http://www.asyura2.com/13/senkyo148/msg/634.html
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日本の左翼は、部落や朝鮮人を起源にし、ソ連、中共、北朝鮮が複雑に絡み合い、内ゲバを繰り返しながら、分裂しているので、正直、よく分からない。
反戦、反核、9条、慰安婦等主張は同じでも互いに反目し合っている。
元々、日本の社会主義運動は、ソ連(第三インターなナショナル)の影響を受けた共産主義者、部落=水平社運動、朝鮮衡平社運動による反政府活動が起源。
ソ連と中共の対立が共産党の分裂を引き起こしたようだが、中共と北朝鮮の反目が分裂を複雑にする。
全学連みたいにアメリカの対日工作に利用された組織もある。
中核派は部落系と睨んでいるんだが、革共同系、共産同系が出てきて、それらが分裂してぐちゃぐちゃ。
現在も、三里塚闘争、狭山闘争、公害病、米軍基地、反原発から自然保護と広範に大衆闘争を組織しているんだが、それぞれの背後関係が特定できない。
最近は、北朝鮮と統一教会が手打ちして共同して日本で活動しているようなので、さらに理由がわからない。
阿修羅には左翼シンパの皆さんが多いようなので、お詳しい方にその辺りを分かり易く説明してほしいm(_ _)m
<参考リンク>
◆日本共産党
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
1964年には中・ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。この時期、日本共産党員は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった(親中派)。4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。この問題の真相は不明であるが、当時日中国交正常化を目指していた中国共産党が池田内閣を窮地に陥らせないために日本共産党に指令したという説がある。
また、1966年、文化大革命発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象がおきたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた・・・
しかし、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の政権党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。
以後、ソ連によるチェコスロバキア侵略・アフガニスタン侵略、中国によるベトナム侵攻を批判した。また、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)によるとされる大韓航空機爆破事件・ラングーン事件・日本漁船銃撃事件などにも厳しい態度をとり、「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとはまったく違った国際問題での対応をとることになる。1968年の「プラハの春」に際して、日本共産党はソビエト連邦共産党を明確に批判した。一方でソ連派が党内に潜伏していたと見られ、ソ連崩壊後、ソ連共産党内部文書の公開が始まると日本共産党は独自調査団を派遣したが、明らかになった事実をもとに野坂参三はソ連内通者として除名された。
日本共産党は、こうした自党からの分派は勿論、新左翼の共産同・ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した(党派闘争参照)。大学では、日本共産党・民青はこれらの党派と厳しく対立し、暴力的な衝突も繰り返された。1971年6月19日、琉球大学の男子寮で民青と革マル派が衝突した際、革マル派の町田宗秀が寮の4階から転落して死亡した・・
◆野坂参三(中共に合流し、ソ連経由で帰国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89
外国人向け政治学校東方勤労者共産大学(クートヴェ)で秘密訓練を受け、コミンテルン 、内務人民委員部(NKVD)のスパイになった・・・
◆田中清玄(右翼に転向し全学連への資金提供)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84
◆徳田一球
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80
渡米してサンディエゴ官 立美術学校などで学び、アメリカ共産党日本人部に入党。1933《昭和8》年帰国・・・
◆宮本顕治
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E9%A1%95%E6%B2%BB
宮本が書記長を務めていた1950年代から60年代にかけての時期、日本共産党は朝鮮労働党と友好関係を結んでいた。戦前のコミンテルン時代には「一国一共産党」の原則があり、当時日本の統治下であった朝鮮半島や台湾も日本共産党の活動範囲とされた。
・・・
1970年代初頭に、金日成の誕生日を祝うという『事業』が行われる頃から、両党の関係は冷却し、1983年(昭和58年)のラングーン事件において、日本共産党が北朝鮮の犯行であると表明して両党の関係は断絶した・・・
◆日本の新左翼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%B7%A6%E7%BF%BC
同時期である1955年に日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開催し、中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争路線を正式に放棄した。これに不満を持つ学生党員は、1958年に共産主義者同盟(ブント)を結成し、「暴力革命」路線を掲げた。
1959年、岸信介内閣が日米安全保障条約の永続化を目指すと、普段は政治と接点のない一般国民の間からも激しい反発の声が上がった。(注 全学連は財界、CIAから資金提供を受け、デモを組織していた)・・・
1963年、革命的共産主義者同盟(革共同)の第3次分裂が起こり、いわゆる中核派と革マル派が成立する。また、1965年には、日本社会党の青年組織である社会主義青年同盟の武装闘争派が公然たる分派として「解放派」を名乗り、1969年に革命的労働者協会(社会党社青同解放派)(革労協)を結成した・・・
1970年、日米安全保障条約は自動更新され、学園闘争も当局側が勝利し、一般学生は急速に運動から離れて行った。学生運動においても、中軸的存在である共産主義者同盟(ブント)が、革命戦争路線の赤軍派を最左翼に、それと正反対の叛旗派、情況派(後の遠方派)を最右翼とし、戦旗派(荒派)、烽火派、その他(神奈川県左派、南部地区委員会の合同による蜂起派(連合戦旗派)等)へと分裂し、四分五裂状態となる・・・
1970年代の日本の新左翼運動は、山岳ベース事件や連続企業爆破事件などの不祥事を立て続けに起こしたことにより、次第に行き詰まりつつあった。そんな中、「千里馬運動で躍進中の朝鮮民主主義人民共和国」が大きくクローズアップされ、北朝鮮政府の情報統制と相まって「共和国(北朝鮮)の素晴らしさ」が盛んに喧伝されることになり、急速な組織化が進むことになった・・・
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