http://www.asyura2.com/13/senkyo147/msg/442.html
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■ [日本のアキレス腱] 日本会議&神政連の『伝統神道と本居宣長』曲解が安倍自民の主権制限「改憲」と戦前型「国民モルモット化」なる暴政の元凶(4/n)
<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130507
・・・なお、当記事のテーマと関連する内容として、下のブログ記事★の参照をお勧めしたい。つまり、政治がファシズム化のプロセスへ入った時の“歴史的通例”として観察されるのが、直球ストレートの言論批判は効果を失う状態(一種の“ウソ吐きクレタ人のパラドクス状態”)に嵌ることだ。その悪しきパラドクスから抜け出るためには、深層ないしは俯瞰というメタ次元からの腑分けが必要となる。
★「安倍晋三を批判する言論が絶え果てた」という言葉の意味(kojitakenの日記)、http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130508/1367940348
・・・
(2)にもかかわらず、本居宣長は日本文化と日本美学の核心たる“もののあはれ”を発掘した「世界に誇るべき日本学の大碩学」
他方、本居宣長は「我われ普通の日本人のごく平凡な顔の表情の奥深くに沈潜するもの、いわば日本の潜在的無意識の古層を、つまり神の治め給ふと想像される古(いにしえ)の国の“歴史”ならぬ、“もののあはれ”が日本文化と日本の伝統美学の核心から醸し出す魅惑的エスプリを荻生徂徠の方法論である古文辞学から多大な影響を受けつつ、殆ど超人的(まるで、それは人間コンピュータ!!)ともいえる驚異的執念と絶大なパワー(驚くべき記憶力と精力的情報処理能力)で、其の奥深くから香り豊かに美しく抉り出した」という視点からこそ、より高く大いに再評価されるべきなのだ。そして、これは日本会議や神道政治連盟国会議員懇談会(安倍晋三会長)らが強弁的に結びつける「天皇現人神論」とは全く異次元なことである。
(3)本居宣長が生きた時代の日本を巡る歴史環境の再認識こそが肝要
そもそも、本居宣長が生きた時代を世界史的に俯瞰すれば、それは大きな変革へ向かう激しい時代の波頭が、つまりキリスト教(ローマン・カトリック)という外圧が外国から大挙して押し寄せてきたころであり、このため愈々<本格的な開国へ向けての柔軟な準備>か<日本自身(アイデンティティ)の再確認による高度で強い自己主張>か、という二つの大きな思潮(イデオロギー)が国内に生まれた時代でもあったのだ。そして、前者の代表として取り上げるべき思潮が本居宣長とも交流があった上田秋成であり、後者の代表が本居宣長である。
(4)最上級の日本伝統文化のエスプリを表現した上田秋成による、本居宣長の日本型「華夷秩序」論(天皇『現人神』論)への厳しい批判
近世日本文学の代表作「雨月物語」で知られる上田秋成(1734 -1809)であるが、本居宣長と異なり、上田秋成は「絶えず一歩うしろへ引くだけの視線上の余裕があり、日本と日本民族の文化を広く客観的に、かつ冷静に見る目」を持っていた。そして、秋成は「世界地図の上で見ても、こんなにも小さな日本が記紀の『古伝説』だけで一方的に自らこそが万国の宗主だと日本型「華夷秩序」論を声高に主張しても無意味だし、そんなことは相手国に通じるはずがない」と宣長を厳しく批判している。
(5)本居宣長の日本型「華夷秩序」のルーツは、特異な思想家・山崎闇斎(天皇『現人神』論に傾斜する国学(日本学)伝統の創始者)の「垂下神道」
本居宣長以前における日本型「華夷秩序」論の祖は山崎闇斎(朱子学・神道学者/1619 - 1682)の「垂下神道」である。闇斎は、中江藤樹、熊沢蕃山ら多くの儒者が主張した<神儒合一論>による<中国も含めたユニバーサルな「神道」と明確に区別する日本固有の「神道」>を「現人神(あらひとがみ)」たる「天皇」への絶対的忠誠と、それに対する<死後の救済(この教説を信ずる者だけが国家祭神として“八百万の神々の下座に連なる神となり得るという、まことに独善的な神話論理(ミソロジー)>である「垂下神道」を唱えた。
因みに、この「垂下神道」の独善的な考え方こそが、<後になり靖国神社を支える特異な神話論理(ミソロジー)>のアーキタイプ(原型)である。又それは、幕末の戊辰戦争と会津戦争で血を流した会津藩士、及びその後の戦争における東北出身(今も、東北出身者は白河以北一山百文の偏見から隠然と日本国民一般から差別されており、原発がフクシマに異常集中立地した背景も此の辺りにある)の軍人らの殆どが靖国神社の英霊から排除されるという、いわゆる勝てば官軍たる『君側の奸』らの手前勝手なミソロジー(靖国神社型の御都合主義的な国策神話論理)を提供した。
その日本型「華夷秩序」の誕生の契機となったのは中国・清王朝の誕生ということである。つまり、1636年に満洲で建国された清王朝(満州族による征服王朝)が、それまでの「華夷秩序」という漢民族を尊敬する思想に対し転換を迫ることになったからだ。その後、荻生徂徠(1666 - 1728)が現れるが、徂徠は当初、明代の研究手法である中国儒学研究の古文字学を取り入れた。やがて、徂徠は日本古来の国学(日本学)の提唱へと転向し、その後の本居宣長、平田篤胤らの国学の祖となった。
<注記>(5)の前後の経緯についての詳細は、下記◆を参照乞う。
◆[日本のアキレス腱]アベノミクス&国策原発の玄宮で蜷局(とぐろ)を巻く「神道政治連盟」なる自民党御用達「極右ウロボロス神」の現象学的考察http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130117
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