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乙武洋匡さんがイタリアンレストランへの入店を拒絶された件について、大筋の話は既に落着している。
当該のレストランに苦情が殺到したことや、乙武さんのツイッターアカウントが炎上した点についても、ご本人が自身のブログ上で行き届いた総括をしたことで、騒動は鎮静化している。
なので、この問題自体を蒸し返しすつもりはない。
私自身は、初期段階から、当件には関与していない。ネット上で、騒ぎが拡大していることに気づいてはいたが、あえて見に行くことはしなかった。
つい先ほど、この原稿を書くための予備取材の意味で、乙武さんのブログと、いくつかのまとめサイトの記述をチェックしに行っただけだ。
だから、何も言わない。
これまで静観していた人間が、ことここに及んで何かを言うことは、態度として好ましくないと思うからだ。
決着のついたレースについて、したり顔で解説を垂れる評論家の言い草を、競馬ファンの多くは、軽蔑している。
「馬券も買わなかったヤツが何を言う」
彼らは、勝ったのであれ、負けたのであれ、自腹を切った人間の言葉を尊重する。リスクを冒しに行っていない人間の言葉には、耳を傾けない。
今回の出来事についていうなら、馬券を買っていた(つまり、リスクを負っていた)のは、乙武さんとイタリアンレストランの店主だけだ。
そういう意味で、私は、論評する資格を持っていないと考えている。
今週は、障害者一般の話をしたい。
と、書き始めたとたんに、いきなり炎上の種子が宿っている。
「障害者」
という表記がそれだ。
私も、かつて、この文字を使うことについて、何人かの人間から注意を促されたことがある。
「私は『障碍者』という字を使っています」
「『碍』という難読漢字が嫌なら、『障がい者』というふうにひらがなに開く手もありますよ」
なんでも、「障害者」という単語を構成するうちの一つである「害」という漢字に、「他者を傷つける」という意味合いがあることが、「さまたげられている」当事者である障害者のありようにふさわしくないというのが、彼らの言い分であるらしい。
なるほど。
趣旨は了解した。
しかしながら、私は、「障がい者」と「障碍者」の、いずれの表記も好まない。
まず、「障がい者」という表記は、漢字とかなの交ぜ書きが不快で耐えられない。
あえて「害」の字を排除した書き手の意図が行間に横溢してしまっている点も感心しない。
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私は、こういう「これ見よがしな善意」みたいなものが、自分の文章の中で文脈とは無関係に突出する事態を歓迎する者ではない。だからこの用語は使えない。「障がい者」とタイプしただけで、次の行を書く気持ちが萎えてしまう。
「障碍者」は、「碍」を「がい」と読ませる設定の難解さに抵抗をおぼえる。
現代に生きる日本人の第一感では、この字は、右側のツクリからの類推で「とく」と読みくだすと思う。多数派の日本人が誤読する可能性のある漢字を使うことには、やはり抵抗を感じる。
それ以上に嫌なのは、この「障碍者」という表記に、見る者を「啓蒙」しようとする気分が含まれている点だ。
「子供」→「子ども」の時にも書いたが、この種の特別な表記を広めようとしている人たちの口吻には、
「私たちのような人権意識の高いリベラルな人間は、『障害者』などという差別的な表記には耐えられないのです」
という特権意識のようなものが露呈している。別の言い方をするなら、
「あなたがた無神経で無教養な人々は何にも知らないだろうから教えてさしあげるけど、『害』の字には、『他者を傷つける』という含意があります。そういう文字を、『しょうがい』をかかえる人間の呼称として使うことの罪深さがお分かりですか?」
といった感じの「ご高説」みたいなものを、私はこの文字の字間から受信するのである。
考え過ぎだと?
私はそうは思わない。考え過ぎているのは、「害」を個別の文字として単語から分離した上で、偏った読み解き方をしている人たちの方だと思う。
仮に、「障害」という用語に不快を感じる人々が実在しているのだとしても、当該の言葉を使っている側に特段の悪意が無く、文脈に差別的な意図が宿っていないのであれば、そこから他人を傷つける意図を読み取るのは、やはり誤読だと申し上げなければならない。
漢字の意味についての解釈は、だから私は、こじつけだと考えている。
漢字には、様々な意味が備わっている。
漢和辞典を開いてみれば、誰にでもわかることだ。
表意文字は、読み手の読み方次第で、どういうふうにでも解釈できる。言葉というのはそもそもそういうものなのだ。
たとえば、「経済」の「経」には、「首をくくる」という意味がある。だから、成語の「経死」は、「縊死」と同義だ(『新漢語林』第二版 大修館書店より)。
ということになると、この文字の不吉なニュアンスを回避すべく、日本経済新聞は「日本けい済新聞」と改名せねばならないのだろうか。あるいは、よりハッピーな語感を醸すべく「日本恵済新聞」ぐらいに看板を掛け替えた方がよろしいというのか?
ばかばかしい。
三島由紀夫は、サインを求められると、興に乗って「魅死魔幽鬼男」と書くことがあったのだそうだ。
私も、一時期、三島先生にならって、「汚堕地魔多禍死」と署名していたことがある。
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もちろん、だからどうなったというものでもない。三島は死んだが、別に不吉な名前でサインをしたからというわけでもなかろう。私は生きている。名前通りに、地に墜ちて禍(わざわい)多く汚れてはいるが、まったく死んでいない。あたりまえだ。
「子ども」でも「障がい者」でも同じことだが、特段の差別意識が宿っているわけでもない言葉の言葉尻をつかまえて、そこに「差別」なり「悪意」を見つけようとする態度は、本当の差別の撤廃には貢献しない。
この種の言葉狩りがもたらすのは、むしろ、糾弾や非難を恐れる社会的な恐怖心だ。
そして、その恐怖心は、「障害」に言及したり、「障害者」と交流することそのものをタブー視するネガティブな態度に結びつく。
さらに言うなら、「好ましからざるニュアンスを持った文字が含まれているから」という理由で、文脈の中から特定の用語を排除しようとする姿勢は、「余計な社会的コストがかかるから」という理由で、社会の中から障害者を排除しようとする思想と、その根本において軌を一にするものなのである。
そうでなくても、われわれは障害者について何かを言う時、過剰な「配慮」を求められている。
というよりも、求められる以前に、われわれは、障害者に対する時、なぜなのか、過度に緊張している。
であるからたとえば、自分のブログに障害者に関連するテキストを書こうという段になると、わたくしども素人は
「障害者の方々」
「障害に苦しんでおられる皆様」
「障害をお持ちのお客様がいらっしゃったので」
と、最大限に丁寧な言葉を使ってしまいがちになる。
障害者に敬意を抱いているからではない。憧れているからでもない。
「普通の言葉使いをすると、差別と受け取られかねない」
と考えて、その自分の考えにおびえるからだ。
かくして、架空の圧力団体の糾弾を恐れるブロガーがものする原稿は
「目のご不自由なご年配の男性が放置自転車に行く手を阻まれて、ご困惑の態で御佇立しておいでだったので」
と、なんだか、皇室記事みたいな文体を獲得するに至る。
というか、メカニズムは皇室記事の生成過程と同じだ。
障害者に直面した一般人は、皇室記事を任された新米記者と同様、うかつな言葉を使って失態を演じることをなによりも恐れている。だから、彼は、とにかく持ち上げておくのが無難だとばかりに、最大限の敬語を使うのである。
さてしかし、言葉狩りをしている人たちも、過剰な敬語を使っている人たちも、悪意でそれをやっているわけではない。
だから私は、彼らの態度を、必要以上に責めようとは思っていない。
人々が、見慣れない対象にぶつかって、ぎこちない反応を示すことは、賞賛すべきことではないにしても、大筋から言ってほほえましいリアクションではあるからだ。
良かれと思ってやっていることが的外れだったり、緊張のあまり仕草の細部が硬直化するというのは、われわれの誰もが犯しがちな誤りであり、それは、仕方のないことだ。よしんば、彼らの態度の中に若干量の「偽善」が含まれているのだとしても、そのことを以て人々の「善意」が価値を失うということでもない。
というよりも、「善意」が「偽善」を含んでいるのは、むしろ当然のなりゆきでもある。であれば、その「偽善」の量が、臨界点を超えない限り、善は善としてなまあたたかく歓迎してさしつかえないはずなのだ。
問題なのは、他人の偽善を指摘することで、何かを成し遂げた気持ちになっている人々が、結果として、善なる人々の善なる意思を台無しにしている現状だ。
私は、インターネットの普及以来、勢力を拡大しつつあるように思えるある種の「本音万能主義」に対して、強い憂慮の念を抱いている。
詳しく述べる。
ネット上では、遠慮の無い発言が許される。
特に匿名のアカウントで発言する人間は、露骨な差別用語や、リアルな空間では決して口外できないヘイトスピーチの類も自在に拡散できる自由を手にしている。だから、発言は、どうしても過激かつ露悪的な方向に流れがちになる。
「要するに○○○は家の中に引っ込んでろってこった」
「○○の分際でなーにがイタリアンだか」
こういう無遠慮な話しっぷりが、魅力的に見えるのもネットならではだ。
「おまえたちの善人ごっこにはうんざりだ」
「○○が××だと思うんなら、はっきりそう言えよ」
今回、事件の概要を把握すべくネットを巡回していて、正直な話、気分が悪くなった。
二日ほど前の当サイトに掲載された慎 泰俊さんの記事の、コメント欄にもがっかりした。
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記事に対して賛否があるのは当然なのだとして、テキストの内容を曲解してかかる書き込みが少なくなかったのはいったいどういうわけなのだろうか。ネットのリソースの中では、会員登録というハードルを設定している分、比較的上質であるはずの日経ビジネスオンラインの読者にしてからが、この程度の人々を含んでいたというのは、やはり、どうにも残念なことだ。
結局、名前と顔をさらすことで「上品ぶる」ことを余儀なくされている公的な場所(「社会的偽善」を要求される枠組み)に居ないと、人は、上品にふるまうことができないのだとすると、ネットがもたらす本音の言論は、われわれの社会が上品ぶることでかろうじて持ちこたえている社会的な基盤を根底から破壊しかねないということになる。
今回、乙武さんに対して非難の声を上げていた人たちに通底していたのは、乙武さんを、障害者である以上に、ある種の「特権階級」として扱おうとする態度だった。
つまり、彼らは、「既得権益者を血祭りにあげる」というおなじみのストーリーを採用していたわけだ。あの乙武さんに対して、である。
あきれてしまう。
有名人だから、経済的に豊かだから、十万人以上のフォロワーを抱える影響力の大きな人物だから、ということがあると、障害者である側面は帳消しにされるわけなのか。
おそらく、乙武さんが、無名の貧しい身体障害者で、入店を拒否されたのが庶民的な町の食堂であったのなら、彼らの「同情」の持ち方は、もう少し違っていたはずだ。
別の言い方をするなら、あるタイプの人々の「同情」は、「自分より低い位置にいる」ことが確認されている対象に対してしか発動されない設定になっていて、何かの基準で、「同情に値しない」ポイントを超えると、サービスは無効になるということだ。
あるいは、障害者であれ、著名人であれ、「普通」でない人々は、結局のところ「局外者」として排除されるということなのかもしれない。
今回の乙武さんの事案に限らず、障害者をはじめとする「弱者」が登場する物語は、ネット上では、いつも同じ形で展開する。すなわち当事者のやりとりとは別なところで、
「生産に寄与しない人間は遠慮すべきだ」
という声をあげる人々の声が大勢を占める結果になるのだ。
「オレらは何もそんな極端なことを言ってるわけじゃないぞ」
と反発する人がいるかもしれない。
が、現実に、政府の人間がほとんど同じ意味のことを言っている。
以下、引用する。
《「――略――(生活保護給付水準の)見直しに反対する人の根底にある考え方は、フルスペックの人権をすべて認めてほしいというものだ。つまり生活保護を受給していても、パチンコをやったり、お酒を頻繁に飲みに行くことは個人の自由だという。しかしわれわれは、税金で全額生活を見てもらっている以上、憲法上の権利は保障したうえで、一定の権利の制限があって仕方がないと考える。この根底にある考え方の違いが大きい。」》
以上は、「週刊東洋経済」の2012年7月7日号に、世耕弘成参議院議員が、記名で書いた原稿の一部だ。
ネットイナゴの捨て台詞ではない。
「フルスペックの人権」という言い方に、私の世代の日本人はまずなによりも度肝を抜かれる。
というのも、われわれは学校で、「人権は、天賦のものであって、何人もおかすべからざる、生存の前提だ」というふうに教えられてきているからだ。
「フルスペックの人権」という言葉の背後には、「人権」を「スペック」と見なす思想がある。
驚くべき思想だ。
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スペックとはつまり、それがパソコンにおけるメモリ搭載量や、自動車におけるカーナビ装備の有無といった、「計量的」かつ「取り外し可能な」属性であることを意味している。
政権与党の内部にいる人間が、人権をそんなふうな「行政側の判断で賦与したり召し上げたり制限したりすることが可能な」テンポラリーでオプショナルな周辺装備の如きものとして描写する態度自体、驚天動地と申し上げるほかないのだが、この考え方は、世耕議員の独創ではない。同じ考え方を抱いている日本人はたくさんいる。
もしかしたら、もはや多数派であるのかもしれない。
この種の主張を展開する人々の頭の中には一種の「生産管理思想」と言って差し支えのない効率万能主義が根を張っている。
彼らの考え方からすると、「大きさや形の揃っていない部品は、システムの不確実性を増大させる」という意味で、「不良品」に分類される。
と、それらの、「粒の揃っていない」「不定形な」部品は、ジグソーの絵柄にハマらないパズルのピースとして、排除せねばならないことになる。
工場長の立場で、工業製品を相手にものを言っているのであれば、彼の主張は正しい。
しかしながら、われわれの社会は、「効率のために動いている」のではない。
また、わたくしども個々の人間は、より大きな何かの部品として定義されるところのものでもない。
われわれは、世界を効率的ならしめるためにこの世に生まれたわけではないし、社会的な生産量を極大化するために生きているのでもない。
順番が逆だ。
むしろ、そもそもバラつきのある個々人であるわれら人間が、それぞれに違った方法と条件で、個々の快適な時間を過ごすために、社会が設計されている…というふうに考えるのが本当のはずなのだ。
誰もが障害と無縁なわけではない。
この先、老いて死ぬまでの間には、必ず車椅子や杖の世話になる時期がやってくる。
その時に、それぞれの身体的条件を社会に適合させるための道具や施設や制度が、近視の人間にとっての眼鏡や、歯を抜いた人間にとっての義歯のように、効果的にサポートしてくれるのであれば、それは、万人にとっての利益であるはずではないか。
偽善的なことを書いてしまった。
これで、またしばらく、解善(←解毒の反対ね)のために、ツイッターで毒を吐かねばならない設定になったのでよろしく。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130523/248527/?rank_n&rt=nocnt
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