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2013年06月25日 世相を斬る あいば達也
中国市場の同様もさることながら、政府筋の株価PKOも手仕舞いで、日経平均は200円以上下げている。まるで本日の東京の荒天のようだ。雷と集中豪雨である。日本の近未来を象徴するような天候と見え見えのPKOは、死にかけている歪んだ日本へのお天道さまからの警告のように思えてくる。一時のアホノミクスの政策は、米国経済の一時的好転と時期が重なった幸運で、円安を加速し、株高を演出したのだが、陸前高田市の奇跡の一本松同様、本当に“よみがえった”わけではない。あくまで、甦ったように見せかけたという話である。一本松の“よみがえりモドキ”が、その地域の心の支えになるのなら、日本語として正しい使われ方でなくとも、それはそれで良いだろう。しかし、国家の行く末を決めていく国政レベルの“よみがえりモドキ”は後々慙愧に堪えない禍根を残すことになるだろう。
注:また後場の最期の段階でPKOが発動させたようである(笑)。
今、筆者は岩波書店の月刊誌「世界」に目を通している。「世界7月号」の特集は“ 私たちはどのような未来を選択するのか ”である。雑誌自体がリベラルなわけだから、当然リベラルな方向を指し示すのは当然だ。筆者から見る限り、リベラルと云うより、冷静に世界を見つめれば、常識じゃないか、と云う類の表題が並んでいるだけであり、中立的正論に近いものがあると認識している。
先ず宇野重規の「リベラル派再生の鍵は地域社会に」(戦後政治の再解釈に向けて)。次が安富歩の「先祖になれ」(倒錯のアベノミクスではなく真に生きる政治信条)。小林節と水島朝穂の対談「権力者の改憲論を警戒せよ」。斎藤貴男の「改憲潮流2013」(改憲草案のキーマンたち)。飯田哲也の「これが3・11後の原子力政策なのか」。萬歳章の「TPPはあまりにも異質な協定です」。内田聖子の「世界に不正義を拡大するTPP」。赤木昭夫の「日本財政の結末」等々、日本本来の未来に向けた視点が盛りだくさんである。特に雑誌の宣伝をするつもりはないのだが、雑誌「世界」は文藝春秋の山積みの隙間で、ひっそりと息をしていた。
特に安富歩氏の「先祖になれ」は哲学的視野に立ち、偽物の“よみがえり”ではなく、真の“よみがえり”を目指す心得帳的なコラムは、一読に値する。逆に言うならば、偽物のカラ元気など中止して、日本の先祖となるくらいの意気込みで、はじめからやり直す日本が、今こそ求められている、と云う話である。安富氏は、“よみがえる奇跡の一本松”と云う表現も致し方ないだろうが、既に枯渇した一本松を防腐加工し、カーボン製の棒を突っ込み、クレーンで立たせた“一本松”は真に“よみがえった”とは言い難いと温かく語っている。
ただ、同氏はこの“奇跡の一本松”とアベノミクスを対比させ語る部分からは、舌鋒が鋭くなる。“奇跡の一本松”同様のことを行い、経済が“よみがえった!”と声高に叫び、国民をミスリードする日本全体、特にマスメディアからみれば、模造品を本物だと強弁する姿に通じる。現在の日本は、経済全体ががらんどうになっているのに、それに防腐加工などを施し、無理矢理立たせようとしている。この“よみがえりモドキ”は非常に危険なものなのだが、マスメディアなどでは「成功」したことになっている。
安富氏は、「しかし、おそらく人々は、これががらんどうの日本経済を無理に立たせるプロジェクトを判っているのだと思います」と続ける。あの繁栄の日々の記憶は捨てがたく、日本が再生するためのモニュメントを必要としているのではないか、と書いてる。同氏は、現在の日本経済の元凶を「立場主義」として捉えている。江戸時代まで続いた「家族主義」に替わって、明治以降「立場主義」置き換えられたと看破する。この「立場主義」には、一人一人の個人に「役」がつき、役に応じた生き様を求めたということになる。一見、個人主義のように見えるが、そうではない。
個人主義にしてしまうと、「役」の機能が動かない。個人を基礎として社会を動かそうとすると、人が入れ替わる度に、仕事の配分に齟齬を来す。ゆえに「家」の替わりに「役」と云う概念を持ち込むことで、「立場主義」(役の体系)をつくりあげた。明治以降、この体系は強さを増し、「立場三原則」という倫理原則をつくりあげた。1、役をはたすためには、どんなこともやらなければならない。2、立場を守るためには何をしてもいい。3、人の立場を脅かしてはならない。これは興味深い分析だ。立場上、やむを得ずやった行為は、法律上違反していても、人々は同情する。法に背きたくないと自己主張すれば、役を果たさない奴、「無責任」と罵られる。
この「立場主義社会」は心をひとつにして何かの仕事をするのに向いている。戦後の日本の繁栄は、この効率性の高い「役」の振り分けと、その役の遵守が大いに貢献した。ところが、技術の高度化が、人が行うべきであった「役」を機械が行うようになるので、立場主義の優位性は大きく削がれることになる。これに、高賃金がつきまとうから、問題点が噴出する。しかし、高賃金の問題は時間をかければ、解決は可能だ。問題は、(3)の原則である、「人の立場を脅かしてはならない」が曲者なのである
現実は「立場主義」が機能しなくなった世の中でも、立場主義の生態系を解体出来ない問題に直面する。そうなると、その生態系を守るために「仕事をつくる」と云う作業が加わる。この生態系維持のための仕事(役)だから、当然なすべき仕事がないのだから、仕事はしない。それを維持するために、国家は財政支出を行い、立場主義が現存しているように見せかけるしかなくなってくる。国債の多くは、この「立場の生態系」に流しこまれ、回るべき金が、回らずに生態系の餌として食いつくされるので、毎年同様の出費が必要になる。
この重大な弊害に気づき、指摘したのが殺害された石井紘基衆議院議員である。石井氏は日本財政の半分は、この立場主義維持に費やされ、市場経済には半分の量しか流れない点を追求した。まるでソ連の経済形態と同じだったのである。この「立場の生態系」を破壊すべく09年には民主党と云う政党が生まれたのだが、「立場の生態系」のメインキャストである官僚の手で葬り去られた。しかし、ことは官僚のみの妨害だけではなく、日本国全体が「立場の生態系」に組み込まれているので、そこから離脱できないのが、日本の根源的問題と云うことになる。
残念なことに、この民主党政権は、「立場の生態系」に強く属する人々の代表でもあったので、離脱しようがないことになる。明治以降続いてきた「立場の生態系」が崩れることは、理論上正しいのだが、仕組みが壊れる不安は、直接の影響者ばかりではなく、全体の不安にも繋がる。かくして、以前のカンフル剤よりも、さらに強力になったカンフル剤を手にした、安倍自民と云う医師に治療を委ねたのである。しかし、立場主義システムは有効に機能していないのだから、樹脂や防腐剤やカーボンで支え「ニッポンをとりもどそす」と言うのだから、陸前高田市の一本松もアベノミクスも“甦った!”と思えるのだろう。
安富氏は、映画「先祖になる」に触れながら、空元気さえも出なくなった日本社会に向かって、アベノミクスは「空元気」こそ「元気」だ、と国民に訴えるわけだが、これは倒錯としか言いようがないだろう。映画の主人公が、倒木や塩害に遭った木材を利用して、再び海辺に家を建てる。以前のままを残すのではなく、その骸の機能を大切に利用して、立派な家を建てる。日本も、そのまま残すのではなく、そのズタボロになった廃材を利用して、新たな国のシステムを作る時期が来ているのではないのか。同氏は、それがどのようなものかまでは指摘していない。しかし、カンフル剤を打ち続けている現実を直視して、新たな家、国をつくる本格的議論をすべき時が来ていると語っている。
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