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人生には 働きたくても働けない ひとがある 必ず
病気の時もそうだ
子どもも病気に
金のせいか核のせいか何のせいか
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親心が開けた進学の扉
憲法と、2 第2部 救われた人生
東京新聞 2013年(平成25年)5月4日(土曜日)一面
東京新聞生活保護 取り戻した学資保険
(写真)希美ちゃんを抱いて散歩する入口明子さん=福岡市西区で(伊藤遼撮影)
【25条】 生存権
1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
十三年にわたる裁判は、親が子どものために蓄えた四十五万円を取り戻す闘いだった。病弱で生活保護を受けていた中嶋豊治さんと紀子さん夫婦(ともに故人)が、長女の入口明子さん(四〇=福岡市=たちのために、月三千円の掛け金を十四年間払い続けた学資保険の満期払戻金。これが「収入」と認定されたため、ぎりぎりの暮らしを支えていた保護費が減らされ、その親心は生かされなかった。
豊治さんは建築現場で日雇い職人として働いていたが糖尿病や肝臓病で入退院を繰り返していた。紀子さんも慢性気管支炎などの持病があり、安定した職は得られなかった。
紀子さんは貧しい家庭で育ち、中学の修学旅行を断念した。「自分の子には不自由をさせたくない」。明子さんが三歳の時に掛け金の最も安い学資保険に加入した。
明子さんは一九八八年に私立高校に進学。入学時に払った二十五万円のほか、授業料などで年四十二万円かかった。当時、高校で学ぶ費用は生活保護の対象外。保険の満期前で、それを担保に借金をして賄った。明子さんは「母は知人と安い食品を共同購入するなどしてやりくりしていた。おかずがもやししかないこともあった」。
九〇年に満期保険金四十五万円が払い戻された。福岡市の福祉事務所はそれを「収入」と認定。「それから半年間、生活保護費の支給額は半分になった。翌年に病死した母は悔しかったと思う」。明子さんと妹(三六)、豊治さんの三人は九一年十二月、収入認定した処分の取り消しを求めて福岡地裁に提訴した。
明子さんらの代理人だった平田広志弁護士は「福祉事務所の処分が生活保護法違反かどうかを争ったが、、本質的には憲法二五条の生存権が侵害されたかを問う裁判だった」。
妹も九二年に私立高に進学したが、翌年に豊治さんが病死し、学費が払えなくなり中退した。裁判は最高裁まで争われ、二〇〇四年三月、学資保険をかけていたことは、「最低限の生活を維持し、高校修学費を蓄える努力」だったと認定し、自立を促す生活保護法の趣旨にかなっていると判断。収入認定を取り消す判決が確定した。このケースでは、二五条を前提に、生活保護費をどう使うかについての自由を原則的に認めた判決だった。
「同じように困っている人が、わたしたちのように苦しんでほしくなかった」と長い裁判を振り返る明子さん。その思いは実る。判決後、学資保険の払戻金は収入認定されなくなった。
さらに生満保護費の項目に高等学校等就学費が加わり、入学金や授業料などの一部が支給対象に。
明子さんは今、タクシー運転手の夫(四八)と三人の子を育てている。末っ子でダウン症の希美ちゃんl(二つ)を世話するため、働きに出られない。自らも糖尿病を抱え、治療費は月一五千円。
夫の収入だけで生活できず、生活保護を受けている。母と同じ立場になって三千円を払い続けたことの重みを実感する。
「母はすごい。感謝のひと言しかない」
生活保護と生存権
生活保護は憲法25条のいう「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する制度。生活保護を受けると、日常生活に必要な生活扶助や教育扶助、医療扶助などが支給される。一方で自動車を原則保有できなかったり、預貯金できる額が制限されたりする。「最低限度の生活」に明確な規定はなく、生活保護の基準は社会状況に合わせて改定される。基準が「最低限度」を満たしているかどうかか、たびたび裁判で争われている。
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東京新聞社会部憲法取材班
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