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(回答先: 共産党の元県議、生活保護費詐取容疑で3回目の再逮捕(2ch)共産党が生活保護減額に反対する理由が判明!♪ 投稿者 木卯正一 日時 2013 年 5 月 08 日 02:03:37)
産経新聞社「月刊正論」からEISへの提供コラムです。
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告発第4弾!
タガが外れた日本共産党
袋小路の地方組織。慢性的な資金不足に企業献金に
手を染め始めたこの惨状を見よ(P300〜309)
元日本共産党職員●しわ・こうじ 志波耕治(筆名)
共産党の活動に専念し、党から俸給をもらって生活する党員のことを一般的には党専従というが、共産党内では共産主義的教義の立場から「職業革命家」とも呼ばれている。前回記事までに筆者は日本共産党中央委員会(本部)の周辺事情を中心に取り上げてきたが、同党の組織の特徴として中央委員会と支部までの間に「中間機関」とも呼ばれる都道府県委員会、更にその下の地区委員会が置かれ、そこにも多数の「職業革命家」たちを擁していることがあげられる。
最近、実数が中央委員会報告などで公表されたこともなく、推測するしかないが、47の都道府県委員会の他、300以上の地区委員会があり、各地区には最低1名、多くて10名以内の党専従がいるから、おそらく党本部以外の「職業革命家」の数は、1,000〜1,500名以上となるだろう。しかし、中央委員会から下の機関は、それぞれ゛独立採算″を原則に運営されているので、その財政事情には差があり(一般的に極めて貧しい)、地方機関の「職業革命家」は相当厳しい経済事情の下に置かれていることが多い。
「職業革命家」の名称を共産主義の教義の中に採り入れたのは、ボリシェビキ党(ロシア社会民主党「多数派」=ソ連共産党の前身)を創設し、ロシア社会主義革命の勝利者となってソ連邦を建国したウラジミール・イリイチ・レーニン(1870〜1924)である。レーニンの「職業革命家論」は、今日の日本共産党も党組織の基本理論としている「前衛党論」の根幹をなすものだ。これをもって、レーニンは共産主義理論の大系的創出者とされるカール・マルクス(1818〜1883)やその僚友フリードリヒ・エンゲルス(1820〜1895)がまとめあげた到達から、更に一歩、理論を前進させたとされている。
「前衛党論」とは、およそ次のような考え方だ。資本主義から社会主義へ、政治と経済の仕組みが移行するのは歴史の必然だが、それは階級闘争の過程を通して実現される。社会主義への変革から共産主義社会へ歴史を進歩させる上で決定的役割を果たすのは、資本主義的体制の中で常に増殖していく労働者階級(賃金と引き換えに労働力を売り渡して暮らす無産階級=プロレタリアート)であるが、労働者はそれ自体として自然に自覚的な変革者に成長するのではない。
労働者は、共産主義の理論に導かれその歴史的役割を自覚してこそ、真に戦闘性と組織性を発揮し革命を成就できる。共産主義の理論は体系的な「科学」である故に、それを労働者自らが自然にわがものとすることはなく、労働者階級の「外」から持ち込まなければならない。労働者階級に社会を変革する「科学」としての共産主義理論を持ち込むことこそ、「前衛党」(労働者階級の前に立って進む党であるという意)の役割である…。
こうした前衛党の運営には、党活動に全生活をあげて専念する「職業革命家」が必要だと喝破したのがレーニンだ。
では、「職業革命家」の実態は、我が国ではどうであったのか?
レーニンが創設した「世界共産党」(コミンテルン=1919〜43年の間に存在したソ連共産党を中心とした世界各国の共産党組織の国際的運動体で、民主集中制の原則で各国共産党は「支部」と位置づけられ、コミンテルン執行委員会の指導に従った)の「日本支部」であった戦前期の日本共産党は、もちろんレーニン的な「前衛党論」の立場で「職業革命家」を配置し活動の軸としていた。
その姿は、プロレタリア作家・小林多喜二の代表作の1つ「党生活者」でリアルに描かれている。
しかし、現在の「職業革命家」たちの実態はどうなのか? その一員に加わった頃の筆者は、新入社員よろしく゛新入り″としての理想に燃えていたと共に、実情がよくわからず緊張し、ただ「職業革命家」(党専従になる時から、「我々は職業革命家なのだから、一般の党員とは違うんだ」と教え込まれた)という言葉に含まれた誇りにいくぶん酔いしれていたものだ。しかし、半年、数年…と専従生活をしていくと、「職業革命家」の世界では上でも下でも、およそ世間常識とはかけ離れた理不尽なことがまかり通っていることに気付いてしまう。
問題は、その理不尽さに疑問を持ち、「真実を何よりも重んじる共産主義者としての誠実さ」を貫いて変えていこうとするのか? それとも、周囲に流されて沈黙し、ただ上級の言うことに゛従い″(実際は可能な範囲でうまく受け流していく)ながら、下部(都道府県委員会なら地区委員会、地区委員会なら末端の党支部)へ無理難題を押し付け、゛タライ回し″していくか?
前者の立場を選ぶ専従は、上級機関や時には同僚にとって邪魔者扱いされ、必ず最後に何かの理由を探されて゛失脚″させられる。それが早いか遅いかの違いだけだ。そして、後者のスタンスで立ち回っていく者のみが、長く厳しい「職業革命家」の道を歩んでいくことが出来る。一抹の良心の痛みを感じたとしても、それは゛能面″の下に隠していくのだ。これに、上手におべっかを使えれば、共産党組織のヒエラルキーの中である程度、上昇していくことが可能となる。
こうした「職業革命家」としての日々の営みの中で、一般世間的に見れば全く勘違いのプライド(「日本共産党は一般大衆を導く前衛党であり、『職業革命家』は共産党員の中でも最先進に立つエリート」という意識)に支えられながら、党専従は独特の卑屈さと陰険さを身につけ、゛貧乏官僚″として君臨するようになっていくのだ。
50万党員の幻想
昨年、物故した日本共産党元中央委員会議長、宮本顕治氏が最高指導者だった期間の中で、最も権勢を誇った時期といえる1980年代半ば、中央委員会総会における冒頭発言で同氏は「人は石垣、人は城」と戦国武将・武田信玄の言葉を引いて、党専従の待遇改善を全党に呼びかけた。実際、このスローガン以降にある程度の期間にわたり、各地区委員会にまで至る党機関の財政収支について党中央からの監査が入り、地方によって格差もあったが、何段階かにわけて80年代後半期に「活動費」(共産党では90年代頃まで党専従の給与をこう呼び習わしていた)が引き上げられ、党専従とその家族を大いに喜ばせた。
宮本全盛期の頃、筆者は、表向きに言われた「人は石垣…」のスローガンの裏で地区委員会に至るまでの「職業革命家」たちに、一般の党員が参加しない会議等で次のような説明がされていたのをよく記憶している。
「今後、党専従といえども給与と待遇面は、少なくとも地方公務員並みをめざさなくてはならない。そのためには、1日も早く『50万の党員、400万の読者』を実現する必要がある。特に『400万の読者』を実現したなら、その財政上の効果により党専従の処遇は全国一律の統一した体制に移行することが出来、活動費の遅配・欠配を根絶することはおろか、社会保険などの保障も心配は無くなる。少なくとも、給与支給額の党内格差は無くなる…」
この説明が、当時の党専従たちにどのように受け止められたかは、党外の人々はもちろん、普通の共産党員やここ10年以内に党職員になった若手専従にも理解出来ないであろう。当時、各地の地区委員会では、党専従の給与が累積で数カ月分から半年分程度は遅配・欠配するという状況が圧倒的であった。筆者は、当時も欠配を経験はしなかったが、給与自体が恐ろしく少なく(民間会社から専従に転職した途端、月額で半分になった)、支給前の1週間は食事代にも困り、親しくなった党員宅や党員の多い職場の労働組合事務所を回って゛炊き出し飯″にありつかなくてはならなかったくらいだ。
もちろん、後で述べるように現在の地方党機関専従たちの給与遅配の状況は、一時よりも後戻りして悪化している。しかし、いまから20年以上前は、党専従が貧乏で常に金に困ることは、一種の゛清貧″とすらみなされていて、自分たちも一般の党員たちも当たり前のことと考えていたのだ。つまり、「職業革命家」になるとは、ただでさえ出世の道とは程遠い一般共産党員よりも更に貧しく、休暇もままならないような悪待遇の生活を覚悟しなくてはならなかったのだ。
それが、「400万読者の実現」で、抜本的に解決される!…くらいの幻想は、専従みんなが持ってしまった。地方党機関の会議でも繰り返し「400万読者実現には、この地区でどれだけの読者を安定的に持つ必要があるか」と議論され、勇躍、党支部に出かけて「赤旗」拡大を煽ったものである。
しかし、2年たっても3年たっても、何度党大会を迎えても「400万の読者」は実現出来ない。もちろん、今に至るもこの目標に近づくことが全くないまま推移している。
結局、80年代から90年代前半期にかけて、「50万の党員」も「400万の『赤旗』読者」も、共に実現しなかった。国政選挙でもほとんど前進がないままで推移した。じたばたと地方党機関を通した指導に追い回された末端の共産党支部の党員やその周辺から、以上のスローガンを打ち出して全党を活動に駆り立てたことに責任をとろうとしない最高指導者、宮本顕治氏が゛老害″であるとの声があがるようになった。
しかし、さすがに戦前期に自らが手を下したスパイ査問(拷問)による殺人容疑すら、自身の論戦で裁判法廷にて確定させなかったくらいのレトリック力を持つ宮本氏は、「我が党には、重層的な指導体制が必要である」と巧みに゛高齢″批判への切り返しを行った。更に「80年代後半に至り、50年代を通じて吹き荒れた(レッドパージに象徴される)゛戦後第一の反動期″に匹敵する゛戦後第二の反動攻勢″に党と革新勢力は直面している」と、自ら提起した方針の失敗や選挙での敗北の責任を情勢に転嫁する珍論を中央委員会総会で叫び、結局、「50万の党員、400万の読者」の目標はたな晒しのまま、誰の責任問題にも発展せずに雲散させられていった。
残ったのは、地方党機関や末端党支部での「赤旗」拡大へのマンネリ的な疲労感だけで、いまだに手を替え、品を替えて「拡大」を呼び掛けるものの80年代以前のような力を入れた取り組みはその後一切、展開されずに至っている(かつて、前進期は万単位で増紙した「赤旗」が、今年1月、年末に比べ全国で3,000余部増えたことを手放しで喜び、報道しているのはいかにも哀れである)。
「赤旗」拡大は゛賽の河原の石積み″
宮本体制の確立以来、今日まで党建設の根幹の1つとされてきた「赤旗」拡大が本稿連載1回目の記事で取り上げたように、結果として全く進まず却って長期的な後退が、日本共産党の政治的及び物理的存在の危機につながっている。いったい、なぜこのような状態に陥ってしまったのだろうか?
宮本氏が「人は石垣…」だの「400万読者」だののスローガンを打ち出しながら、党勢拡大運動がなかなか軌道にのらないまま数年を経過すると、「機関紙革命」という言葉が党中央から提起される方針でよく使われるようになった。
宮本体制が確立した1960年代から70年代いっぱいにかけて、「赤旗」読者の急速な拡大が集中的なキャンペーンを煽って追求された。これは「拡大月間」と呼ばれ、2〜3年毎の党大会や国政選挙、いっせい地方選挙等の前に「機関紙と党員の陣地を前進させよう」「日本共産党の党勢の前進こそ、反動勢力への最大の回答であり歴史を進める力」と党員を煽り、「赤旗」拡大に駆り立てたものだ。「拡大月間」は、他の課題(大衆的な運動やその他の組織課題)をひとまず置いて、党内のあらゆる力を集中して行うため、いろんな歪みが生まれていた。
これは、「〇〇までに、××部どうしても前進させよう」との目標を持つことから、「赤旗」の購読を訴える相手に「(党大会や選挙期間までの)2〜3カ月でいいから」と言って勧誘することにつながり、これらの読者は一定の期間が終わるとすぐに購読をやめてしまう。「拡大月間」の度にそんなことを繰り返すものだから、「赤旗」は定着した読者数に比べ、圧倒的に「短期読者」の割合が増えてしまう。
こうして、「拡大月間」が繰り返される狭間には、急速に読者数が減りそれを次の「拡大月間」で取り返すという゛賽の河原の石積み″のような状態が定着してしまい、週刊「赤旗」日曜版が創刊(1959年)されて、急速に読者数を伸ばしてきたものが70年代後半期には完全に頭打ちとなっていた。
「機関紙革命」は、こうした状況を打破するために、「拡大月間」に頼らず、日常の持続的取り組みで毎月の読者数を前進させること、多くの党員が参加する確実な集金活動で読者との結び付きを強め長期読者を増やす、「2本足の党活動」(大衆の要求実現活動と党員・機関紙の拡大を党活動の車の両輪として推進する)を貫く、を主要な内容として党活動のあり方として定着するものとされていた。
この方針は、末端の党支部でも好意的に受けとめられた。実質的にボランティア活動である「赤旗」の配達・集金活動については、参加する党員が圧倒的に少なく、一部の地方議員や党専従、居住支部の活動家が過重な負担でこなしており、中には100部とか300部といった部数を広範な地域で配達・集金して「寝る間もない」と悩む党員もいた。そして、せっかく拡大しても配達されなかったり、集金出来ずに担当者が巨額な立て替え払いを余儀なくされて経済的困難に陥った上、読者の不信を招いたりするといった事態が続出していたからだ(今日も、地方によってはよく見られる現象だ)。
しかし、「拡大」の持続的取り組みという方針が、地方党機関で「毎月、一部でも読者が前進すればいい」との受け止めとなり(実際は相当数の減紙が予想されるのだから、それを上回る読者拡大が必要なのだが)、選挙や党大会の目前でも、全国で数百部単位でしか読者数が前進しないどころか、下手をすれば横ばいというのが常態になってしまった。これでは、「党員と読者の陣地を土台に、国政・地方選挙で前進し、日本の変革を進める」という日本共産党の基本方針が看板倒れとなってしまう。
そこで、宮本体制下、現在の最高指導者である不破哲三氏が考え出したのが、「前回選挙時比で130%以上の読者数の獲得」という理屈だ。これは、「いろいろな地方の選挙の実態を調べた場合、議席や得票で前進している地方の党組織の『赤旗』読者の陣地が、前回選挙よりも1.3倍以上に増えていることが多い」ということを根拠にしたものである。
こうして、不破氏の功績で再び、「赤旗」拡大を期日(当面する選挙までに)と数値目標(前回選挙時の読者数を1.3倍化)で、党中央が煽れるようになったのである。地区委員会以下の地方党組織は、この路線転換に当惑、混乱した。結局、必要なら又「拡大月間」をやれと言っているようなものである。
こうして一見、その時の状況で道理を以て変えられたかに装われても、党活動の根幹に関わる方針をクルクル猫の目のように変えられては、地区委員会も支部も党員たちも堪まらない。先に指摘したような、長年の無理な拡大運動が生んだ゛負の遺産″(末端の党組織が周囲に見いだせるのは、たまに短期で「赤旗」をとってくれる人たちばかりで、党員たちはこれらの人々との付き合いに追われて新しい大衆運動だの、それを通じて人とのつながりを増やしていくだのの活動をする余裕など無い)を解決する見通しと方針すら示されず、再び拡大数値目標の追求が党中央をはじめとする上級党機関から再開されたのである。こうした流れが、「赤旗」読者拡大をめぐる日本共産党の活動で今日まで続いている。結果は、拡大数の減少(インターネットや携帯電話普及で一般商業新聞すら減紙に悩んでいる時勢に、゛しんぶん″を名乗る「赤旗」が無縁である訳もない)、党組織と党員の疲弊であり、これから述べる数々の地方党機関と党専従たちによる活動の歪みである。
露骨な企業への押し付け
実は、これまで書いた「赤旗」拡大、「機関紙革命」の矛盾と悲劇の実態については、北朝鮮による拉致問題に全力で取り組んだことを端緒に「権力側のスパイ」として除名された元日本共産党国会議員公設秘書の兵本達吉氏が著した『日本共産党戦後秘史』(産経新聞社、2005年9月)の中の「『機関紙革命』という無間地獄」(309〜324ページ)にも詳しい。筆者は、党専従としては末端である地区委員会勤務の経験をふまえて同じテーマを振り返っているのである(であるから、今回の記事ではあまり証言者が登場していない。筆者が直接体験した内容が大部分だからだ。ちなみに、党本部は、筆者の正体についてはもうわかっているそうだ。゛裏部隊″の面々は、筆者の経歴を今回の内容に照らして、更に確認する作業を必死に行うことになるだろう)。
率直に言って、支部や地方議員などの末端のレベルでの「赤旗」拡大は、いろんな世話役活動を通しての義理がけが圧倒的で、「民主経営」(共産党員たちが経営イニシアチブを握っている法人などを指す。民医連医療機関や「赤旗」を印刷する企業等)は独占禁止法違反まがいの有利な取引関係をカサに着ての押し付けでようやく成果をあげるのがせいぜいだった。そうなると、「義理の切れ目が縁の切れ目」で、相手が世話になった程度に応じて「これくらいでいいだろう」と思ったタイミング、更には前述した「短期読者」(これも元々、近所づきあいなどの義理にからめてのものだ)のように初めから数カ月以内の購読約束の期限が来た場合、転居、死去、更には取引関係の終了で「赤旗」購読は中断される。
「赤旗」拡大の大変さ、正に「無間地獄」というべき本質は、増やせば増やすほど月々の購読中止、減紙も大きくなっていくということに他ならない。「日本共産党は、企業の敵」というような意識の強い日本の職場は、労働者党員が働く場所で「赤旗」を拡大することは一部の公務員職場を除いてはほとんど不可能で、いきおい拡大とその後の配達・集金の負担は居住地支部の党員たちや地方議員の肩にのしかかってくる。筆者は、経営支部(労働者党員が原則として職場ごとに所属する支部)と共に居住支部の指導を担当したこともあるが、ちょうど「機関紙革命」が叫ばれていた80年代半ばに於いても地域の「赤旗」を支える党員たちの平均年齢は50代後半以上で、支部長には80代の人すら居た。しかも、地区委員会全体での支部別の党員数の割合は、経営支部が8割程度であったのに対し、居住支部は2割未満で、地方議員と共に「赤旗」配達と集金の負担は明らかに過重そのものだった。その上、「赤旗」拡大の号令をかけても、乾いた雑巾を絞るようなものだった。
上級の委員会(地区の上に立つ都道府県委員会)は、そんなことお構いなしに「何としても拡大目標をやりきれ」と朝に夕に電話でまくしたてる。時には、支部のたまり場(地方議員の事務所か、支部長あたりの自宅がほとんど)に゛逃げ込んでいる″地区の党専従のところまで、直接電話をしてきたり、乗り込んできたりすることもある。更に、実際には地域とほとんど関わりがないため、全く役に立たない中央委員会勤務員が、゛指導実績″をあげるために「拡大オルグ」と称してやってきて、「拡大したいから、誰かと一緒に歩けるようセットしてくれ」と要求する…。
こうなると、支部の党員たちに負担をかける訳にもいかない。地方議員と相談して画策し、「短期読者」の名簿(「元読者名簿」として、地区委員会ごと、居住支部ごとに整備されている)とにらめっこして、購読停止してしばらくたった人のところに議員と共に(時には「拡大オルグ」をお供させて)回ることになる。またいつか、購読をやめるだけの人のところへ、「赤旗」を押し売りするのだ。
こうなると、以前に3カ月とってくれた人が2カ月、あるいは1カ月と購読期間も短くなる(実際、ほとんど読んでくれないのだ。読者の側も共産党支部の付き合いが広がらないこともあって高齢化が進み、視力が衰えて購読をやめるケースも多い。また、「不破時代」になって以降、最高指導者が物見遊山の海外旅行をした内容を「野党外交」などと称して大々的に゛自画自賛″報道するようになると、ますます「赤旗」の内容が陳腐化し、つまらないものになって読者が減ったように思う)。
こんなことをしてもジリ貧になるだけで、「前回(選挙)比130%」の目標に手が届くはずもない。そうなると、地区委員会の専従たちは頭を寄せ合い、やりたくないことを相談することになる。月末には、ほぼその月の減紙数が把握出来る。拡大数は、とてもそれを超えて目標に到達しそうもない…。
「頑張りましたが、できませんでした」という言葉は、日本共産党の地方機関には無い(中央委員会は、どんなに選挙で負けても「論戦は正しかったが…」という言い訳が通用する)。次の月に地区委員会がどれくらいの「赤旗」を扱うか、部数を申請する期日は月末を超えて翌月1日の正午である。それまで、地方議員や「力持ち党員」(労働組合役員や地域の世話役をして、比較的「赤旗」を周囲の人に勧めやすい党員を党機関ではこう呼ぶ)に早朝から電話をかけ、「あと一部でもいいから」と拡大するよう依頼しながら、「…仕方ないから、買い取りをしよう」との地区委員長の提案を検討することになる。
きれい事を言う訳ではないが、筆者は読者の裏付けのない「赤旗」の買い取りに、どうしても納得がいかなかった。こうして買い取られた゛カラ新聞″(少ない時で数十部、多い時では100部以上になった)についても、中央委員会は紙代を一切まけない。したがって、地区委員会の乏しい財政を圧迫し、その月の専従たちの活動費支給にも大きく影響してくる。のみならず、確実に次の月以降には、゛浮き部数″として拡大した部数から差し引いて減紙しなくてはならず(そうしないと、際限なく読者の無い「赤旗」が増えていき、地区委員会は破綻してしまう)、大きな足カセとなってますます拡大目標への到達をむずかしくしてしまう。正に最悪の゛イタチごっこ″だ。
しかし、先々、上級の都道府県委員会か、うまく行けば中央委員会あたりに召し上げてもらって、定年までを無事に過ごそうと考える地区委員長(実際、末端の党専従の中ではそうした可能性がもっとも高い位置にいる)は、上の顔色と比べてどんなに他の専従が反対しようと、「長として責任を持つ(実際は持てない)」と決断して、買い取りを実行してしまう。その後、たまった゛浮き部数″は、選挙が終わった際にいっぺんに吐き出して減らすなどして、元の木阿弥となる。
筆者は、「それは、党自身が自分をだますことで、社会的に何の影響も持てないし、意味がない」と批判したが、あまりにうるさいと思われたのか、「赤旗」部数確定のための党専従の打ち合わせに呼ばれなくなってしまった。しかし、当時、民主集中制の原則を信奉していた筆者は、たとえ反対意見を言っても実践面での責任を放棄する訳にはいかないと考え、党員が経営者をしている比較的に体力のある企業に「赤旗」数十部の買い取りを頼んだり、建築業の親方に依頼して出稼ぎで来ている職人さんたちに1カ月約束で「赤旗」をとってもらったり(実際の紙代は、親方が賃金からピンはねして渡してくれた)して、何とか急場をしのぐ手助けはやめなかった。やめれば、党専従としての立場を放棄するに等しいと考えたからだ。いま思えば、筆者の行為も道義的には全く間違っていたとしか、いいようがないものだが…。
他の地区委員会勤務経験者や、支部長などで頑張ってきた人々の話を聞くと、そんな甘いものではない現実もあったようだ。月末に「赤旗」集金で追われている中、地区委員会からガンガン電話が来て「拡大しろ」と言われ続け、ノイローゼになってしまった人もいた。また、地区委員会に対して、実際に増えていないのに「拡大した」と報告し、何十部も自分で抱え込んで困りはて、サラ金に手を出した支部長の話もあった(数人の地区委員会勤務経験者に聞くと、同様の例をどこでも2〜3件は処理したことがあるとのことだった)。
「赤旗」を抱え込んで、金銭的に困るのは地区委員会も個人の党員同様だ。結局、とどのつまりが家賃や電話料金の滞納、更には専従給与の遅配・欠配となる。こんな状態をいつまでも続ける訳にもいかないので、各種選挙の前や年末、夏季に於ける募金(専従にボーナスを出すという名目の「一時金募金」なんてものもあった)でカネ集めを図る他、裕福な党員から借金をすることになる。
借金も曲者で、だいたい半年から1年の返済約束で借りるが、前の借金の返済期限が近付くと、営利企業のように利益がある訳ではない共産党に潤沢なカネが回ってくるはずもなく、また別の借金をして一部を返済に充てるようになる。こうして、「赤旗」の゛浮き部数″の蓄積から始まって、借金の自転車操業に至り、それが雪だるま式に増えて給与も未払いのまま…というのが常態化しているのが、日本共産党の地区委員会で党専従が直面している日常だ。その借金の規模について、筆者は最近、関係者から聞いて驚いた。1つの地区委員会で1億円近いところもあるのだ。たかだか、数人の専従しかいないところだが、返すあてもなく、企業なら確実に破産である。
感覚が狂った党専従たちの逸脱
「赤旗」中心の党活動が、地方党機関の運営をいかに狂わせているかの実態をかいつまんで紹介した。こうした中で、精神を病む党専従も出てくるのは、致し方ないことだ。
筆者の同僚でも、枚挙にいとまが無い。いま、指折り数えてみると戦慄する。比較的多かったのが、自律神経失調症で、10名程度。失踪が3名(うち1名は、ホームレスになっているところを筆者に発見され、アルバイトを斡旋して生活立て直しを図ったが、その後にまた失踪)。自殺者が3名(投身自殺1名、焼身2名)…。その他、癌などの重病にかかる者も多い。これらは、あくまで筆者が直接知っている範囲に限ってのもので、もちろん実際はもっと凄まじい数字となるだろう。ちなみに、これらにあてはまらないが、主婦党員とあってはならぬ関係に陥り、゛愛の逃避行″をした妻子持ち党専従もいた。
どちらかと言うと、おとなしくてまじめな性格の専従は自らの心身を病むが、そうでない者でも、軽犯罪に走るケースがかなり見られる。党本部職員に痴漢が原因で退職する例の多いことを指摘したが、同様の性犯罪で地方党機関のメンバーが検挙されることも少なくない。筆者の知っているケースでは、地区委員会専従が幼児にわいせつ行為を働いて逮捕された例、更に県委員会所属の「赤旗」記者(「県記者」と党内で呼ばれ、専従としての身分は都道府県委員会に属する)が女性のスカートの中の盗撮を繰り返して検挙(なぜか、知っている記者が2人もつかまっている)、スナックの女性経営者に連日しつこく言いより贈り物攻勢をかけるストーカー行為を働いた地区副委員長(示談で解決)など、こうやって数え上げると驚くほどだ(最後のケースを除き、新聞沙汰になっている)。
他の専従経験者から聞いたものでは、万引、窃盗まであるという。今回記事の冒頭に記したように、千数百人足らずの人間集団に起きていることとしては、あまりに頻度が多く、内容も情けない。
一方、゛まともな″専従たちだって、苦しい現状をしのぐため、かなりえげつないことも行っている。組織ぐるみだったものを指摘するなら、共産党自らが「絶対にカネを受け取らない」と天下に宣言している団体・企業からの献金の受け取りだ。
筆者が直接知っているケースは、毎年、年初に行う共産党地区委員会のカネ集めパーティー「新春旗開き」で、20年くらい前までは在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の地元支部が゛お祝い金″を包んできていたことだ。その額は、だいたい数十万円。もともと朝鮮総連は、戦後、日本共産党員だった在日朝鮮人の人々が中心になって結成した団体だけに、80年代のテロ事件(ラングーン事件や大韓航空機爆破事件)が起きるまではかなり親しみをもって交流していたのだ。商業的に成功した人も多く、「祖国に連帯する同志たちの党」という意識で、苦しい地区委員会の実情も知ってか、「赤旗」をまとめて購読してくれたり、折々にカンパをしてくれたりすることがあったのだ。
しかし、朝鮮総連は自らが宣言しているように、「朝鮮民主主義人民共和国公民の在日組織」であり、そこからの献金は違法な外国からの政党に対する資金援助である。80年代半ばに、「まかりならぬ」というお達しが党本部から出て、以後は地区委員会が朝鮮総連から゛お祝い金″を受け取ることはなくなったが、数少ない゛大口カンパ″だっただけに、当時の地区専従者たちが残念がること、しきりだった。
そして、もう1つのケースは、筆者が最近、関係者から直接聞いたもので、唖然とさせられた内容だ。なんと、地区委員会が日本共産党のあれほど嫌う企業献金を集めていたというのだ。
ある地方で大規模な民医連所属の病院を建設することになり、地区委員会が実質上、入札を取り仕切った。そこで落札した企業とその下請けの会社(これらには、日本共産党がよく追及してきた大手や中堅のゼネコンもある)を回って、数十万円ずつを集金したのである。これは実際にカネを受け取って回った元専従から聞いた話である。
病院名、時期、献金を出した企業名もわかっている。現在はまだ公表出来ない。もちろん、これは日本共産党側が領収書を出せないものであるから、出した側の企業にとっても゛ヤミ献金″そのもので、違法行為である。しかし、給与もろくに出ず、背に腹は代えられない地区委員会の人々にとっては、そんなもの゛どこ吹く風″だったのであろう。
日本共産党ほど本音と建前が乖離した党は無い。そう、つくづく実感する。もはや゛裸の王様″と化した最高指導者をいただきながら、批判的な動きを抹殺しようとする党中央の動きに、様々な形で抵抗し頭を上げてたたかう人たちが増えているので、次回は日本共産党の人権侵害に対して、敢然とたたかい胸を張って生きている人々を紹介しようと思う。
元日本共産党職員●しわ・こうじ 志波耕治(筆名)
(略歴)
志波耕治氏
日本共産党元職員。仮名。
学生時代に入党し、代々木の内情に精通。
党幹部の官僚的な体質や特権をむさぼるインチキぶりに憤り、告発を決意した。
http://www.eis-world.com/template/eiscolum/seiron/080219.html
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