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慰安所行った、でも話せない 元兵士「妻や子にも迷惑」
朝日新聞 2013年07月02日12時06分
http://digital.asahi.com/articles/OSK201306300117.html
旧日本軍の慰安婦問題に関心が集まっているが、元兵士たちはその体験を胸に秘したままだ。
敗戦から68年、葛藤に悩みながら亡くなった人も多い。語れない理由とは――。
「家族にも一切明かしたことのない話だ」。
関西地方の90代の男性は6月中旬、喫茶店で記者にそう切り出した。
太平洋戦争が開戦した1941年、旧満州(中国・東北部)の国境守備隊に配属された。
兵士は約1万人。
ソビエト連邦(当時)と川一つ隔てた小さな町に慰安所が4軒あった。
うち1軒が下級兵士が利用できる軍指定の施設だったという。
「内地には公娼制度があったから不思議には思わなかった」
月1回、外出が許可されると慰安所に通った。
建物の特徴から「白壁の家」と呼ばれ、いつも順番を待つ若い兵士の行列ができていた。
相手にする女性は朝鮮人だった。
時間は10分程度。
心の安らぎもないまま事務的に済ませて、外に出たという。
慰安婦と日本語で会話を交わすこともあった。
でも、「なぜ、そこで働いていたかは聞かなかった」。
男性自身、死を覚悟する毎日だった。
彼女らがかわいそうという感覚はなかった。
「ぼくらも消耗品。自由を奪われたかごの鳥同士、同類相哀れむような感覚だった」
心に閉じ込めていた記憶がよみがえったのは、5月中旬、日本維新の会共同代表の橋下徹・
大阪市長の発言をきっかけに、「慰安婦」問題が連日報じられるようになってからだ。
慰安婦を思い、「残酷な人生や」と胸が痛んだ。
「(当時)慰安婦は必要なのは誰だってわかる」と語った橋下氏に憤りが募った。
「戦場を見てきたかのように軽々しく言ってほしくない」。
だが、そんな葛藤も人前では語れない。
「ぼくらが何を言っても世間にたたかれるだけ。それに話せば妻や子、孫にも迷惑がかかる」
大阪府の元兵士の男性(93)も、橋下発言をきっかけに、慰安所の記憶を細部まで思い出した。
日中戦争が始まって3年後の召集で砲兵になった。
初年兵のとき先輩に慰安所に連れて行かれ、行列に並んだ。
自分の順番が来る直前、小屋を覆うアンペラ(むしろ)から、慰安婦の女性が力なく兵士に
組み敷かれる姿が見えた。
ショックで逃げ出した。
「故郷で待つ恋人を思い出して我に返り、純潔を守らんとと思った。それがなかったら、行っていた」
兵士の強姦を防ぐために慰安婦や風俗の利用が必要――。
そう主張する人もいるが、経験から照らして疑問だと思う。
「若い兵士の中には、慰安所で女性を知るとしんぼうたまらなくなり、強姦に走る者もいた」
■聞き手に責任も
「女たちの戦争と平和資料館」(東京都新宿区)館長で、元NHKディレクターの池田恵理子さんは長年、
元慰安婦や元兵士の証言を集めてきた。
被害女性たちは1990年代になって支援者に支えられ名乗り出るケースが相次いだが、元兵士の圧倒的
多数は「戦場の性」について正面から語らないままという。
「加害責任の希薄さに加え、性的な問題を語るのは恥という意識も妨げになった。
慰安婦問題が南京大虐殺と並んで政治対立の争点になると、タブー視する空気が一層広がった」
元日本兵の体験を聞き取り、「戦争と罪責」(岩波書店)を書いた精神科医の野田正彰さんは、
兵士らの沈黙には「聞き手」にも責任があると指摘する。
「良心の痛みを伴う戦場体験を、戦後世代はどれだけ真剣に聞いてきただろうか。
少数ながら、自分のおかした行為を証言してきた元兵士もいる。
その勇気ある証言を社会がどう受け止めてきたかも問われている」
<関連リンク>
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