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韓国から来日中の元従軍慰安婦のハルモニ(おばあさん)2人は24日、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長との面会を断った。政治的な「謝罪パフォーマンス」を嫌ったためという。日本の植民地統治下、10代の少女が慰安所で旧日本軍の相手をさせられた屈辱と痛みは今も消えない。(小倉貞俊、出田阿生)
「私たちは日本軍の奴隷になり、無残に踏みにじられた。なのに謝罪を受けるどころか、妄言を浴びせられている」
23日、岡山市内で開かれた市民集会で、元慰安婦の金福童(キムボクトン)さん(87)=ソウル市=は声を震わせた。
同じく元慰安婦の吉元玉(キルウォンオク)さん(84)=同=とともに、支援団体「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」などの招きに応じて来日。18日から沖縄や中国地方の各都市の集会で証言を続けている。
日本は1910(明治43)年、大韓帝国を併合し、朝鮮半島を植民地化した。金さんは26年、現在の韓国南部に生まれた。14歳のとき、村の班長と軍服のような服を着た日本人から「挺身隊(ていしんたい)に行って工場で働け。さもないと財産が没収される」と脅された。
しかし、連れて行かれたのは、中国・広東の旧日本軍の慰安所だった。「強制的に連れて行かれ、女として、花開き、夢開けぬまま、前線に送られた」。そこで1日に15人ほどの相手をさせられたという。
その後、軍隊とともに香港や東南アジアの各地を転々とし、慰安婦生活は8年に及んだ。「機械のように扱われた。血の涙がにじむ経験だった」。終戦後に韓国に戻り結婚したが、子どもは生まれなかった。亡くなった夫には最後まで真実を打ち明けられなかった。
約20年前から、ソウルの日本大使館前で日本政府に謝罪と賠償を求める「水曜デモ」に参加。「雨が降っても体調が悪くても、毎週、叫び続けてきました」
吉さんは28年に現在の北朝鮮北部で生まれ、13歳のとき旧満州・ハルビンの慰安所で働かされた。刑務所に入れられた父を出すのに必要な罰金を稼ぐためだったが、「軍服工場の仕事」とだまされて連れて行かれたのだという。性病にかかっていったんは帰国するも、また連れ戻された。
いまだに故郷には戻れず、家族の消息も不明だ。現在は車いす生活で入退院を繰り返し、2月には手術を受けたばかりだった。「体調が悪く、とてもつらい。でも、皆が平和に暮らせる国にするため、証言を続けなければならないんです」
日本は、93年の河野洋平官房長官談話で旧日本軍の強制性を認めており、軍は慰安所の管理や移送に関与していた。だが、安倍晋三首相は2月、河野談話について「強制連行を示す証拠はなかった」との認識をあらためて主張し、持論を変えていない。
金さんは「今の政府が間違いを起こしたと言っているのではない」としたうえで「過去の政府が犯した過ちを、いまの政府が認めるどころか、憲法を変えようとの動きには戦争の準備をするかのように感じてしまう。とても胸が騒ぐ」と焦りをにじませた。
「(慰安婦は)必要だった」──。橋下市長が問題発言をしたのは、くしくも2人の来日が近づいた13日だった。金さんは18日の沖縄での講演で、「自分の娘を(慰安婦として)送ることができるのか」と非難。23日の岡山でも「大阪市長は娘を育てている親であるにもかかわらず、暴言を吐いた。市長の資格はない。政治の場から出て行って」と憤った。
24日に大阪市役所で予定していた橋下氏との面会は、朝に急きょ中止を申し入れた。当初は橋下氏が発言を撤回し、謝罪するのではと期待していた。ところが、度重なる発言を聞いて橋下氏が自説を曲げないことを確信。さらに「政治的なパフォーマンスに利用されかねない」との危惧もあった。2人は支援団体を通じて配った文書で「その場しのぎで術策を変える市長に会う価値も理由もない」とした。
歴史の生き証人の声を聞ける時間はそう長くない。韓国政府が把握した慰安婦237人のうち、生存者はわずか59人。2人も「訪日はこれが最後かも」と話す。
今も戦時下の性暴力は続く。その解決には慰安婦問題への取り組みが大事だ。岡山の集会で、金さんは高齢の体に疲労をにじませ、こう締めくくった。「私たち韓国と日本はお互いに和解し、和気あいあいと暮らさなければいけない。戦争のない平和な国を、力を合わせてつくってほしい」
◆日本人元慰安婦 千葉に慰霊碑
慰安婦とされて生き地獄を味わった日本人もいた。房総半島先端の千葉県館山市にある「かにた婦人の村」。売春防止法成立を受けてつくられた長期の婦人保護施設で、現在は知的・精神障害の女性69人が暮らす。
青い海を望む小高い丘には、天を突き刺すような形の石に「噫(ああ) 従軍慰安婦」と刻まれた碑が立つ。きっかけは93年に71歳で亡くなった入所者の城田すず子さん(仮名)の訴えだった。
84年に「従軍慰安婦だった」と告白した。「終戦後40年にもなるのに、日本のどこからも、ただのひと言も上がらない。兵隊は祀(まつ)られているのに」と、施設の創設者だった故・深津文雄牧師に手紙で打ち明けた。
<兵隊用は1回50銭か1円の切符で、行列をつくり、私たちは洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせるすべもない有様(ありさま)です。それをわたしは見たのです。この眼で、女の地獄を…。(中略)かつての同僚の姿がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。生きていても、そんな恥ずかしいこと誰も言わないでしょう。>
深津牧師は「言葉がなかった。天皇の軍隊が隣国の少女をも欺いて行った、極めて悪質な罪悪だが、誰もその責任を取ろうとしない」と記し、「日本男子たる者すべて、老いも若きも、直接関係した者もしない者も、これから再びこのようなことをしない決意表明が求められているのではあるまいか」と書き残した。
城田さんは親の借金の肩代わりで芸者屋に売られ、南洋諸島の慰安所で1日何十人もの兵隊を相手にした。慰霊碑の除幕式では、かつて慰安所があった南の方角に向かい「みんな帰っておいで」と慰安婦仲間に呼びかけ、号泣したという。
前施設長の天羽(あまは)道子さん(86)は「橋下氏の発言の背景には、社会の土壌がある。日本の倫理観が問われている。外圧で変わるのではなく、政治家たちはもっと真剣に向き合うべきだ」と訴えた。
[デスクメモ]
「慰安婦は『戦地売春婦』だ」と日本維新の会の平沼赳夫代表代行は言った。この党の指導者たちは戦時下の「歴史」
を語り、偏見と憎悪と敵意を駆り立てている。そこに痛みを直視し、分かち合う真心は感じられない。「日本軍の奴隷」と証言するハルモニの勇気と落胆の差の深さを思うと心が痛い。(呂)
2013年5月25日 東京新聞 こちら特報部
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2013052502000121.html
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