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4月26日 東京新聞「こちら特報部」 :「日々担々」資料ブログ
政府が二十八日に初めて開催する「主権回復の日」の式典が迫る。六十一年前、サンフランシスコ講和条約発効の三日後に起こったのが、警察とデモ隊が衝突した「血のメーデー」事件だった。「独立」して初の労働者の祭典では、憲法の表現の自由(二一条)が試された。改憲論議が高まる今、再び「骨抜き」の危うさも透けて見える。 (中山洋子、荒井六貴)
「ばかばかしくって話にならない」。安倍政権の言う「主権回復」に首をかしげるのは、中小企業家同友会全国協議会顧問の田山謙堂さん(82)だ。
大企業優先の政策に異を唱え、苦境に立つ下請け企業の思いを代弁してきた。その原点にあるのは、慶応大生の時に参加した血のメーデーだ。「自由にモノが言えない国にしてなるものかと焦燥感にかられ、とても祝う気分じゃなかった」
一九五二年五月一日。「独立」後、初のメーデーは神宮外苑を中央会場に開かれた。それまで何回か会場になった皇居前広場の使用が認められなかったためだ。
当時、日本の独立に向けた講和条約をめぐって、国論は二分したが、吉田内閣は五一年九月、米国主導の講和条約を締結した。これに対し、ソ連や中国なども加えた「全面講和」を求めていた革新勢力は、「国恥(こくち)講和」と反発した。
沖縄や奄美群島などを切り離したばかりか、講和とセットで米軍基地を強化する日米安保条約が調印されたからだ。当初は米軍が内乱への介入を認める条項さえあった。
主催者発表で四十万人が集まった神宮外苑には「再軍備反対」や「破防法粉砕」のプラカードも並んだ。米ソの冷戦下、五〇年の朝鮮戦争を機に警察予備隊が創設。破壊活動防止法案も国会に提出されていた。
正午すぎ、参加者らは五コースに分かれてデモ行進。このうち日比谷公園で解散する予定のデモ隊などが、コースにない皇居前広場に向かった。
田山さんは「中学時代の同級生を見つけたりなんかして、おまえも来たかと、のん気に行進していた」と振り返る。途中、デモ隊の中から「人民広場へ行こう」という掛け声が上がった。皇居前広場のことだ。当時の共産党が武力闘争路線を取っていた影響で、一部の参加者が広場にデモ隊を誘導したとされる。
「広場に行くと、警官が盾を構えていた。少し離れたところからパンパンという銃の音がした」
警官隊と乱闘し、催涙弾が投入され、水平射撃も行われた。驚いた田山さんは急いで逃げたが、捕まった友人もいた。
この日の騒乱で二人が死亡し、警察官も含めて二千人以上が重軽傷を負った。千二百人以上が摘発され、二百六十一人が騒擾(そうじょう)罪で起訴された。裁判は二十年に及び、同罪では全員の無罪が確定した。だが、メーデーの騒乱は、戦後の労働運動にも大きな禍根を残す。
田山さんは言う。「経済発展には米国と組むのはベターだったと今は思う。でも、ますますモノが言えなくなっている。何が主権回復だ」
同じ日、皇居前広場にいた東大生の一人に、憲法学者の奥平康弘さん(83)もいた。警察官にけっ飛ばされ、警棒で殴られた。「労働者らが警官を堀に投げ込み、自動車をひっくり返してガソリンを抜いていた。革命家にはなれないと思った。でも、広場へ行くのは、正当な権利だと感じていた」。講和条約が発効したその日、画期的な判決が出ていたからだ。
戦後、平和集会などが開催されたが、五一年のメーデーでGHQが使用を禁止。翌五二年、主催者側は使用を申請したが許可されず、処分の取り消しを求めて提訴。東京地裁は四月二十八日、「集会の自由を保障した憲法二一条の規定に違反する」と処分取り消しの判決を言い渡していた。
だが会場使用には間に合わず、政府も控訴。最高裁判決は、政府の対応は違憲ではないとした。大勢が集まり、広場が壊れることなどを予想した管理権の適正な運用で「表現の自由の制限には当たらない」と判断した。騒乱の二カ月後、内乱防止などを理由に破防法と公安調査庁もできた。
だが奥平さんは「地裁判決で裁判所の中にも、憲法に誠実に向き合う人々がいると知った」と当時の高揚感を思い出す。「そんな人々によって憲法は一歩一歩、地に足をつけてきた。敗戦に学ぼうとした歩みをひっくり返して、どんな日本を取り戻そうとするのか」
表現の自由は、戦後民主主義の砦(とりで)だ。ところが、自民党の憲法改正草案では、同条二項に「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動や結社は認められない」という条文を加えた。新たな制約は、人々が自由に主義主張を訴えるハードルとならないか。
「政府にとって都合が悪かったり、政権の痛いところを突く集会が憲法の名の下、弾圧されることになる」と危機感を募らすのは、デモに詳しい高千穂大の五野井郁夫准教授(政治学)だ。
「警察に弾圧の根拠を与えてしまう。戦前のような状況になる。国が原発を推進するという公の秩序があったとすれば、反対する声が上げられなくなる可能性もある」
さらに「憲法は政府の横暴を縛るものなのに、より野放図になる。民主主義の危機だ。血のメーデー事件では、東京地裁が集会の自由を認めたりしたが、もはや憲法では争えなくなる。現憲法下でも、デモが不当に弾圧された歴史を忘れるべきではない」と訴える。
一橋大大学院の阪口正二郎教授(憲法学)は「今の憲法でも、他者の権利にぶつかったり、公共の福祉に反しない限りという制約がある。しかし、それ以上、制約をかけないというのが重要なのに、改正草案には『他の権利よりも、特別に制約するぞ』という意図が見える」と解説する。
血のメーデー事件で無罪になったケースでも、有罪になる恐れがあるという。「憲法の表現の自由を持ち出しにくくなる。裁判所も、権利を制約する文言を無視できなくなり、制約の意味を持たせる解釈をしようとするから、政府の主張に逆らえなくなってしまう」
評論家の武藤一羊(いちよう)さん(81)は講和条約発効の日、東大の反対集会で議長役を務め、退学処分を受けた。「政府が祝いたいのは、何からの主権回復なのか。沖縄などに多くの米軍基地が存在したままだ」と指摘し、改憲の動きも批判する。「さまざまな権利は国家が与える恩恵であるかのように書き換え、国民の側を制限しかねない。『主権回復』とは、現行憲法の『主権在民』を、国民から取り戻すことを意味するのではないか」
<デスクメモ> 「朝風にはためく日章旗−占領の夜明け」「肩身も急に広く」。講和条約の発効を祝う高揚感が当時の東京新聞にあふれる。沖縄の文字は? 探したが見つからない。が、五月二日の全国戦没者追悼式の記事にあった。一文が胸に迫る。「遺族代表、特に米軍のあつせんで参集した琉球代表たちが入苑」 (呂)
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