01. 中川隆 2013年5月11日 07:53:39
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原爆投下まで @第二次世界大戦は国際金融資本が金儲けのために仕組んだ。 原爆の開発目途はついていたので、それを使用することが目的のひとつであった。
Aその決定で、日英同盟が破棄され、アメリカでオレンジ計画がスタートする。 B日本の最高幹部と海軍は筋書きどうりに戦争を始めた。 陸軍はほとんど関知していない。昭和天皇は命令どおりに動かされただけだ。 C昭和天皇とジョセフ・グルーは、終戦時期について討議したが、原爆を二発落とすまで終戦はさせてもらえなかった。戦争が長引いたのは、原爆の開発が思った以上に遅れたからだ。 D広島は昭和天皇が決めた。だから、自分の嫌いな者達を広島に集合させ、見殺しにした。 E長崎はクリスチャンの教会が多いことで選ばれ、三菱のドックを目標とした。海軍は三菱にいたアメリカ人の捕虜を事前に救出していた。 F日本の情報機関は原爆の開発、投下時期、投下目標をすべて承知していた。もちろん昭和天皇も承知だ。 http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/02/post_b7ff.html ルーズベルトやトルーマンは単なる飾り物で、原爆を落とす命令はすべてスティムソンによってなされた。その情報は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。 http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」 太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。 元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。 また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/456.html 昭和天皇はルーズベルト、マッカーサーとグルだった 昭和天皇にはどうしてもアメリカに日本を占領して欲しい理由があったのですね。 そして東京裁判は戦犯を裁く為ではなく、昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍に肩代わりさせる為に行われたのです。 従って昭和天皇が直々に命令したとされる南京大虐殺、731部隊の人体実験、従軍慰安婦強制連行、食料と女性の現地調達、占領地の金品の組織的略奪等の戦争犯罪についてはアメリカによる徹底した隠蔽工作が行われ、それが現在の南京大虐殺否定説・従軍慰安婦強制連行否定説に繋がっているのですね。 従軍慰安婦強制連行の証拠は東京裁判で多数提出され、日本軍関係者も全員それを認めていた様なので、歴史学会で従軍慰安婦強制連行を疑っている研究者は一人も居ないんですけどね。 ドイツ人がナチスの戦争犯罪を裁いた様に、日本人も昭和天皇の戦争犯罪を裁いていれば、中国人や朝鮮人がここまで反日になる事もなかったのです。 日中戦争で昭和天皇の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,ゲリラには絶対に勝てないという事だったのです. 今のイラクやアフガニスタンと同じですね: そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう.
そして,昭和天皇が中国での大虐殺の黒幕だったことが明らかにされ,戦犯として死刑になり,その汚名は世界中で何千年も語り継がれる事になる. しかし,昭和天皇は凡人には想像を絶する程の賢かったんですね. 昭和天皇が考えた天才的アイデアとは: アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。
だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。 国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。
米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。 アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」
日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。 三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。 http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm 革命に恐れおののいていた天皇家の人々 梨本宮伊都子妃の日記
梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。 伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。
『昭和33年7月14日。 きみ、きっと、これが僕の運命だね。 明仁皇太子』 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』 (3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを
昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html
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