるかどうかについて代表の見解は。 A. 自民党の改正草案も見たが、政府・与党が9条を変えようという話である。他はつけだれみたいなところだけで、要は9条だけである。だからそれをあえて争点に、というか政府がやればマスコミの諸君は報道するだろうから、そうすれば争点になるのかもしれないが、それはそれでしっかりと私どもは意見を言っていきたいと思っている。 Q. 岩手県選挙区について、自民党が平野(達男)氏の支援を見送って、もともと予定していた田中氏を擁立することになった。その受け止めと、改めて民主党との共闘について見解を。 A. 自民党がどうであれ、我々としては候補者を擁立するという考え方は変わっていない。ただ民主党の候補者がいなくなってしまったわけだから、その意味で民主党が、ここは協力して、野党で1議席確保しようという話があれば、以前からも言っている通り、それは柔軟に対応するということについて変わりはない。 Q. 候補擁立の関係で、今月内という話だったが、人選についてどうなっているか。 A. 候補者については、我々は所帯が小さいので、全選挙区もちろん立てられるわけではない。だから現有議席の確保と、岩手県選挙区については何としても確保したいということと、それから定数の多い東京都などのところで何とか今いい候補者を立てたいということで、鋭意選考中である。連休前にというのが一つの目途である。連休が明けると事実上選挙戦ということになるので、目途としてはそういうつもりでいる。 Q. 岩手県選挙区について、自民党と民主党の話というのは、小沢潰しという一面があると報じられているが、どう考えているか。 A. 小沢潰しというのは、メディアがしょっちゅう、ずっと前から一生懸命報道している。平野(達男)君の(2007年の参議院)選挙の時も、小泉(純一郎)氏が2度も3度も(岩手県に)来た。ただ残念ながら潰れなかったが、その時は。だからそんなことは全然意に介していない。自民党の方は好きなようにしたらいい。 金融政策について Q. 日銀黒田総裁が4月4日に、円を増刷して大量の円をメガバンクに供給する、長期国債を購入する、という新たな大胆な金融政策を発表したが、それを受けて今円が1ドル=98円まできた。中央銀行が大胆な金融緩和を行うと必ずバブルが発生する。おそらく今後史上最大のバブルが訪れると思うが、代表の考えは。 A. 私も結論として、見通し的にはバブルの危険が非常に強いと思っている。日銀が国債を買い入れるということは、法律上禁止されているので、直接買い入れではなく、市中から拾うというような、迂回した買い入れでこれまでもずっときたわけだが、これによって株が上がった、円が安くなった。円が安くなって、国民皆さんの生活はどうなったか。油(ガソリン)も食料も飼料も今はみんな値上げラッシュである。円がもっともっと安くなるほど、値上げは大きく、広範囲になってくるのではないだろうか。だから国民生活を圧迫する要因になりこそすれ、生活を豊かにすることにはつながらないと思う。円安は、特定の輸出大企業にとってはいいかもしれないが、一般国民にとってはそういうことだろうと思っている。従ってトータルとして、具体的な政策の実行は何一つされていないが、ただひたすら日銀が大量に裏付けのない紙幣を増刷するという、お話の通りになっている。この金融緩和も、本当に困っている中小零細企業の人たちにお金が回るというのなら、まだ底上げにつながるのだが、結局は金融機関は小さいところに貸さないから、金融機関のところで(お金が)ジャブジャブになり、それを借りるのは大きな、多分企業なのだろう。そういうことで、このやり方はマイナスが非常に大きいのではないかと私は思っている。 憲法改正について Q. 96条改正を先行させようという話になっているが、このことについて改めて見解を。 A. 先ほども少しふれたが、私も自民党の草案をさらっと見たが、9条で自衛権を明記するとか、国防軍を明記するとかという類の改正だけで、他には見るべきものは一切ない。今憲法改正を本当にまじめに議論するなら、9条の点について議論するのはいいと思うが、例えば議会制度などその他の事もいっぱいあるわけで、それを全く手を付けずに9条だけ、という草案を見るだけでも、自民党がどういう国家像を描いているのか、ということは全く分からないし、ましてやそういう中で96条の手続き論の部分だけを先行するというのは、非常に邪道だと私は思っている。やはり憲法の在り方、それに基づく日本の国家像をきちんと明示して議論をすべきだろうと思う
”現行憲法の理念原則は変えてはならない ー 小沢一郎代表定例記者会見(2013年2月12日)” http://www.seikatsu1.jp/activity/press/act0000019.html 2月12日午後、小沢一郎代表が定例の記者会見を行いました。冒頭、小沢代表より、幹事会において今夏行われる第23回参議院議員通常選挙の第2次公認内定者が決定したことが発表されました。その後行われた質疑については以下の通りです。 【内容】 •参院選について •補正予算について •北朝鮮の核実験について •憲法改正問題について •司法問題について 参院選について Q. 岩手県選挙区について独自候補擁立で変わりないか、また海江田民主党代表の発言に対する受け止めは。 A. 現状のままでは何も変わりない。海江田さんも野党第1党の代表なのだから、選挙協力ということであれば、何のために選挙協力するのか、何を目的としてやるのか、ということをきちんと掲げた上で、それで自公政権ではいけない、といった政権交代の原点の気持ちを思い起こした上で、みんなで力を合わせようという、第1党のリーダーとしての行動をとっていただきたいと思っている。岩手県がどう、何県がどうといった個別の話ではない。
補正予算について Q. 生活の党として補正予算案に対する対応は決まったか。 A. 今日森(ゆうこ)君から政策会議の報告があったが、森君と私に一任となっているということだったが、今日の幹事会ではまだ結論を出していない。各党との、日程をはじめとして、いろいろな話し合いもあるやに聞いている。採決がいつになるか定かにわからないが、それまでには決めたいと思っている。
北朝鮮の核実験について Q. 本日北朝鮮が核実験を行った。日本の安全保障に影を落とすことになると思うが、見解はどうか。 A. 北朝鮮が3回目の核実験をやったから日本の安全にどうこうということではないと思う。ただ、彼らの生き残りの為だろうとは思うが、どういう認識のもとに、何を狙って強行しているのか、というのが一番の問題だが、いずれにしても、核実験が行われたとしても行われなかったとしても、日本の安全保障そのものについての基本の考え方は、別に変りはないと思う。
憲法改正問題について Q. 憲法改正についてどう考えるか。 A. 憲法の話に関しては、私は賛否の話ではなくして、旧来の護憲か改憲かという論議は非常に無益な論争である。もちろん改正規定が憲法にあるから、憲法条文上も改正をしたければすればいい、国民がそう思えばだが。そういう意味において憲法というのは、法律全般そうだが、最高法規として国民の生活をよりよいものにするためのみんなで決めたルールである。だから社会の状況が変化すれば、それに対応する改正が必要であれば改正すればいい。あくまでもそういう基本的な考え方を私は持っている。だから護憲改憲のあまり実のない言い合いには関心はない。それから自民党の改正案は詳しく読んでいないのでわからないが、改正しなくてはならない、あるいはしたほうがいいという論点は、いくつか逐条の中にあると私自身も思っている。ただ、それはあくまでも両院の3分の2の多数と、国民の過半数ということだから、主権者たる国民がそうしようという意思を持たなければできない話である。改正を前提とした議論では、立法論は現状の中での議論には馴染まないが、あくまでも現状の理論は現行法に基づきながら議論する以外に方法がない。憲法に関心を持って、憲法の基本的理念、論理というものをしっかりと頭に入れたうえで憲法論議をしてもらいたいと思う。 Q. 自民党は憲法の基本理念すら変えようとしているが、このままだと世論誘導され、内容がわからないまま改憲に進む危険性があるがどう思うか。 A. 憲法問題は純粋理念的論理的な切り口からの議論と、政治的な観点を背景にした議論とがごちゃごちゃになるとわけがわからなくなるので、今の話の答えとしては、私は日本国憲法の基本理念である国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調と、俗に4原則といわれているが、これを変える必要は全くないと思う。ただ、ほかの逐条で今日の状況に合わなくなったり、あるいは現実とちょっと違ったりという点がいくつかある。だからそういうことまでを否定する必要はないと思う。日本国憲法の今言った4つの理念原則は、憲法を改正しようがしまいが守っていかなければならないし、守るだけの価値があるものだと思っている。 Q. 憲法96条の改正についてどう対応するか。 A. 96条だけの発議はないのではないか。理屈の上でおかしいと思う。サンデー毎日にはその後のことも書いてあるが、(96条を)緩めること自体にどうしても反対というわけではないのだが、通常議決で(憲法改正が)できるということになると、内閣が変わるたびに憲法が変わるという話になりかねないから、そこはよく勘案してやらなければならない、ということを言っている。だから、まず96条を変えるという話ではなく、96条は現実にあるわけだから、そうすると変えるためには、どっちみち両院の3分の2の発議がなければ、そして国民が賛成しなければ変えられないわけで、96条自体の問題よりも、憲法の理念の話、それから逐条のどこが今の世の中に適合しないのか、ということ。それをしっかりと国民に理解してもらわないと、憲法改正は現実にできないと思う。それはさっきも言ったが、もちろん国会改革、あるいは9条のことを取り上げる人もいるだろうし、あるいは私学助成も今当たり前のようになっているが憲法上の解釈では違憲の可能性もある。こう考えるといくつかある。それをもっと、俺は改正論だ、俺は反対論だという話ではなく、理性的に、論理的に憲法を見つめ直すことは必要だと思う。今の議論はあまりにも、冷静公正な議論とは思えない。
司法問題について Q. 司法の独走により立法府の国会議員の立場も揺るがすような冤罪であった陸山会事件について、小沢代表は反訴をしなかったが、今後この最高裁の事務総局の問題に対してアクションを起こす予定、つもりはあるか。 A. 今回の私に関する捜査、そして裁判。これは私個人の問題では全然なく、日本の民主主義そのものの問題だと思っており、検察当局が行った強制捜査と、公文書を偽造してまで起訴まで持っていこうとしたこの行為は、全く民主主義に挑戦し、否定する、官僚の思い上がりの象徴的な事例だったと思う。従って、ウォルフレンさんだけではなくして、まともな諸外国の方々から見れば、日本は到底民主主義国家ではない、という判定を下されても致し方ないやり方だったと思う。当時、総選挙半年前にして何等の確たる証拠もないのに、政権交代を予想される野党第1党の党首に関連して強制捜査を検察当局が勝手に行う、ということだったから、今申し上げたように、これは非常に、日本の民主主義未だしという現実を見せつけられたと思う。また、そういう官僚と一部の政治家か権力かわからないが、独走に対して、国民を代表する、民主的手続きで選ばれた政治家自身が、本来与野党の別なく民主主義の為に戦わなければならないのが議員としてのあるべき姿だと思っているが、国会が全くそれに対して関心を持たず、また時の政権与党である民主党が、彼らのやり方に同調するような動きをとったことは、非常に日本の将来にとって残念に思っている。ただ最終の結論は、重ねて言うが、私個人の問題ではないので、日本の民主主義が本当に定着するかどうかという今後の将来の、日本のありように関する問題なので、これはどうしても、主権者の、国民の多くの支持を得て、こういった問題に根本からメスを入れるということでないと、私個人だと個人的な問題だと矮小化されてしまうので、個人でどうこうする話ではない。私は賢明な日本人はかなり、心の中ではわかっていると思う。だから皆さんにぜひ本当に、個別の政策ももちろん大事だけれども、この日本社会が、一部の官僚の思うままにされている、これでは日本の将来はないという意識をぜひみんなに持っていただきたい。従って具体的行動としては、選挙も近いので、全国を周って歩きながら、国民皆さんの支持を広く得るようにしたい。それは何度も言うように私個人に対する理解や支持ではなく、日本の民主主義を本当に作り上げなくてはならない、という意味での国民意識の高まりをぜひ作りたいと思っている。
”日本国憲法について〜総論〜 小沢一郎代表による憲法講義(2013年2月28日)” http://www.seikatsu1.jp/activity/party/act0000026.html 小沢一郎代表が2月28日、総合政策会議において「日本憲法について」と題し、講演しました。以下講演の要旨です。 【講演要旨】 憲法の改正論、憲法審査会でもいろいろと始まるということですが、私がいつも申し上げておりますのは、旧来の護憲、改憲の決まりきった論議というのは全くとは言わなくとも、あまり意味がないと思います。これから話しますが、憲法は私たちがより幸せに、より安全に生活するために、共同体のルールをみんなで定めたものでありますので、必要ならば変えればいいし、必要でなければそのままでいい、ということだと私は思っています。 まず憲法9条がどうの、何がどうのという前に、憲法の本質、基本的な理念、今日近代法に至る歴史的な経過、そういうことをわからないで議論していても、議論はいいものにはならないと思います。 中世・古代に遡る必要はないのですけれども、国家というのが、特にヨーロッパ世界で、現在の国家と似たような形をとってきたのは近世の絶対王政の時代なわけですけれども、この時代は国家の、共同体の、統治権と言ってもいいし、支配と言ってもいいのですけれども、その権力の依ってくるところは、王が(権力を)天から、神から授かったものだ、という、王権神授説という当時の論理に支えられて、(王は)それ(統治、支配)を正当化していたと言われております。神様から与えられた権力ですから、一般国民、人民、庶民は関係ないということになっていたのが近世の絶対王政の時代であったと思います。 そこから血なまぐさい革命を経たところもあるし、少しずつ少しずつ、市民のあるいは商人であったり地主であったりしますが、力が強くなって、民主主義へ向かって既成の事実を積み上げてきて、ほとんど流血の革命なしに民主主義を作り上げてきたのがイギリスの歴史であります。典型的なのはフランスのブルボン王朝からフランス革命。みなさんご承知のことでありますが、この論理は王権神授説と呼ばれるものから、いわゆる社会契約説という思想に裏付けられたものであって、それが市民革命につながった、ということであります。 この社会契約説、社会契約論で日本でも知られておりますのは、ジャン・ジャック・ルソー『民約論』。中江兆民が明治時代に『民約論』の解釈論を出しております。明治時代は天賦人権論という言葉もありましたが、とにかく社会契約論という中で、新しい近代の市民革命と市民国家になってきたということであります。 この社会契約論が何かといいますと、社会共同体国家、これはそれを構成する個人個人が、自分たちの自由な意思、自由な議論によって合意を得て共同体国家を作り、もちろん国家を作れば憲法等ルールが必要になりますから(憲法が)できたという議論であります。個々人が自分たちで話し合って、その結果の結論が国家であり、国家共同体を規制する憲法以下の法律になりますから、結局それは個々人が最終的な判断、権限を持つ、いわゆる国民主権の原理になるわけであります。そういう意味で国民主権というのは、近代の市民革命の時には、社会契約論的な考え方に裏打ちされて、絶対王政から新しい近代の国家へ移ってきたということです。 だから今、日本国憲法の理念という時の根本は国民主権ですけれども、国民主権とはそういう考え方のもとで、国家というもの、共同体が形成されたのであるからして、その決定権があるのは国民、人民であると。すなわち主権者は国民だ、という考え方になるわけでありまして、その共同体、国家と、構成する人民、国民が自分たちの生活を守り、よりよくするために作った最高の法規が憲法ということになります。それで憲法のもとでいろいろな原理原則に基づいた法規が作られていく、ということになるわけです。 さらに社会契約論の個々人、個人個人が、独立した個人個人が意見を交換して合意を得る。そして共同体を作り上げる、ということの、その個人に焦点を当てて掘り下げてみますと、それは個人の意思表示の自由という本質の原則に突き当たる。自由な意思表示を個人個人が行って、そしてそれをみんなが合意してまとめる。本質の問題は自由な意思表示ということが最前提であり根底にあるわけです。 それが誰かによって誘導されたり強制されたりしたのであっては、自由な市民、自由な国民の意思の表示とは言えませんから、従ってそれは国民主権というわけにはいかない。あくまでも人民がそれぞれの意思に、自由な意思に従って自由な議論の結果ルールを作る、ということになるわけであります。ですから、そのことを原理的な側面からのみ追求、切り口をそこにあてていますと、鈴木幹事長がいつかの時に、私(小沢代表)の論文の中に憲法無効論の話がある、と言いましたけれども、これは純粋憲法法律的に言うと、という前提での話でございます。なぜかと言いますと、これは安倍晋三さんも彼自身論理矛盾だと思うのですが、占領下だから変えなければならないのだ、占領下だからどうだと。それでは日本国憲法はどうなのだというと、いや、いいところは残せばいいと。では占領下でもいいところはいいと言えばいいではないか、という話になって、ちょっと論理矛盾するのではないかと僕は思いますけれども、それは別問題として、自由な意思表示をできる条件、環境の中での意思表示でない限り、それは無効で効力を持たない、というのは当然の帰結になります。 フランス憲法、ドイツのボン基本法、ここには憲法の明文として、「第3国の占領下において作られた憲法をはじめいろいろな法規制度はすべて効力を有しない」という規定があります。これは彼らがしょっちゅうやったりやられたりしていましたから、負けて占領されているときに相手方がやったことは認めない、ということなのですが、簡単に言えば。少し難しく理屈を言えば、自由な意思表示が制限されている状況において作られたものは、約束としての効力を持たない、ということなのです。 だからその意味で日本国憲法を、占領下にあったからという理屈を立てると、これはフランス第5共和政憲法、ボン基本法の条文が示す通り、占領下での日本国憲法ですから、無効ということになります。効力を有しないということになるのですが、もちろん法律論と同時に、実態社会で果たしてそれを理屈で押し通すことがいいかどうかということについては別問題でありますが、法律的にはそういうことになります。これはいわゆる契約自由の原則という近代法の根本の前提条件であります。 それからもう一つあるのは、皆さんも『ヴェニスの商人』というシェークスピアの作品をご存じだと思います。若者が貿易をするにおいてお金が足りなかったので、ユダヤの商人からお金を借りて、船が荷物を積んで帰ってきたらそれを売ってお金を払うと。もし払えなかった時には、そのユダヤの商人は金よりも、シェークスピアによれば、その本人を何とか痛めつけることが目的だったようで、胸の肉を1ポンドだったか10ポンドだったか忘れたけれども、くれるという契約を結んだわけです。しかしこれは脅迫されて結んだわけでも、監禁された状態で結んだわけでもない。全くビジネスのものとして結んだ。その意味では契約自由の原則に、その点だけは合っているわけです。そしてシェークスピアの結末は肉を1ポンドだか10ポンドだか与えると契約書に書いているけれども、血の一滴とも与えるとは書いていない。従って血を流さずに胸の肉を切り取れと。こういう名大岡裁きでもって、ユダヤの商人はそれをできなくなったという昔のシェークスピアの話です。 これは契約自由の原則から言えば、契約としては成り立っているはずだと思うのですが、近代法から言いますと、これは名裁判を待つまでもなく無効なのです。なぜですか。お金を借りた方は別に脅かされて借りたわけでも何でもないですよ。貸してくれと。そしたら相手がそれではお前の胸の肉をくれと。それならいいでしょうと言って。絶対帰ってくるから、積み荷を売って儲かって帰ってくるからいいと言って借りた。契約を書いた。大岡裁きの話は別ですよ、血と肉を別々のものとして考えて、どうだ参ったかという話ですから、それは別ですが、近代法の思想からいうと最初からこの契約は無効です。なぜかと言いますと、契約自由の原則とはいえ、いわゆる公序良俗に反した公共の秩序、善良の風俗に反した契約は無効です。効力を持たないということなのですが、人の肉を契約の、権利の、債権の目的にするということはできない。すなわち人間は権利の主体であって権利の客体にはならない、対象にならないということなのです。ですからそういう意味でちょっと話は別ですけれども、補足して言いますと、こういうような契約自由の原則も近代法に、脅迫とか監禁とかピストル突きつけられたとかいうのならわかりやすいですけれども、もう一つの側面は、そういう権利の客体、人間を権利の対象にしてはならない、できないということが契約自由の例外というわけではないのだけれども、当然の契約になるわけです。 ですから余計なことを言いましたけれども、いずれにしても憲法の制定、国民の意思であれ、個人の契約であれ、個人と個人の契約であれ、自由な意思表示というものがその根底の一番大事な原則になる、ということであって、結果として、それが国家として考えると国民主権ということになるということであります。 これを頭に入れておいてもらいながら、日本国憲法の制定についてお話します。日本国憲法は、大日本帝国憲法の第73条の改正規定によって改正され、国会の議決を経てできあがりました。この憲法には、いわゆる俗にいう欽定憲法と言われるものと民定憲法と言われるものがあります。欽定憲法というのは、君主から国民に対して与えられた憲法ということになります。明治憲法は、その他の君主制のところとも似たり寄ったりですが、ドイツはプロシアで、武力で統一しましたから、より皇帝の権力が強かったと思います。イギリスのような立憲君主制、君臨すれども統治せずという歴史的な経過の中で築き上げられた国もあります。いずれにしろイギリスでも形の上では女王陛下が元首であって、そして女王陛下のキャビネットであり、女王陛下のネイビーでありアーミーであるということは形式的に今なお続いております。ですから、今日は施政方針演説がありましたけれども、英国では施政方針演説は女王陛下が行います。私のキャビネットなわけです。そういう形はとっておりますけれども、実質的には最も民主的な、慣習法を中心とした国家であることは言うまでもないことであります。 だから大日本帝国憲法というのは欽定憲法であり、天皇体系が形の上では非常に強大であります。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」から始まっております。ただあくまでも国務大臣には、内閣総理大臣ももちろんですが、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」という規定があります。要するに天皇陛下のやることを助けなければいけない、その責任はあるのだよ、と。だから事実上日本国憲法の、助言と承認に基づいて天皇が国事行為を行うということと同じことなのですね。その意味では帝国憲法というのは、実質的には運用をうまくやれば非常に開明的な憲法であったことは間違いない。ただその憲法の条項、第11条、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文があります。ですから軍部が統帥権の独立と、この輔弼の責任に統帥権は対象とならない、天皇陛下が直接陸海軍を統帥すると。だからお前たちは文句を言うなと、内閣やその他の政治家が文句を言うなという理屈でもって横車を押したというのが過去の歴史です。 いずれにしろ帝国憲法の73条の改正規定によって日本国憲法ができたのですが、ここで時事問題と関連しますが、帝国憲法はあくまでも天皇主権という建前をとっておりますね。一方日本国憲法は国民主権というのが最大の基本原則になっている。そうすると、今(日本国憲法の)96条の要件緩和だとマスコミも一緒になって言っていますけれども、全くもう少し学問的なものを深めてもらいたいと思うのですけれども。 なぜ日本国憲法が無効であり、一旦帝国憲法に戻って、それから新しい憲法を作れという議論を今言う人はほとんどいないのですが、旧京都帝国大学のころ佐々木惣一さん大石義雄さんという学者はそれに近いことを言っていました。なぜかというと、帝国憲法の改正手続きによって、その憲法の定める根本を変えたわけです。天皇主権から国民主権と。これは学説的には改正ではないということなのです。要するに帝国憲法が根幹とする天皇主権を、自らの改正規定によって改正できるとしたら自殺行為である。そんなことは理屈上ありえない、というのが基本的な考え方です。 ですからこれは形の上では73条の改正規定に則って日本国憲法ができましたけれども、実質的には革命であり、新しい憲法の制定なのです。改正ではないのです。だからその意味において、日本国憲法をまた国民主権から天皇主権に戻しますとか、基本的人権は認めませんとか制約しますとか、そういう類の新しい憲法を作ろうとしたら、それは日本国憲法の96条ではできない。自らを否定するようなことになることを、自らの改正規定でやることはできない、ということになるのです。 そうしますと、96条で要件の緩和、それで何をするのだかわかりませんけれども、政治家もマスコミも(96条改正を)言う人はいます。そうすると、憲法には硬性憲法と軟性憲法と2つあります。硬性というのは硬いという意味ですから改正が難しい。日本国憲法も両院の3分の2ですから。帝国憲法も天皇の詔勅、発議によって両院の3分の2。これも硬性憲法ですね、ある意味において。天皇の詔勅がなければできないのだからもっと硬いですね。そういう意味で、これも1つの、日本国憲法の根本のものではないか、硬性憲法にしたということは。というのは、日本国憲法の理念そのものを否定するような憲法改正を形の上で容易にするようなことはできないと。ですから96条の要件緩和だけを先にやってみたいという類の話は、非常に学問的、あるいは論理的、理念的な、思想的なことから言いますと、へんちくりんな議論だということになります。 ですからその意味において、要するに法律の理念、思想、論理と、実態としてできるかできないかを混同したらだめですよ。みなさんというよりもマスコミも何もかもが混同した議論をしているからわけがわからなくなってしまう。実態としてできるかどうかということと、法理論的におかしいということはちょっと違う。例えば選挙法。憲法違反だと最高裁が言っているでしょ。だけども憲法違反の選挙法で選挙しているでしょ。それでも無効とはならないでしょ。だから実態政治のことと、法的なあるいは本質的な考え方に分けて考えなくてはならないけど、そこをごちゃまぜにして何もかも議論をするから、余計頭がこんがらがってわけがわからなくなる。だから理論の上ではそういうことになる。 となると、戻りますけれども、日本国憲法の理念とは何だ、基本の原則とは何か、ということになります。これはもう大体みなさんおわかりだと思うけれども、日本国憲法の前文に含まれております。その1つは国民主権の原則。それから基本的人権の尊重。それから平和国家、平和主義。そして国際協調の原則。普通この4つを日本国憲法の基本の理念、原則と言っております。 ですから、仮に96条の3分の2ずつができて国民の過半数の賛同を得たとしても、理屈の上では、これを否定するような憲法を96条の改正手続きによってはできない。要するに自分自身を否定することになる。それはもはや革命だ。新しい理念に基づく、新しい思想に基づく憲法を作るということになるわけであります。 だから96条だけ先行して改正というのは、先ほども言ったように、わからない議論になってしまう、理屈から言うと。96条の改正という場合には、どういう憲法を想定し、その憲法はどういう理念で作られるものか、ということを明確にしないといけない。ただ単に、何でも変えたいときに変えられるようにしたい、改正規定で何でも変えられる、という類の発想につながってしまう。それは非常に、論理的には法の理論から言うとあまりにも乱暴であり、あまりにも跳びはねた議論ということになってしまいます。 ですから憲法の逐条に入る前に、こういうことをしっかりと頭に入れて議論しなくてはいけないと思います。特に、繰り返しますが、法律論というのはまず法解釈論なのです。法律論と言ったときには、現行の法律解釈論なのです。それで政治的な論議、これは立法論。立法論と解釈論をごちゃまぜにしてはいけない。解釈論は現行法を前提にして、法律の意味するところを導き出す。立法論は現行の法律ではなくして、あるいは憲法でなくして、違った規定を作りたいとか、根本から原則を変えたいとか、というのはまさに政治論すなわち立法論であります。だからこれもごちゃまぜにして議論すると、非常におかしな議論になってしまう、ということをぜひ頭を整理して、憲法問題の時には考えていただきたいと思います。 今日は時間がないので、いつでもまたみなさんが必要であれば、この後次は逐条の僕なりの解釈をしたいと思いますが、結論だけ先に言うと、日本国憲法はいろいろなところで、昼にはた(ともこ)君からあったけれども、二院制の問題ももちろんありますし、その他のところでも9条だけではなくして、いろいろ現在の実勢には合わなくなってきているところがありますから、みなさんの合意があれば改正することは当然、行われてしかるべきだと思っております。 ただそれが、最初に言ったように、旧来の護憲・改憲の決まりきった、収まりのない、つまらない議論になってしまうと、こういう冷静な議論ができなくなってしまいますので、そこだけは注意をして、みんなで議論し、まとめてもらったらいいのではないかと思います。 あとは日本国憲法第1章からの問題もあります。日本国憲法も帝国憲法も第1章天皇、第1条も天皇なのです。ここもついつい忘れがちなのです。帝国憲法も第1章第1条が天皇、万世一系の天皇というのがそれです。日本国憲法は表現が変わって、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という表現に変わっただけで、基本的には、これは法律論ではないです、実体論的には運営さえきちんとしていればそれほどの違いはない。法律的な理屈の上では真反対の話ですけれども。 こんなことを個別の逐条で、もし興味があったらまたの機会にしたいと思いますが、今日はこの辺で終わります。ありがとうございました。 ”日本国憲法について〜各論〜 小沢一郎代表による憲法講義第2弾(2013年3月7日)” http://www.seikatsu1.jp/activity/party/act0000032.html 小沢一郎代表が3月7日、総合政策会議において日本国憲法についてと題し、講演しました。以下講演の要旨です。 【講演要旨】 それでは、この間総論的なことを言いましたので、今日は逐条についてお話します。憲法審査会、そして憲法改正の議論がいろいろ起きていますので、今の日本国憲法で時々話題となる、あるいは私がこういうところも問題ではないかという改正点のいくつかを申し上げながら、二院制の問題についてもお話を自分なりにしてみたいと思います。 日本国憲法の改正論議の中で、憲法の条項に沿って申し上げますと、1つは第1条の天皇のところであります。天皇を元首として明記すべし、と憲法で定めるべきであるという考え方もかなり出されております。日本国憲法の第1条、帝国憲法の第1条、天皇。元首の要件としては、例えば統治権があるとか、代表する立場にあるとか、いくつかあります。帝国憲法は言葉通り「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の話ですけれども、日本国憲法はご承知の通り、前回もお話しました、象徴天皇制と言われておりますような第1条の表現になっております。 しかしながら、この間政治塾でも言いましたけれども、象徴というのは異質のものの間で関係として成り立つ言葉でありまして、そこが代表と違うところでございます。ですから、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴が天皇陛下だということでありまして、ここにおるどなた一人として天皇陛下にはなれないわけであります。まさに、事実上万世一系の血統によりまして天皇が決められていくということです。従って、言葉は真逆の、天皇主権と国民主権ということになりますが、事実上は私から言わせると実態は同じだと思っております。 天皇が政治の権限を持って実際にふるまっておりましたのは、多分平安朝の初期のあたりまで、半分くらいまででしょうが、桓武天皇が平安遷都して以来、その初期のころはありましたけれども、その後はまさに新憲法が定めると同じように、象徴的な立場になっております。それから明治維新で天皇主権の帝国憲法ができて、主権者、統治権の総攬者になりましたけれども、実質的には国務大臣の輔弼の責任という形で、内閣の助言と承認というように定められている日本国憲法と、実態的には変わりはなかったという風に思います。 ですから、内閣と全く違う意思で天皇陛下が大権を行使したのは、終戦の詔勅。これはまさに文字通り、天皇陛下が時の内閣と違った形で、天皇自身が決定したということです。その例外を除くと基本的に同じ。従って私は結論として、元首を明記する必要はないのではないかと。第1条の象徴天皇ということは、余人をもって天皇になることはできないのですから、万世一系の天皇ということと変わりないと、そして日本国と日本国民統合の象徴だということでありますので、この点私はそう思います。 それからその次には、憲法9条。これについてはまた別の機会に論議をせざるを得ないので、詳しくは言いませんけれども、憲法9条の文言は、第1次大戦後に作られました不戦条約、ケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれておりますが、ここからほぼ引いてきたものだと思います。ほとんど同じ表現で憲法9条と同じ文言で不戦条約に書かれております。それから文言、形態は違いますが、国連憲章第1条にも書かれております。ですから、この9条をどちらかというとライト(右派)の皆さんがものすごく毛嫌いするのですけれども、9条そのものはそれほど毛嫌いする必要のないことであって、不戦の誓いを宣言したものだと解釈すればいいのではないかと私は思います。 ただ国連憲章では第7章の41条、42条で、平和を乱す不心得者は国際協調、国際連合の力をもって制裁する、必要ならば軍事力を行使してこれを鎮圧するという表現になっております。その部分が日本の憲法にはない。前文から、憲法の理念と精神から導き出す以外にない。この部分を憲法逐条にも、1項、9条の3項でもいいし新しい条文でもいいですけれども、国際平和の為に貢献するということについては何の問題もない、ということを、やるならば付け加える形かと思っております。 いずれにしても9条は、安全保障論議と密接不可分の事ですので、別な機会にやりたいと思いますが、多分憲法改正を言っている人はここが一番の目標なのだと思います。 それからもう一つ9条で、自衛権を明示しろという議論もあります。自衛権というのは現在、当然認められておりますし、自衛隊もあります。すなわち当初は戦力なき軍隊と戦後は言っておりましたけれども、まさに名実ともに軍隊そのものの自衛隊があるわけで、これを違憲だという者はあまりいない。国民の中では大多数が自衛権は当然あるのだと。その量的な、質的な中身についての議論はあるにしても、自衛権を否定することはほとんどないと思います。ですから、自然権としての自衛権ですので、ことさら憲法の条文に書く必要は、書いて悪いというわけではないですけれども、ないと私は思っております。 次はまさにはた(ともこ)君が言った二院制の問題です。これはぜひ憲法制定の時の国会の議事録を読んで、頭を整理していただいたらいいと思います。このままではだめだという議論が非常になされています。これでは同じことの繰り返しではないかと。だから参議院の性格をもっと違ったものにすべきだという議論がその当時もうんと出ております。しかし現実にどうするのだという話もありますし、それこそ占領軍の問題もありますし、しょうがないというような形で今日の二院制ができたという経過があります。ですから、本来の二院制に期待される仕組みから言えば、全く同じものが二つあるというのは、だれが考えてもいいとは思わないだろうと思います。 今イタリアがユーロ含みで問題になっていますが、ここでは首班の指名、承認が両院でなければだめだという、その点で全くの同等の権限を与えられているわけですけれども、これがまた混乱の原因にもなるということも言われております。アメリカでは上院がどちらかと言えば強いのですが、これも世界で言えば少数派だと思います。実質上やはり下院が大きな権限を持つという形で、上院は違う、質的にも、選出のされ方もみな違う形でなされておるのが、多分多数派だろうと思います。 今衛藤(征士郎)さんが一院制をやろうという話を言っておられますが、私は結論として二院制でいいのではないかと思っております。ただ、その中身をどうするのかという問題があります。今定数の問題が言われておりますが、誰も本気になってやりたがらないので、マスコミの餌食になっております。この定数も、なぜこういう問題が起きるかと言いますと、日本の国会議員の定数は人口比から言うとそれほど多いわけではないのです。ところが衆参全く同じようなことを2度繰り返してやっていますので、それであれば(国会議員が)そんなにいらないのではないか、という議論が起こる最大の背景になっているのではないかと思います。 アメリカでも下院は人口比でもって結構な数がおりますし、イギリスでは10万人に1人ですから、6千数百万人のイギリスで6百何十人の下院議員がおります。詳しく数字を調べていないですけれども、ドイツやフランスでも人口比でもって結構いるのではないかと。イギリス流に10万人に1人ということであれば、日本は1200人の下院ということになってしまいます。ですからその意味で言うと、それほど騒ぐほど、定数だけをとれば、他の全体の行政改革などを別にして、大きな数ではございません。要はどういう機能、権限を持たせるかということになります。 院の権限、権能ということの背景にあるのは選挙なのです。ですから、選挙をする以上はどうしても政党化します。実態の事を言えば。政党化すれば衆参共に党がいろんな政策決定、その他をやることになりますから、議論も衆議院と参議院で同じようになるということは当然のことであろうと思います。そしてまた本来、二院は一院のチェック機能、良識の府という言葉が使われておりますけれども、これも今言ったような政党化ということと、選挙をすれば必ず一定の利害の代表者ということになります。それが職業やいろんな分野ごとの代表者であるということもある、地域の代表者ということもあれば必ず、どこかの代表でなければ当選するわけがないのですから、そういうことになります。結局はその双方から言って、同じような性格の二院ということになってしまいます。ですから、憲法を本当に改正しようとすれば、どういう風にしたらいいのかと、そこをやっぱり相当議論しないといけない。 ただもう一つは、理屈の上の議論は議論としてそうだという人も多いと思うのですけれども、現実に衆議院、参議院の現職の議員をどうするのだという話に最終的にはなってしまう。これも衛藤征士郎さんは、一院制にして、衆参を合わせた定数にして、現職議員は全部、まず一院、事実上下院の意味を持つ一院ということなのでしょう、にすれば当面問題はないのではないか、みんな議員の身分を持つということになればいいのではないか、という趣旨で言っているようです。それは一院にしなくても、二院制でも、全く機能を違うものにすれば、定数であれ全然他と比べて多いわけではないので、実態上の衆参の現職議員をどうするかという問題も事実上は整理することができるということになります。ですからこの二院制をどうするかという問題は、本当にその機能、権能をどのように一院と二院に与えるか、ということの議論をしませんと、ただただ一院だ二院だと言っていたところで、どうしようもない。子供みたいな話になってしまうということであろうと思っております。 それから若干、他の事もありますので申し上げようと思います。今の二院制の問題は43条に書かれてありますが、第67条、内閣すべての条文に言えるのですが、議院内閣制と大統領制の問題がよく議論になります。日本では大統領制と言わない、首相公選制というへんちくりんな言い方をしております。これは中曽根(康弘)さんが若い時も言っていたことであります。首相公選制というのは大統領制であります。ただ私はどう考えても、理屈の上でも実態の上でも、大統領制と天皇制は相いれないと思っております。 天皇陛下は国事行為を内閣の助言と承認によってやるのですけれども、国民の名において、国民に代わって国事行為を行うわけであります。ですから国の政治の最高権力者を国民、主権者が直接選んでしまったら、天皇陛下の出る場面はなくなってしまうわけであります。直接統治権者を国民が選ぶのですから、その意味で元首であり、統治の権能を持つ、まさに日本の政治的トップになるわけであります。 このことについて、中曽根さんのことばかり出して恐縮ですが、選ばれた人を天皇が認証すればいいのではないか、ということを(中曽根さんが)言ったことがあります。後で気づいたかもしれませんが、こんなバカなことはないのですね。天皇陛下は国民に代わって認証するわけであります。ですから認証官というのがありますよね。国務大臣であれ、役人であれ、ありますね。それは大事なポストでありながら国民が直接選んだ者でないから、天皇が国民に代わって、国民の名において、よかろう、という認証を与えるということであります。 ですから、国権の最高機関であるという証明にもなりますが、国会の役員である国会議員は、もちろん認証官ではありません。国民が直接選んだ人であるから、天皇陛下が改めていいとか悪いとか言う立場ではないし、権能もない、ということであります。衆参の議長といえば国の最高機関の長でありますから、当然他の認証官よりも、原理的には、国民主権の考え方の中では上位に位置づけされるはずでありますので、それは天皇陛下が認証するということはありません。それがよくわかる裏付けになると思います。 ですから首相公選制というのは、いかにも民主的で、いかにも斬新な、改革的な主張だと思われる節があるのですけれども、それは天皇制についての議論をわかっていないか、全く無視しているということになると思います。 それから第70条、総理大臣が欠けた場合というのがあります。これは内閣法によって、本来欠けた時には、総理大臣の臨時代理を組閣の時に指名しておかなければならないようになっているのだそうです。ところが、ずっとそれをしなかった。そしてあのことがあったのです。小渕(恵三)総理が倒れて、医学的には全く意識がない時に、青木(幹雄)官房長官が臨時代理に、誰が任命したのか知りませんが、任命されたという、本当は事件と言えば事件なのだけれども、事実がありました。闇の中の事実ですけれども。これ以来内閣法の規定に従って、事務的に臨時代理を決めているそうであります。ですから2000年以来決めているそうですので問題ない。 もう一つは、何かの事件でもって総理以下すべての国務大臣が欠けた場合、いなくなってしまった場合どうするのだ。内閣もなくなったということです。天皇陛下が国事行為として国会を召集しますけれども、すべて内閣の助言と承認ですから、国会開会中であれば首班指名をその場でやればいいわけです。しかし閉会中に死亡等でいなくなってしまった、閣議の最中に爆弾が落ちて全員いないという場合、これはいくら考えてもどうすればいいかわからない、というのが現代の日本国憲法と憲法以下の法体系であります。 もし国事行為の事に理由づけて天皇陛下が招集するということになりますと、それは内閣の助言と承認を得ずに、天皇陛下が国事行為を行ったということになりますので、日本国憲法の趣旨からいうとありえないことであります。ですから、いくら考えてもどうすればいいかでてこない。まさに非常事態、危機管理の規定が、日本国憲法では予想されていなかったのか、その時は占領軍が決めるからいいと思っていたのかどうか知りませんけれども、全く危機管理の規定がない。それは憲法以下の一般法においても全くありません。 ですから、今回の大震災でも、阪神大震災でも、縦割りの省庁がそれぞれ、自分の縄張りの仕事じゃないとかあるとかいう形の中でドタバタしていますので、スムース、てきぱきとしたことが行われない。簡単に言いますと、阪神の時も問題になったのですが、死人であれば警察、けが人であれば消防。行ってみたら死んでいたからこれは警察だとか、まだ生きているから消防だとか、というばかげた話があるくらいです。それから道路なんかは警察車両の先導がないと通れなかったとか、なんとかかんとか、とにかく省庁別の動きしかできない。こういう大震災の時でさえも、統括する、統一する制度がない。災害対策本部だの、今でいえば復興庁だの、なんだかんだと言いますけれども、何の権限もない。それぞれ各省庁の権限で、事実予算の執行その他が行われている。こういうことでも明らかなように、日本国憲法には非常事態の危機管理の条項、制度が全くない、ということであります。 それから78条、79条に公の弾劾というのがあります。裁判官は公の弾劾によらなければ罷免されないという条文がある。公の弾劾とは何かというと、国会の訴追委員会と弾劾裁判所であります。裁判官訴追委員会、検察官訴追委員会があり、弾劾裁判所がありますけれども、全く機能はしておりません。事実、国会の訴追委員会の事実上の事務局は裁判所からきている。裁判所からきている人間が裁判官を訴追するわけがない。何でこんなバカな人事になるのだ、というようなことが私も本当に知らなかったのですが、明らかになりました。 それから最高裁判所の事務総局には、これは森(ゆうこ)君がよく知っているけれども、検察から非常に多くの人数が入っている。またその象徴として、日本の裁判所では、検察の起訴で有罪率がほぼ100%に近いくらいの割合になっている。外国人が、検察官の言うとおり全部有罪になるなら、裁判所なんかいらないではないかと。これは世界中でも異例の事であります。それくらい、裁判所、裁判も、検察官の人事的にも、力関係でも非常に大きな影響を持っている、というのが現実です。国会の訴追委員会でさえそうだというのですから、何をかいわんや、ということになります。国会議員は日常にあまり関係ないことですので、全く無関心ですが、これは裁判所、そして事実上大きな影響力を持っている検察の暴走を許すのは、ここのところが一番機能しないからだと思っております。 もう一つ89条。公金を宗教、教育等のところに支出してはならない、という憲法が89条で規定されております。ご承知の通り、私学振興助成法によりまして、毎年毎年多くの予算が私学に投じられております。これは言葉通り見ますと、89条の違反にあたるわけですけれども、社会的必要性という観点の中で、全く振興法の時にも無視されて、私学振興という名のもとに法律ができました。私が1年生の時で、最初に文教委員会に入りましたので、その時に質問いたしました。 こういったところが問題点ですが、いろいろと時代の変化に即して、変えなくてはならない問題がたくさんあると思います。ですから前回言ったように、くだらない改憲論、護憲論でなくして、いいことであれば(両院の)3分の2なんてすぐできるわけですから、冷静な、公正な憲法論議ができたらいいと思います。 それから最後に96条ですが、前回日本国憲法と帝国憲法の話もしましたけれども、今96条だけはいいじゃないかという議論があります。どうして96条が硬性憲法として制定されたかという問題。それからその根底に国民主権から発するいろいろな基本原理を、やはりそう安易に(改正を)認めないという日本国憲法の趣旨が含まれているのではないかと思います。私は何が何でも96条の3分の2だというつもりはないのですけれども、そこの中身の議論をしないで、何をどう改正するのか、という議論を全然しないで、手続きの方だけ改正すればいいのだ、という議論が総理大臣以下いろいろまかり通っておりますので、非常に奇異に感じております。 いずれにしても、今日本国憲法で旧来から問題となっていた点についてお話しました。私の話は以上で終わります。
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