05. 中川隆 2013年6月19日 07:59:39
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朝鮮人の言うことが誇張表現ではなかった例 ■「虐殺」という表現について
関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、
婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり…… 身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。 (姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年) 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。
しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、
という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。 (『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)
当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。
植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。 日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。 http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm 〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待 荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。
「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。
西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。 1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。 それからひどくなった。 四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。 なかには女もいた。 女は……ひどい。
話にならない。 真っ裸にしてね。いたずらをしていた」 (関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ) これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。
これは例外的な事件ではない。 女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件
湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。 「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。 しかも妊婦である。 正視することができず、サッサと帰ってきた」 と回想した。 (「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ) 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。
この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。 その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。 赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」 (崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ) 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。
「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。
その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。
なんという残酷さ、 あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」 (「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ) 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で
「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」 ことを記した。 (関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ) 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味
上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。
このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。 それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。
その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。 吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。 (「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ) 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。
(山田昭次、立教大学名誉教授) http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm 関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為
当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。
本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。 警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。 しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。
さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。 これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。
この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。
けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。 第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。
関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。
裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する
1) 殺人行為の様子 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。 朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。 この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは, 「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」 「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」 と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。 ある意味でこの考えは理の必然でもあった。 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。
こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。 さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。
「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。 その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。 萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。 まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。 これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。 前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。 警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。 「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。
2) 裁判の様子
さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。 a) ある被告の答弁。
裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると 「そうです。そうですが首は落ちませんでした」 といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。 満廷もクスクス笑う。 事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。
「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。 〇〇万治は 「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」 (159頁,1923年10月23日『東京日日』)。 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,
裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。 また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。
一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』 とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。 それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。
そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。
したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。 しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。
そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。 これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。 http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667 歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。
日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。 それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。 しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。
震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、 1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、 さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。 中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。
しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。
朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。
竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……
阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。
「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。
数は二百五十ほど。 ノドを切られて気管や食道が見えている人、 首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、 無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人… なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」
以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。
「旦那、朝鮮人はどうですい。
俺ァきょうまで六人やりました。… 天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。… 電信柱へ、針金でしばりつけて、… 焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。 そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。
けさもやりましたよ。…
奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。… みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。 ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。
しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。 そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。… 舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。 トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」
『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。
サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。
大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。
日本のばあいどうか。
虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。
いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。
「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。 http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html 04. 2012年9月02日 11:38:55 : HNPlrBDYLM 震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。
事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。
関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。 最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。 これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。 これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。 地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。 そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。
世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。
背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。 植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。 そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。
その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。 しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。 日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。 日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。 小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。
噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。 確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。 実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。 最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。 噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。
噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。
中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。 日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。 当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。 そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。 そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。 若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。 虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。
関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、
「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」 という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。 そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。
あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。 現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。 では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。
NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。 この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。 在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。 復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。 これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。
また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。
官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。
官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。
そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。
亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。
マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。
関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。 自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。 また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。 しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。
また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。 噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。
ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。
自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。
手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。 外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。 朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。 この方法は官憲も用いていました。
これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。
もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。
被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。
事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。
その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。 政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。 なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。
民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。 なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。 ■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋
「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。
東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日) 「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す
火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」 (福島民友新聞、九月四日) 「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行
爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日) 「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ
彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」 (北海タイムズ、九月五日) ■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋
九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。 東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。 スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。 九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。
同 :警視庁菅下各警察署に通達。 鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。 コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。
船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。 九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。
本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、 右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。 ■不逞鮮人
震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。 この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、 一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、 婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり…… 身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。
(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年) 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。
実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。 そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。 しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、
その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、 という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。
なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。
女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。
したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。 (『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104) 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。
この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。
この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。 参考文献 山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版 http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm
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