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2013年04月24日 永田町異聞
2012年の総選挙を「無効」と断罪した歴史的な高裁判決は、どの地域に住んでいようと投票の価値は同じでなければならないという「平等」原則のもとに、選挙区割りの抜本的な是正を求めたものだろう。
田舎の人は重い1票、都会の人は軽い1票というのでは「すべて国民は、法の下に平等」という憲法の定めに違背している。
その不平等を是正するには程遠い「0増5減」の公職選挙法改正案が衆院を通過した。
この法案は、山梨、福井、徳島、高知、佐賀の各県の定数を3から2に減らし、小選挙区の定数を295にするほか、最少選挙区・鳥取2区の人口29万1103人より最大でも2倍未満の格差におさまるるよう東京、千葉、神奈川、兵庫などの線引きを調整したものだ。
自民党は、衆議院議員の定数をまず都道府県に1人ずつ割り振り、残りの定数は人口比例によって配分するという「1人別枠方式」を温存したまま、格差2倍未満におさめるための「0増5減」でお茶を濁そうとしている。
まさしくこれは弥縫策であって、2倍未満なら良いという言い分には何ら根拠がない。法と平等に対するこの曖昧でいい加減な姿勢が、日本を民主主義の二流国たらしめているのだ。
議員定数訴訟の弁護士グループがしばしば例に挙げる米ペンシルベニア州では、最大人口の選挙区と最小人口の選挙区の差はわずか9人だったにもかかわらず、2002年、不平等だとして連邦地裁に提訴された。
裁判所は三週間以内に新たな区割り法を制定するよう州議会に命じた。州議会がつくった新たな区割り法により最大人口の選挙区と最小人口の選挙区の差は、たった一人になった。
同じ民主主義国家でありながら、「一票」の価値に対する意識がまるで違う。独立戦争などを通じて市民が権利を勝ち取ってきた国家と、民主主義を輸入した国の違いと言えばそれまでだが、丸山真男が名著「日本の思想」で指摘したように、日本人には「である」論理がいつまでもしみついていて、「する」論理がなかなか育たないということも、いまだ課題として存在するのではないだろうか。
「である」論理は、いわば封建時代のように身分や地位など、ある「持続的な状態」を重視するものといえる。大会社の社長「である」とか、高級官僚「である」とか、代々の政治家の家系「である」とか、状態や属性が価値を持つ。
それに対し「する」論理は、努力に光をあてるものである。自由と民主主義を自明のものとして権利の上にあぐらをかき、権利獲得の努力を怠っていれば、いつの間にか与えられていたはずの権利まで奪われかねないという警告を含んでいる。
そうしてみると、元最高裁判事、福田博が、著書「世襲政治家がなぜ生まれるのか?」というタイトルで、一票の格差問題を本にしたのもうなずける。
福田は、二世、三世議員が急激に増加する原因は、今の選挙制度にあると指摘する。選挙区割りがめったに変わらないから、親の後援会組織、すなわち地盤を引き継ぎやすい。まさに「である」組織を未来永劫続けさせようとするかのような制度ではないか。
こういった問題も日本の政治を既得権勢力から解放できない要因になっている。地盤、看板、カバンの三バンが揃っていることが当選の条件になるような選挙制度は、政界に新風を吹き込む人材の出現を妨げる元凶である。
この国の民主主義を本物にするには、国会はもっと真摯に投票価値の平等という課題に向き合わねばならない。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
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