13. taked4700 2013年5月09日 20:59:10
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ゴルバチョフ氏のソ連共産党書記長の就任期間は1985年3月11日 – 1991年8月24日ですから、政権末期のことだったんですね。多分、ゴルバチョフ氏はチェルノブイリ事故の賠償資金が欲しかったのでしょう。なんとか資金を手当てして周辺共和国、つまり、ウクライナなどへの賠償金をかなりの額支払ってソ連邦崩壊を食い止めたかったのでしょうね。 そして、1991年と言えば、鈴木宗男氏の事件が思い出されます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%AE%97%E7%94%B7 より部分引用: >1997年9月に北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官として初入閣。1998年6月には現職閣僚として初めて国後、択捉両島を訪問した。
ということで、その後、 >2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中真紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。9日後の2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として数々の疑惑が浮上。2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。 となり、 >3月15日、自民党を離党。さらに3か月後の6月19日、やまりん事件のあっせん収賄容疑を理由として衆議院本会議にて逮捕許諾決議が可決され逮捕された。21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決されたが議員辞職はしなかった。7月20日、あっせん収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で、また、政治資金規正法違反の罪でも併せて起訴された。 次には有罪判決で収監されてしまう。 多分、この鈴木宗男議員の事件時代もロシアから売却話があったのではないだろうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3 より一部引用: >市場経済化への一環として行われた価格自由化は1992年に前年比2510%ものハイパーインフレを引き起こし、民衆の貯蓄・資産に打撃を与えて多くの民衆を貧困に追いやった。 >1994年にデノミを行うなど経済の混乱が続き、またチェチェン侵攻が失敗した結果、エリツィンの支持率は低下した。さらにエリツィン自身、持病の心臓病の手術による過労がたたり、政権に不安定さが目立つようになる。 1995年の下院選挙ではロシア連邦共産党(ソ連崩壊後に再建)が第一党となるなど、エリツィン反対派が議会の多数を占めた。続く1996年の大統領選挙ではそのロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ議長に肉薄され、大苦戦。劣勢を逆転させたい一念でアメリカから選挙キャンペーンのプロを呼び、また、テレビカメラの前で若者に混じりダンスを披露した[2]。そしてジュガーノフ当選による共産主義の復活を恐れたボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキーなど新興財閥から巨額の選挙資金を捻出させ、新興財閥支配下のメディアにエリツィン支持のキャンペーンを張らせるなどしてなり振りかまわぬ選挙戦を展開した。その甲斐あってか第1回投票で得票率35.3%の1位につけ、ジュガーノフとの決選投票に持ち込んだ。決選投票の前には、第1回投票で3位につけたアレクサンドル・レベジ退役大将を安全保障会議書記に任命して取り込み、決選投票でエリツィンは53.8%を獲得し結果的に再選を果たした。 しかし大統領選において新興財閥の力に大きく頼ったために第二次エリツィン政権では新興財閥の影響力が増した。また、大統領選前の1995年に株式担保型民営化[3]が行われていたことで、新興財閥は結果として石油産業ほか多くの国営企業を手に入れ、国有資産を私物化するようになっていた。彼ら新興財閥は「オリガルヒ」と呼ばれ、エリツィンの親族とともに「セミヤー」と呼ばれる側近集団を形成するようになる。このような「セミヤー」との癒着によりエリツィン政権は政治腐敗が蔓延していった。 そして、エリツィンのあとを継いだプーチンは次のような状態でした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3 >1998年のロシア金融危機で打撃を受けた経済が回復し成長を続けたことも、多くのロシア国民がプーチンを支持する一因となった。経済成長は原油価格の上昇によるところが大きいが、プーチン政権下でさまざまな経済改革が行われたことも理由として挙げられる。所得税率を3段階による課税から一律13%のフラット・タックス制に改革したり、法人税や付加価値税(消費税)を引き下げたりするなどの税制改革は、税負担の軽減により、横行していた脱税を減少させ、国家財政再建に寄与した。 ********** つまり、この時期、1995年ごろから2002年頃まではロシアは経済的にまだまだ弱く、北方領土を売って資金を得たかったはずなのです。秘密らに北海道選出の国会議員に何らかの接触があった可能性は強いと思います。鈴木宗男氏はそういったことが背景にあって刑事事件化したのだと考えています。 なお、ゴルバチョフが売却を持ちかけた期間は多分チェルノブイリ事故が起こった1986年の数年後である1988年ごろからソ連崩壊の1991年まででしょう。 この時期、日本ではリクルート事件が吹き荒れ、自民党は上や下への大騒ぎ、外交交渉をするどころの話ではなかったのです。また、宇野宗佑首相が就任一か月で女性スキャンダル噴出で辞任する事件も起こっています。 プーチンが首相就任した後の1992年には佐川急便事件が起こっています。 北方領土が日本へ返還されていたら、多分あそこへ原発の核廃棄物処分場を造ることで日本中の合意が取れた可能性があり、その意味でも北方領土返還は阻止されなければいけなかったのだと思います。 |