10. 2013年5月08日 13:38:12
: kuChtqOF9k
はびこる排外主義とレイシズムに 日の丸が泣いている 12345 3月14日、僕は参議院会館の1階講堂にいた。民主党の有田芳生参院議員が呼びかけた「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」に参加するためだ。この日に配布されたチラシには、集会の趣旨が以下のように記述されている。「在特会」(在日特権を許さない市民の会)などによる異常デモが、東京・新大久保(2月9日)、大阪・鶴橋(2月24日)で行われました。そこでは「朝鮮人 首吊レ 毒飲メ 飛ビ降リロ」「よい韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「ハヤククビツレ チョウセンジン」(新大久保)「鶴橋大虐殺」(鶴橋)などが主張され、「殺せ 殺せ 朝鮮人」といったシュプレヒコールが繰り返されました。3月31日には「新大久保排害カーニバル」なるデモが再び行われる予定です。韓国や北朝鮮との間でいくら国際問題があろうとも、在日韓国・朝鮮人に対して殺人教唆する行為は、公共の平穏を乱し、人間の尊厳を傷つけるもので、決して許されるものではありません。ここに国会議員有志が抗議集会を行い、排外主義、レイシズム(人種差別)の広まりを押しとどめる意志を表明いたします。 在日外国人が日本で不当な特権を得ていると主張して、その撤廃を目標に掲げた在特会が発足したのは2007年。この5年間で急激に勢力を増大させ、日本各地で街宣・デモ・集会などを開催している。当初はネットの掲示板などを自分たちのフィールドにしていたので、ネトウヨ(ネット右翼)などと呼ばれていた。 この日の集会は有田の挨拶と宣言で始まり、次に20分ほどの映像が上映された。2009年に在特会が京都朝鮮第一初級学校の校門前で行ったデモンストレーションの映像だ。第一初級学校とは要するに小学校だ。幼稚園も併設されている。 その校門前に日の丸の旗などを掲げながら現れた在特会のメンバーは、「日本人を拉致した朝鮮総連傘下の朝鮮学校、こんなもんは学校でない」「スパイの子どもやないか」「北朝鮮のスパイ養成機関、朝鮮学校を日本から叩き出せ」「約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません」「なめとったらあかんぞ」などと拡声器を使って怒鳴り続けた。もちろん校舎の中には子どもたちがいる。じっと息を殺して聞いていたはずだ。 映像を見ながら久しぶりに胸が悪くなった 映像を見ながら久しぶりに胸が悪くなった。いやそんな言葉じゃ足りない。あまりにも醜悪すぎる。人はこれほどに悪意を剥きだしにできる存在なのか。子どもたちの心情を思う。とても怖い思いをしたはずだ。彼らに代わって謝りたくなる。世の中にはいろんな人がいるんだよと苦しい言い訳をしたくなる。映像の終盤では、たまりかねたように彼らを制止しようとした一人の男性が現れた。でもあっというまに数人のメンバーに取り囲まれて、フレームの外へと引きずり出されていった。よく見れば周囲には数人の警察官らしき人が立っている。でも基本的には見て見ないふりだ。 映像上映後、長く在特会を取材し続けてきた安田浩一が、「彼らには思想的立場はありません。彼らは右翼ではない。民族派でもない。保守でもない。そういう文脈が使われるべき立場ではありません。では何か。レイシストです。排外主義者です。抗弁できない出自を攻撃し、自分たちが如何に優位に立っているか、あるいは如何に立ちたいかだけを主張する排外主義者です」と発言し、彼らと裁判闘争を続ける上瀧浩子弁護士や金尚均龍谷大学教授などが経過と実情を訴え(個人攻撃ではないので、日本の法制度では彼らを摘発しづらいとのこと)、新右翼団体一水会の鈴木邦男最高顧問が「先ほどの映像を見て非常に悲しくなりました。日の丸の旗が可哀想だと思いました。日の丸はもともと日本の優しさ、寛容さ、大和の国を現す旗です。それが排外主義的なものに使われている。日の丸の旗が泣いていました」と言い、木村三浩一水会代表が「私は(彼らを)レイシストだとは思いません。レイシストはもうちょっと品格があって思想的であり、そして自分の思想においてもちゃんとしたレイシズムの考え方を体現している。彼らはレイシズム的ではあるけれども、いわば、自分が承認されたいために何か騒いで、そして脚光を浴びたい。そういう人たちじゃないかと感じます」と発言した。 最後にマイクを渡された僕もほぼ同意見だ。彼らは右翼ではない。保守でもない。もちろん民族派でもない。そんな思想や信条は欠片もない。 日本の右翼の源流、玄洋社はどんな理念を持っていたのか 1951年の春、ベトナムの王族で正当な王位継承でもあったクォン・デが、東京都内の病院で69年の生涯を終えた。住まいは杉並区荻窪の貸家の2階。王妃と2人の息子を故国に残して日本を訪ねてからは、一度も王宮に帰れないまま、およそ45年間の流離の生涯だった。 たまたま知り合ったベトナム人留学生からクォン・デの存在を教えられた僕は、当時の時代状況を調べる過程で、この悲劇の王子を日本で支え続けた一人が、玄洋社の総帥である頭山満であったことを知った。 日本の右翼の源流といわれる玄洋社は、五族共和や大東亜共栄圏思想を掲げながら、アジアの人々と連帯することを活動の理念とした。そもそもは自由民権運動が彼らの思想の原点だ。ただし大東亜共栄圏思想は、後に軍部に表層的に利用される。だからこそ頭山満は、クォン・デ以外にも、孫文やビハリ・ボース、金玉均やファン・ヴォイ・チョウなど、アジアからの亡命者や政治活動家たちを徹底して庇護しながら、彼らを弾圧する日本政府のやりかたに対しては異を唱え続け、たとえば満州国建国式典への招待には、頑として応じようとはしなかった。 その頭山の片腕として日韓併合の際に奔走した内田良平は、併合後に日本政府の狙いが植民地化であったことに気づき、「植民地支配の担当者は恥や人情、義理を知らない不逞無知の官僚人種である」と激しく日本政府を批判した。「朝鮮民族のためにいくら謝罪しても謝罪しきれない」とまで口にした内田は、朝鮮側で内田と連携しながら日韓併合を推進した李容九を併合後に訪ね、「我々は馬鹿でしたね」と手を握り合いながら涙を流したという逸話まである(玄洋社の下部組織として内田が創設した黒龍会は、戦後にGHQから最も危険な国粋主義団体として玄洋社とともに解散命令を受けたが、名前の由来は中国とロシアの国境を流れるアムール川(黒龍江)だ。今ならば売国的な名前として、ネットなどで大騒ぎになるかもしれない)。 それが日本の右翼の源流だ。本気で大東亜共栄圏を考えていた。虐げられている人や苦しんでいる人を救おうとした。そこには排外主義や優越思想など欠片もない。 在特会は弱者を見つけて攻撃するだけの集団だ 在特会は右翼ではない。弱者を見つけて攻撃して、鬱憤を晴らして溜飲を下げたいだけの集団だ。その意味では、駅や公園のトイレの壁に差別的落書きをする人たちと本質的には変わらない。書きながら醜悪な自分の顔を想像することができない人たちだ。 ただしこういう人たちは常にいる。ある意味で仕方がない。世の中にはいろんな人がいる。でも彼らは増殖している。数が増えただけではなく、暗がりからネットに、そしてネットから公共の場所へと、少しずつ居場所を移している。殺せとか毒を飲めなどと書いたプラカードを掲げながら往来を練り歩き、多くの人の目の前に自分たちを晒し始めている。 それが怖い。それが気持ち悪い。だから背景を考えたい。なぜ彼らは増殖し続けるのか。そして暗がりから日の当たる場所へと出てきたのか。 安田が『ネットと愛国』でも書いたように、おそらくメンバーの一人ひとりは、無邪気だったり内気だったり時には純朴だったりするはずだ。でも集団になったとき相が変わる。言動が変わり性格も変わる。 蝗害という言葉がある。飛蝗現象ともいう。トノサマバッタの一種であるサバクトビバッタなどが典型だが、彼らは時おり大発生する。そしてエリア内の個体数がある閾値を超えたとき、互いにフェロモンを出しながら集団化を加速させ、同時に個体が変化する。孤独相から移動(集団)相。具体的には色が黒くなって翅が長くなるなどの形状変異を起こし、食性は貪欲になって凶暴性を持つようになる。こうして群れは暴走を始める。田や畑を根こそぎ食い尽す。 問題は彼らを醸成する今のこの国の雰囲気だ この連載でも何度も書いているけれど、日本社会全体の集団化が進んでいる。集団は異物を排斥したくなる。敵を見つけたくなる。 つまり問題は在特会そのものだけではなく、彼らを醸成する今のこの国の雰囲気だ。会場には国会議員も多数来ていた。冒頭で引用したチラシには、呼びかけ議員の名前が記載されている。社民党が一人とみどりの風が一人。あとは有田も入れて9人の民主党議員。 つまり自民党議員は一人もいない。 生保バッシングのきっかけを作った片山さつき参院議員は、かつて彼らのデモに参加したことがある。昨年の衆院選のときは、安倍晋三自民党総裁を応援する日の丸の小旗が街宣車の周囲で乱舞した。この2月に政府は高校無償化から朝鮮学校を除外することを決定し、大阪や神奈川など7都府県は朝鮮学校への補助金支給までも見送った。川崎市は浮いた補助金で拉致問題関連の著作や資料を購入するという。阿部孝夫川崎市長は会見で「抗議の意志を込め、(朝鮮高校の)生徒の各家庭に現物を配分する」と言い切った。 こうした発言や政策が支持される。支持されるから迎合する。そのうちに自分たちこそが正義を体現しているのだと思い込む。 そもそも在特会が発足した2007年は、安倍第一次内閣の時期だった。だから考えてほしい。推察してほしい。彼らは社会と共振している。呼応している。つまり(実際の数量的にはともかく)気分的には多数派なのだ。だから後ろめたさが消える。薄暗い個室から往来に出て、多くの人にアピールしたくなる。仲間たちと集いたくなる。自分たちの正義を訴えたくなる。こうして相が少しずつ変異する。 ナチス時代のドイツでルター派の牧師だったマルティン・ニーメラーは、ヒトラー登場時にはほとんどのドイツ国民と同様に、ナチスを強く支持していた。しかしナチスによる迫害が教会に及ぶに至り、これに強く抗議して最終的にはザクセンハウゼンのホロコースト強制収容所に送られている。 そのニーメラーが戦後に書いた詩を最後に引用する。読むたびにいろいろ思う。いろいろ考える。僕が書けることはここまで。あとはあなたが考えてほしい。 最初に彼らが共産主義者を弾圧したとき、私は抗議の声をあげなかった。 なぜなら私は、共産主義者ではなかったから。 次に彼らによって社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、 私は抗議の声をあげなかった、 なぜなら私は、社会民主主義者ではなかったから。 彼らが労働組合員たちを攻撃したときも、 私は抗議の声をあげなかった、 なぜなら私は労働組合員ではなかったから。 やがて彼らが、ユダヤ人たちをどこかへ連れて行ったとき、 やはり私は抗議の声をあげなかった、 なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。 そして、彼らが私の目の前に来たとき、 私のために抗議の声をあげる者は、誰一人として残っていなかった。 (意訳 森達也) http://diamond.jp/articles/-/34875 http://diamond.jp/articles/-/34875?page=2 http://diamond.jp/articles/-/34875?page=3 http://diamond.jp/articles/-/34875?page=4 http://diamond.jp/articles/-/34875?page=5
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