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2013年05月04日 世相を斬る あいば達也
自民党は安倍総裁のイデオロギー、こう呼ぶほど確固たる信念かどうか疑問だが、憲法改正のハードルを兎に角下げることに必死である。そもそも、自民党は党是として憲法改正を標榜していたのだから、衆議院で2/3の議席数を得た事を考えれば、「日本国憲法改正草案」の実現を目指すのは当然で、特に咎めだてすることではない。ただ、昨日のコラムでも語ったように、先ずは改正の為の敷居を下げようと云う姑息な手段は、まさにポン引きやキャッチセールスの手口に類似している。御厨貴によると、改憲の目的は異なっても、維新やみんなを引き込むことで、道州制、首相公選制などの改憲も楽になるよと誘い込み、極めて戦略的なのだそうだが(笑)、筆者からは、安手のポン引きにしか見えない。
船に乗る場合、線路や道路があるわけではないのだから、その船の行く先を確かめもせずに乗船したら、船長が悪いと云うより、乗った人間が馬鹿者であった、と云うだけの話である。船の行き先は無限であり、乗ったら最後、滅多な事では下船も儘ならない。道路であれ、線路であれ、そこには目的地が記されているので、間違って乗っても、次のバスストップか駅で降りることが可能だ。しかし、船に乗ってしまえば、好むと好まざるに関わらず、運命共同体に引き摺り込まれるのである。絶対に、憲法改正においては、どのような航路で運航する船なのか、国民には知る権利がある。波止場への入場料を半額にするような話は、戦略でもなんでもない。ただの詐術に過ぎない。
それでは自民党の「日本国憲法改正草案」とは如何なるものか、その点を簡単に吟味してみよう。ひと言で言うと、「主権は国民ではなく国家だ」と云う精神に貫かれている(勿論、詐術を使って)。現憲法の精神は、強力な物理的権力行使のツール(暴力装置)を持つ国家が、主権者である国民に対して、国家の都合で縛りをかける行為を禁じる法律と考えても良い。つまり、国家権力の限界を示している法律であり、権力を限定化するものである。にも拘らず、自民党の「日本国憲法改正草案」は、現憲法とは相いれない国民を縛る趣旨が随所に埋め込まれ、広野に埋め込まれた時限爆弾が、何時なんどき国民に襲いかかるか判らず、運用次第でファシズム国家にもなり得る精神が見え隠れしている。
波止場に停泊中の船の行き先をたしかめよう。波止場への入場料を半額にするような議論ではなく、行き先が何処なのかを議論しようではないか。勿論、現憲法成立の経緯には、釈然としない部分も存在するが、現憲法がなぜ、大日本帝国憲法を改正するかたちで、戦後作られたのか、その改正せざるを得なかった状況時の精神に立ちもどるのが、憲法を考え直す上で、一番重要だろう。安倍晋三は、日本の憲法改正に中国や韓国は関係ないと断言していたが、まったくの誤りである。
歴史と云うものは、残念ながら、それが過去のものであって、現在生きている日本人が直接関わったものでなくとも、その歴史の責任を負うのが、それこそが歴史なのである。日本人と云う民族は、なぜか歴史を学ぶ風土が希薄である。おそらく、国家の歴史を作る作業に、国民全体は殆ど関係していなかった事情によるのだろう。国家の成り立ちが、極めて自然発生的なため、そして国家としての歴史が長いことが、自分達の歴史に責任が持てない風土を作り上げている。しかし、その歴史への責任は、否応なしに我々日本人に問われるのである。敗戦によっても、立憲君主を残した意味を世界に説明する意味合いもあり、憲法9条は作られた歴史的事実を確認しておこう。
グローバルな世界観で生きることになっている以上、近隣諸国やアジアの人々、そして世界の多くの人々からの批判の目にも晒されるのが、その国家の歴史であり、その国家の憲法である。その意味で、現憲法の基本的人権の尊重、国民主権、恒久平和と云う3原則は、日本国民のみならず、世界に向けて、日本の立ち位置を宣言したのである。そう云う意味で、現憲法は、日本国民に向けた約束であると同時に、世界の人々にも向けられた、日本のこれからの生き方についての、宣言でもある。日本人は歴史を忘れる天才だが、世界の多くの国々の人々は、歴史を忘れない人々が多い事を肝に銘じておくべきだ。
自民党の「日本国憲法改正草案」を読んでみると、単に実質的軍隊である自衛隊を、「国防軍」にする程度の話が独り歩きしているが、そんな生易しいものではない。特に、「基本的人権の尊重」つまり、個人の尊重における改竄である。「公共の福祉」と云う概念が、個人の権利を強く制限する方向に変更される。公共の福祉と云う概念は、解釈が極めて曖昧なのもだが、悪く言えば「国家の都合」と言い換えても良いだろう。挙句の果ての、自民党案では「公益」の文言までが含まれている。つまり、公益とは国家の利益と言っても過言ではない。つまり、現憲法が国家を縛る法律であるのに、自民党案では「国家が国民を縛る」法律に変えられる。
自民党のいう「国防軍」は専守防衛に徹することから脱皮し、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」、巷では、国連軍として国際貢献するのは良いだろうくらいに認識だが、国連が認めない国際平和の為に相違ないと判断出来る場合は、多国籍軍レベルでも、参戦可能としている。つまり、米軍の補完軍隊として動きますと云う、主権を回復した国とは思えない、偏向的憲法精神が埋め込まれている。
運用次第で、猛烈に危険なのが、内閣総理大臣に与えられた「緊急事態宣言条項」だ。現状の国民が目にしている、自然災害や原発事故を想定すれば、ついつい納得してしまいかねない部分だが、「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律に定める緊急事態」と云う文章は、内閣総理大臣が緊急だと思えば、何でもかんでも緊急になり得る包括的な言い回しになっている。戦争も含まれるし、私有財産の強制収用もヘイッチャラになる。どう考えても、戦争を想定した条文の追加である。
なんとこの条文によると、自民党案でも残した9条の精神を反故にする、地雷を仕掛けたと言っていいだろう。戦争が出来る国を目指しているのは明らか。 この緊急事態が内閣により宣言されたら、もう基本的人権も、国民主権も、恒久平和の憲法3原則も、跡形もなく木っ端微塵になる条項を加筆しようとしている。殆ど、悪魔です。この条項が宣言された瞬間に、国民はすべての権利を喪失し、公の機関の如何なる命令にも従え、と言っている。戦時中の国家総動員体制が、内閣の一言で可能になるよ、と言っている。
政治とは、生き物であり、常に時代に揉みくちゃにされる運命にある。つまり、世界情勢や、時・ところ・人によって、常に流動的なものだ。つまりポピュリズムに陥り易い性質を持っている。この、時代の即応する範囲で、一般の法律は作られ、廃止される。しかし、憲法とは「法の中の法」であり、いちいち時代の流れに合わせて変貌して良いものではない。少々頑固一徹が望まれる性格が期待されている。このようなテクニカルを弄して、国民に詐欺的同意を求めるような改憲論を、識者は、極めて戦略的だなどと評するが、トンデモナイ!単なる詐欺師のペテンだ。安倍晋三も右翼と自称するなら、堂々真正面から、日本の防衛はどうするべきが、得々と国民に問いかけなければならない。
どれほど政治家が立派であろうと、政治はポピュリズムに陥るものであり、それで良いのだ。しかし、国会の勢力図が流動的で、自民党の政権が安定的になったと言える段階ではまったくない。おそらく、数年のうちに、経済政策が破綻し、政権の座を追われるかもしれないと云うのに、現在の支持率が7割を超えているから、良いだろうと云う思考経路は、余りにも馬鹿すぎる。政治家に、それ程の信託を国民が与えていると思っているのなら、驚くべき思い上がりである。筆者自身、多少は憲法を改正しても良いと思うが、その議論は、あくまで2/3の縛りの中で決する問題と心得ている。
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