01. 中川隆 2013年6月21日 07:34:36
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正力松太郎がデマを流したのは誰一人知らぬ者のない事実だよ。 デマを流して朝鮮人を虐殺させたのは正力松太郎警視庁官房主事
「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力
正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。
「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。 以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。 いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。 「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。 伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。
論理的な解明は不可能ではない。 ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。 「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。 字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。 詳しい研究は数多い。 『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、 すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。
では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。
シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。
石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。 震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。 ところが食料がまったくない。 石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。 「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。
『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。
それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。 ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、 『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』
と頼まれたということであった」
ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、 予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、
というのが下村の論拠だった。 下村は台湾総督府民政長官を経験している。 植民地や朝鮮人問題には詳しい。 そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html 東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見
ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。
内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。 『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。
『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。 『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。
この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。
わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。 念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。
報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。 各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。 各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。 戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。
要点はつぎのようである。 「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」
「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」
同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。
実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。
同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。 発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。 ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html 号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄
務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。
「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。 ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。 「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。
そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。 地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。 輪転機用の巻紙もない。 だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。 しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。
本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。
普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。 晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。 つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。
斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。 『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。 そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。 もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。 しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。 結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。 奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。
著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。 読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。 あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html 「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者
「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。
軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。 民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。 しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。 いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。
しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。 歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、 大森大尉は、 「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、 『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』 と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。
なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。 「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。 前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。 「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。
これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。
ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。 戒厳令には「敵」が必要だった。
警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。 その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。
震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。 さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。 正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html 戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺
戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。
前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。 「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ 『こうなったらやりましょう』 といきまき、阿部信行参謀をして 『正力は気がちがったのではないか』 といわしめたと語っている」 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。
これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。 正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。 「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。 森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。
だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。
だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。 警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。 その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html
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