26. JohnMung 2013年6月24日 12:33:49
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6月23日「慰霊の日」に関することを後世に語り伝えるために、少々長いですが、時間のあるときにでも、目を通しておきましょう。 なお、ここでは触れていませんが、かつて映画化されたこともあって「ひめゆりの塔」のことは記憶されている方がいると思います。しかし、昨日NHKラジオで触れていた「白梅の塔」のことについては、疎い方が少なくないでしょう。 今日は準備する時間が限られるので、いずれ、このことにも触れてみたいと思います。 (引用開始) ”沖縄戦:「命令とはいえ…」 元日本兵、「始末」を後悔” 毎日新聞 2013年06月22日 10時59分(最終更新 06月22日 13時00分) http://mainichi.jp/select/news/20130622k0000e040176000c.html 「全部始末せよ」。上官の命令は絶対だった。沖縄戦末期、米軍の激しい攻撃で追い込まれた旧日本軍の陣地。陸軍の通信兵だった片山省(しょう)さん(90)=兵庫県洲本市=は負傷兵が休む小屋に手投げ弾を投げ込んだ。米軍の捕虜となれば秘密が保てないと、信じて取った行動だった。20万人の犠牲を出した沖縄戦の組織的戦闘が終わった23日、沖縄は「慰霊の日」を迎える。「命令とはいえ、えらいことをした」。卒寿を迎えた今も、片山さんには68年前の出来事が心に重くのしかかる。 「4月になれば『米軍が上陸したな』。6月と聞くと『沖縄戦の終結やな』。そりゃ、毎年そう思います」。沖縄から遠く離れた淡路島。片山さんは6年前に妻に先立たれ、独りで暮らす。 1944年1月、徴兵で満州の陸軍部隊に入り、訓練を受けた。9月、送られた先は沖縄。上官は「お前たちは玉砕要員だ」と言った。 翌年4月、米軍が沖縄本島に上陸。雨のように降り注ぐ砲弾の中、連絡文を手に部隊間を走った。「毎日何十人と死んでいった。ああ、今日は命があったと。生きた心地がせんかった」 6月中旬、本島南部に追い込まれた部隊に総攻撃の指示が下った。「通信兵のお前らは全てを始末して撤退」。それが上官の命令だった。 「俺は歩けない。涼しい所に連れて行ってくれ」。壕(ごう)に残った同じ隊の兵に頼まれた。太ももを撃たれていた。壕を出て約50メートル引きずり、道端で手投げ弾を手渡した。 壕の中の無線機や暗号機は全て破壊した。近くには負傷兵を収容した小屋があった。「生きてるのか、亡くなってるのか、何人いたかも分からない。とにかく爆破せねばと」。手投げ弾を投げ入れた。「爆発音は聞いていません。米軍がドンドン撃ってくるから。砲弾の嵐でした」 糸満市の摩文仁(まぶに)の集落に着くと、敗走兵が集まっていた。米軍が迫る。断崖で数日過ごし、考えた。自決か、戦うか、投降か。「司令官が自決したという話もあり、戦闘はもう終わったと感じた。捕虜になるのは恥だが、今さら死ねんと思った」。崖を降り、投降した。 戦後、淡路島に戻り、定年まで中学校の教師を勤め上げた。孫もできた。定年後、沖縄を訪れ、「始末」を命じられた地に立ち、思った。「あの時、みんな一緒に出て行って、捕虜になっていれば……。むごいことをした。戦争はもう二度としちゃいかん」 ”特集ワイド:夏がくれば思い出す ざわわ ざわわ ざわわ… 寺島尚彦さん、2004年3月23日(享年73)” 毎日新聞 2012年08月14日 東京夕刊 http://mainichi.jp/feature/news/20120814dde012040017000c.html ◇ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ ◇沖縄の「魂」に耳傾け 台風11号が残していった激しい雨風に打たれ、ぼうぜんと立ち尽くしていると、瞬く間に青空がのぞき、夏の日差しが照りつけた。沖縄本島南部、糸満市摩文仁の「平和の礎(いしじ)」。国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった24万1167人(6月23日現在)の名前が刻まれている。この平和祈念公園一帯こそ、<ざわわ ざわわ ざわわ>のリフレインが印象的な「さとうきび畑」が生まれた地だ。 作詞・作曲した寺島尚彦(なおひこ)さんは1964年6月、本土復帰前の沖縄に、シャンソン歌手、石井好子さん(10年に87歳で死去)のリサイタルの伴奏者として初めて訪れる。公演翌日、地元の人に摩文仁の戦跡を案内され、サトウキビ畑に分け入った。「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています」。その説明を聞いたときの衝撃を、02年の著書「さとうきび畑 ざわわ、通りぬける風」で次のように記している。 <一瞬にして美しく広がっていた青空、太陽、緑の波うつサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ。轟然(ごうぜん)と吹きぬける風の音だけが耳を圧倒し、その中に戦没者たちの怒号と嗚咽(おえつ)を私は確かに聴いた> 国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦を経験した沖縄の凄惨(せいさん)な事実を本土に伝えたい。寺島さんは歌を作ることを決意するが、風でサトウキビの葉がすれる音をどう表現するかで悩む。「さわさわ」ではきれいすぎる、「ざわざわ」では騒がしい。「ざわわ」を思いつくまでに2年近くかかった。 そして、11番からなる「さとうきび畑」が完成し、67年、田代美代子さん(68)によって初演。69年、森山良子さん(64)が初めてレコーディングし、その後、多くの歌手によって歌い継がれる。その一人、次女でソプラノ歌手の夕紗子(ゆさこ)さん(42)は言う。「沖縄戦を体験していない本土の人間が作ったこの歌が、沖縄の人たちにどのように受け止められているのか、父は長らく知らなかったようです」 「父からです」。93年9月、洗足学園音楽大で教えていた寺島さんに、女子学生から手紙と空(から)のカセットテープが手渡される。託したのは、沖縄国際大名誉教授(平和学)の石原昌家さん(71)。72年の本土復帰後、石原さんは観光コースでは知ることができない戦跡を巡る平和ガイドの活動を始めた。野戦病院に使われたガマ(自然の壕(ごう))を案内し、暗闇を体験してもらうと、参加者は言葉を失った。そんな時、バスの中で流したのが「さとうきび畑」だった。 <あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった> 歌詞に「沖縄」を直接表す言葉は出てこないが、石原さんは初めて聴いたときから沖縄戦の歌だと直感。しかし、どのような経緯でこの歌が作られたのか、知りたいと思っていた。次女以津子さん(38)の指導教授が作者と知り、その答えをテープに吹き込んでもらうことにした。歌が生まれて26年。寺島さんにとっては、沖縄からの初めての反応だった。 95年6月、寺島さんは戦後50年を特集したテレビ番組のリポーターとして沖縄を31年ぶりに再訪。平和の礎の完成式典に参列し、この一帯こそ、あのサトウキビ畑があった場所だと確信する。同じ平和祈念公園内にある「沖縄平和祈念堂」を管理する沖縄協会理事の比嘉正詔(ひがせいしょう)さん(69)は、02年に地元のサトウキビ農家の老人を伴い寺島さんを案内した思い出がある。「沖縄には古来、ニライカナイ(海のかなたの桃源郷)という信仰があります。『さとうきび畑』はニライカナイに眠る死者の魂に揺り動かされて作られたように思えてなりません。そう考えると、サトウキビ畑が平和祈念公園となったことは、偶然ではなく必然だったということでしょう」 <昔海のむこうから いくさがやってきた> 米軍の沖縄本島上陸から67年を迎えた今年4月1日。上陸地点の一つである読谷村の海を望む高台に、「さとうきび畑」の歌碑が建った。周囲はサトウキビ畑が広がる。近くには、避難した住民約140人のうち83人が集団自決したチビチリガマがある。 歌碑建立実行委の事務局長を務めた山内順盛(じゅんせい)さん(69)は毎日、歌碑を訪ね、磨き上げている。沖縄戦当時は2歳だった。母に連れられ、北部の山原(やんばる)に逃れた。父は南部で戦死。<知らないはずの父の手に だかれた夢を見た>。歌詞には自分の境遇と重なる部分がある。「ここに来ると、すーっと心が癒やされます」 「コンサートでは『さとうきび畑』を歌わないと帰らせてもらえない」という全盲のテノール歌手、新垣勉さん(59)も読谷村出身。メキシコ系米国人兵士と沖縄女性のあいだに生まれた。助産師のミスで家畜用の薬を点眼され失明。1歳で両親が離婚し、父は米国に帰り、母は再婚。自分は祖母に預けられた。憎しみの気持ちを抱きながら少年時代を過ごした。やがて音楽と出合い、「さとうきび畑」を歌うようになってから「『平和』を歌い続けることが自分の使命」と意識するようになった。「平和は上から降ってくるものじゃなくて、努力してつくり出していくもの。みんなが思いを持ってメッセージを発信し続けていかなければ、なかなか訪れないものじゃないかな」と新垣さん。 今、沖縄に、墜落事故が相次いでいる米海兵隊の新型輸送機MV22オスプレイが押しつけられようとしている。今秋にも配備予定の普天間飛行場(宜野湾市)のフェンスすれすれに建つ佐喜真(さきま)美術館には、「反戦」の絵筆を握り続けた画家の丸木位里、俊夫妻による大作「沖縄戦の図」が常設展示されている。01年9月の米同時多発テロの3日後、寺島さんはこの絵の前で平和のメッセージを発信するコンサートを開いた。館長の佐喜真道夫さん(66)は言う。 「(普天間の移設先とされる)辺野古の基地がいまだに造られていないように、沖縄県民が本気で怒ったことは実現できないんじゃないでしょうか。なぜなら、県民には丸木夫妻の絵や寺島さんの歌に象徴されるような沖縄戦の記憶が深く刻み込まれているからです」 66回繰り返される<ざわわ>。「それは、沖縄戦で亡くなった人たちの魂の叫びであり、平和の祈りが込められたあの世とこの世をつなぐメッセージです」。比嘉さんはそう説く。「こういう歌がうたわれなくてすむ世の中が来ればいい」が寺島さんの口癖だったというが、10分以上に及ぶ歌はこう結ばれる。 <この悲しみは消えない>【大槻英二】 ”沖縄戦:大田元知事、高校生に戦争体験語る…平和訴え” 毎日新聞 2013年06月22日 10時52分(最終更新 06月22日 12時45分) http://mainichi.jp/select/news/20130622k0000e040174000c.html 太平洋戦争末期の沖縄戦の戦没者を悼む慰霊の日を23日に控え、元沖縄県知事の大田昌秀さん(88)が21日、県立知念高校(与那原町)で講演した。平和学習の一環として同校から招かれ、全校生徒約1000人を前に戦争体験を語った。98年の知事退任後、沖縄戦や平和をテーマに今も研究を続ける大田さん。沖縄戦で学ぶ機会を奪われたことを挙げ「皆さんのような十代の若者を、二度と戦場に引っ張り込んではならない」と訴えた。 大田さんは沖縄師範学校の生徒だった19歳のとき「鉄血勤皇隊」として学徒動員され、旧日本軍とともに首里から本島南端の摩文仁(まぶに)に追い詰められた。組織的戦闘が終わったとされる1945年6月23日以後も潜伏し、一緒にいた旧日本兵が大学で英文学を専攻しており、米兵が残した英字新聞や雑誌を訳してもらい、8月の日本の敗戦を知ったという。 「沖縄戦を通して日本国憲法を考える」と題した講演で、大田さんは敵性語とされた英語の教育を受けられなかった当時の背景を説明。そのうえで、戦後、英語を学び直したのはこの旧日本兵から「生き残ることができたら、勉強しろよ」と言われたことがきっかけだったと話した。 また憲法をめぐっては、「平和憲法の下に入るため、米国統治下で復帰運動が始まった。沖縄にとって憲法ほど大切なものはない」と憲法を守る重要性を訴えた。 講演後には、生徒会長の玉城拓也君(3年)が花束を手渡し「戦争の悲惨さと残酷さが心に残りました」とあいさつ。大城徳恵さん(2年)は「生々しい証言で、普通の少年が軍隊に組み込まれていく恐ろしさを感じた」と話した。 大田さんは知事だった95年、摩文仁に沖縄戦戦没者らの名前を刻む「平和の礎(いしじ)」を建てた。また、在任中には「大田平和総合研究所」を設立し、今年衣替えしたNPO法人「沖縄国際平和研究所」で研究を続けている。【平川哲也】 ”沖縄戦・米軍上陸の村:/下 本土復帰、平和追い求め 憲法は未来、誇り” 毎日新聞 2013年06月21日 西部朝刊 http://mainichi.jp/area/news/20130621ddp041040022000c.html ◇「基地内役場」いま殿堂に 沖縄県読谷村(よみたんそん)の大湾近常(おおわんきんじょう)さん(73)は太平洋戦争末期の沖縄戦から1年たたない間に家族5人を失い、伯母ナベさん(1982年に91歳で死去)とのつましい暮らしも、基地建設を迫る米軍に家を追われた。 「屈辱」に光が差したのは、高校を卒業した後に加わった復帰運動で知った日本国憲法。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。前文に、引き込まれた。 「思ったのです。憲法さえ享受できれば、米軍の支配を断てる。私たちの人権も尊重されるのではないかと」 27歳で村職員に。入庁6年後の72年、沖縄は本土に復帰する。だが、依然として村面積の73%は米軍基地だった。村は基地返還に動き、大湾さんは米軍や県との折衝に当たった。 78年、村は「基地の中にクサビを打ち込む」をスローガンに、米軍から土地の共同利用を取りつけ、米軍読谷補助飛行場の一角に運動広場を建設。同じ手法で飛行場北側で役場建設にも着手し、97年3月に全国初の「基地内役場」を完成させた。この間には、憲法に規定する平和の意義の普及などを定めた「平和行政基本条例」を制定(91年)。そして2006年、読谷補助飛行場約230ヘクタールは全面返還された。今、米軍基地面積は村の36%にまで減った。 沖縄戦があった45年、2701人の村民が本島内で戦没した「米軍上陸の村」は「護憲の村」として脚光を浴びた。 「ただの役場ではなく、平和の殿堂だよ」 村企画財政課職員の知花(ちばな)圭太さん(34)と天久朝美(あめくあさみ)さん(30)は、先輩職員から度々聞いてきた。2人とも、88年から村で毎年開かれる「平和創造展」など村の平和行政に携わる。役場脇にある「憲法9条の碑」を、知花さんは「平和の殿堂としてふさわしい碑」と言う。天久さんは平和行政基本条例を「職員や政治家を縛るもの」と説明する。「首長が代わっても守るべき条例は残る。沖縄戦や米軍統治を経験した先輩が残した平和への思いは、引き継がれるのです」 大湾さんは「母親以上」と慕った伯母をみとり、99年に退職した。今、後輩にエールを送る立場だ。「過去があって今、未来がある。『おかしい』と感じたら過去を振り返り、正しいと思ったことを未来に生かしてほしい」 大湾さんが暮らす読谷村渡具知(とぐち)地区が住民の沖縄戦体験などを聞き取って95年にまとめた「字誌(あざし)」の冒頭には、憲法の前文と9条の条文が記されている。編集委員会の事務局長を務めた大湾さんが強く希望した。「憲法の下、日本は68年間戦争をしなかった。人を殺さなかったし、殺されもしなかった。憲法にもっと誇りを持ってほしい」。大湾さんの願いだ。(この連載は平川哲也が担当しました) ”沖縄戦:家族失い、基地に古里奪われ 生き抜いた元読谷村職員、屈辱の日々に憲法の光差した” 毎日新聞 2013年06月21日 東京朝刊 http://mainichi.jp/select/news/20130621ddm012040144000c.html 太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本軍の組織的戦闘が終結して23日で68年になる。米軍が上陸した沖縄県読谷(よみたん)村には今、基地の跡地に役場が、その玄関脇に憲法9条を刻んだ石碑が建つ。「憲法の下、日本は68年間戦争をしてこなかった。憲法にもっと誇りをもってほしい」。家族5人を失いながら沖縄戦を生き抜いた元村職員、大湾近常(おおわんきんじょう)さん(73)は願っている。【平川哲也】 高さ約1・8メートルの御影(みかげ)石に、198人の名が刻まれている。読谷村渡具知(とぐち)公民館の一角に建つ地区戦没者慰霊碑。「なぜこんなに犠牲者が出たんだろう」。大湾さんは家族5人の名前をそっとなでた。 〇 〇 1945年4月1日、総勢約54万8000人の米軍が沖縄本島西海岸に上陸した。慰霊碑の西約100メートルの渡具知海岸も上陸地点の一つだった。 大湾さんは当時5歳。12歳の長兄定男さんに手を引かれ、52歳の父近六(きんろく)さんと山に逃げた。48歳だった母カミさん、9歳の次兄良雄さん、4歳の妹トシ子さんとは、はぐれた。 餓えと雨、ぬかるんだ地面。土砂降りの日、3人が逃げ込んだ小屋で空気が漏れるような息を吐き、父は亡くなった。大湾さんも意識を失った。 羽地(はねぢ)(現名護市)の米軍野戦病院で目覚めた時、5月になっていた。母がいると聞いて訪れた別の野戦病院。案内してくれた人がベッドの一つを指した。隣に次兄と妹がいた。「おかあ」。飛びつくと、母はぐったりしながら大湾さんの顔をさすってくれた。「よく生きていたね」 だが喜びはつかの間。3人の衰弱は激しく、次兄は再会後すぐに、母も6月に亡くなった。兄妹は伯母ナベさん(82年92歳で死去)に引き取られたが、ある晩、迷子になった。大雨の中を2人でさまよった末、疲れ果てた妹は発熱し、うめき声を上げ息を引き取った。再会した長兄も翌年マラリアで亡くなった。 〇 〇 苦難は戦後も続く。52年に渡具知に戻ると、伯母は雑貨店を開き、身を粉にして働いてくれた。だが、2年後に基地建設のため米軍に強制的に立ち退かされる。中学生になっていた大湾さんが家財道具を積んだリヤカーを引く背後で、伯母は泣いた。 高校卒業後、祖国復帰運動に携わり、日本国憲法を知る。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。前文に引き込まれ、憲法さえ享受できれば米軍の支配を絶てると思った。屈辱の日々に光が差した気がした。 27歳で村職員になり、6年後の72年に沖縄が本土復帰した。村の面積の73%が米軍基地だった。「基地の中にクサビを打ち込む」。村は78年に米軍から土地の共同利用を取りつけ、米軍読谷補助飛行場の一角に運動広場を建設。同じ手法で97年に全国初の「基地内役場」を完成させた。憲法が規定する平和の意義の普及などを定めた「平和行政基本条例」も91年に制定。読谷は「護憲の村」として知られるようになった。 2006年には読谷補助飛行場約230ヘクタールが全面返還され、米軍基地の面積は村の36%にまで減った。返還に向け米軍や県との折衝に当たり、99年に退職した大湾さんは後輩たちに平和への思いを託す。「過去があって今、未来がある。正しいと思ったことを未来に生かしてほしい」 (引用終了)
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