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2013年4月28日 東京新聞「こちら特報部」 :「日々担々」資料ブログ
埼玉県狭山市で女子高校生が殺害された狭山事件の発生から、五月一日で五十年。無期懲役の判決を受けて三十一年余り服役した石川一雄さん(74)は「被差別部落に対する差別による冤罪(えんざい)」を訴え、今も三回目の再審請求が続いている。半世紀を経た現場を訪ね、石川さんに思いを聞いた。(出田阿生、さいたま支局・岡本太)
「女の子の悲鳴なんて聞かなかったし、それらしき人影も見なかった。刑事さんにも言い続けたし、今でも同じことしか言えない」。事件当時を振り返ってこう話すのは、埼玉県川越市の農業を営む男性(84)だ。
この男性は事件当日、「殺害現場」とされた雑木林のすぐわきにある畑で農作業をしていた。確定判決によると、石川さんは近くの十字路で女子高校生と偶然出会い、突如誘拐を思い立って声をかけ、七百メートル離れた雑木林に一緒に行ったとされる。殺害時刻とされたのは、午後四時二十分ごろ。石川さんが被害者を強姦(ごうかん)しようとして押し倒したところ、「キャー」「助けて!」と大声で悲鳴を上げたため、右手を広げて首の上から押さえつけて殺害した、とされている。 男性はその日の午後、妻の実家が所有する桑畑に除草剤をまいていた。「一反(約千平方メートル)弱の畑で、養蚕用の桑を作っていた。雨がぱらついていて、薬(除草剤)の効果が出るかなあなんて思いながら、ポンプを押していた」
除草剤がなくなり、雨が本降りになったので帰途に就いた。近くの航空自衛隊入間基地の記録によれば、雨量が急激に増えたのは午後四時半ごろ。つまり、男性は犯行時間帯に、すぐ近くにいたことになる。
一番近づいたときには、約二十メートルしかない距離だ。叫び声がすれば、聞こえないはずがない。男性は「今はすっかり耳が遠くなっちゃったけどね。当時は三十代だからね」と話す。当日は「荒神さま」と呼ばれる地元の祭りが開かれていて、約五百メートル離れた祭り会場で流していたレコードの音楽が聞こえていたのを覚えているという。
男性宅に、埼玉県警の刑事が来たのは、事件から一カ月がたったころだった。「毎日違う刑事さんが二人一組で来て、『何か見たり聞いたりしなかったか』と聞く。一週間は来たかな。そのたびに『何も見なかったし、聞かなかった』と答えた」
石川さんの再審請求をしている弁護団は、裁判所に男性の証人尋問を求めているが、いまだに実現していない。中山武敏弁護士は「石川さんの冤罪は、すべて被差別部落への差別からきている。今もなくならない差別を根絶するためにも再審を開始しなければならない」と指摘する。
自白偏重の刑事司法は今も続く。そして、足利事件や布川事件なども次々と再審無罪となっている。取り調べの全面可視化(録音・録画)は、進んでいない。
半世紀がたった「事件現場」に行ってみた。当時は見渡す限りの畑の中を通っていた農道の十字路は、住宅地に続く舗装道路となり、車がひっきりなしに行き交っていた。
殺害現場とされた雑木林は影も形もなく、住宅密集地となっている。被害者が押し倒されたとされる杉の木があった辺りは、駐車場になっていた。男性が作業していた桑畑のあった場所は一戸建て住宅が並んでいた。当時の農道の名残を唯一とどめる細い道路で、小学生たちが遊んでいた。
<デスクメモ> 狭山事件について、地元で口を開くのは今でもタブーになっている面もあると聞く。石川さんを擁護しただけで、匿名の嫌がらせなどを受けかねないからだ。この国の差別の構造は、表面では分からない根深い所で残っている。亡くなった三国連太郎さんは、それと闘い続けた。差別の奥にあるものとも。(国)
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