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改憲派や改憲容認派の主張を聞いていると、ほとんど誰もが、判で押したように次のような台詞を言う。
「日本国憲法は時代に合わなくなったので、変える必要がある」
そういう言い分を聞いていて、いつも頭に浮かぶことがある。
「彼らは日本国憲法よりも民主的で優れた憲法を制定する能力や政治状況が、いまの日本人や日本にあると本気で思っているのだろうか」という疑問である。
僕は映画作家なので、あらゆる現象を映画の世界に喩えて理解したくなるクセがあるのだが、言ってみれば、彼らの言い分は「小津安二郎の『東京物語』(1953年)は古くて時代に合わないので、リメイクしたい」というようなものである。
しかし、それは明らかに無謀な試みだ。
『東京物語』を現代日本の映画監督やスタッフや俳優たちが作り直そうとしたら、ほぼ間違いなく失敗する。いや、小津監督ご本人が作ったとしても、たぶん失敗する。少なくとも、オリジナルを超える作品はできないと思う。
それはなぜか?
まず、『東京物語』は日本映画で撮影所システムが健全に機能していた、いわゆる「日本映画第二黄金時代」に作られた。撮影所が専属の俳優や監督を抱え、現代のようにいちいち作品ごとに資金集めやスタッフ集めをせずとも、次々に作品を生み出し興行できる好循環の中で作られた。
映画が娯楽の殿堂として不動の地位を獲得し、撮影所の経済状態にも余裕があったから、『東京物語』の脚本を読んで「ストーリーが暗いから最後はハッピーエンドにして、AKB48の○○を主演にしろ」などと野暮な注文を付ける投資家やプロデューサーもいなかったし、製作にもたっぷりと時間をかけられた。
あのような傑作は、小津監督という卓越した才能がいるだけでなく、様々な環境や条件が最高度に充実して初めて、この世に誕生しうるものなのだ。そして今の日本の映画界には、そのような環境がない。いや、そういう現状を肝に銘じない限り、現代の作家が優れた映画など撮れるはずがない。別に卑下するつもりはないが、それは認めざるを得ない現実なのだ。
同じようなことが、日本国憲法にも言える。
日本国憲法は、第2次世界大戦という人類史上最も凄惨で大規模な殺し合いが終わり、「戦争もファシズムも懲り懲りだ、これからは民主主義だ」という理想主義的な機運が数年間だけ世界で盛り上がったときに、ほとんど偶然のように「出来てしまった」憲法である。それは極めて優秀な人々によって書かれただけでなく、極めて特殊な時代状況の中だからこそ、憲法として成立しえた。
そういう意味では、歴史の流れが作った「傑作」であり、法隆寺や桂離宮や『東京物語』などと同様、歴史的所産なのだ。
戦後まもなく制定された日本国憲法が、あのようにラディカルに民主的な内容でありえた背景には、どんな歴史的条件があったのか。
まず、GHQの起草委員会に配置されたメンバーたちが、能力的に優れていただけでなく、自由な気風と善意に溢れていた。彼らの大半は、大学で教える法学の教授や弁護士などの専門家で、「日本人のために最高に民主的な憲法を書こう」という理想に燃えた精鋭たちだった。
例えば、連載第2回目で紹介したベアテ・シロタ・ゴードンさんの『1945年のクリスマス』(柏書房)には、興味深い記述がある。GHQの初期の草案第4条を巡る、起草委員会内での議論の様子である。このエピソードからは、彼らが日本人の将来についていかに真摯に考え、自分たちに有利なことを押し付けようなどとは微塵も思っていなかったことが窺えるだろう。
第四条でまたも躓いた。
「第四条には、この新しい憲法以後に定められる憲法、法律や命令は、この憲法が保障しているいろいろな権利を制限したり破棄することを禁止している。しかも、公共の福祉と民主主義より以上に尊重される事項を作ってはいけないと書いてある。これには、反対だね」
第四条 この憲法の後日での改正と、将来できる法律、法令は、すべての人に保障された平等と正義、権利を廃止したり、限界をもうけることはできない。公共の福祉と民主主義、自由、正義はいかなることがあろうとも、将来の法令によって侵されない。(略)」
ケーディス大佐は、原案を注意深く読み上げながら発言した。
「つまり、これは暗黙のうちに、この憲法の無謬性を前提としている。一つの世代が、つまりわれわれのことだが、他の世代に対して自分たちの手で問題を解決する権利を奪うことになる。(略)つまり権利章典の変更は、革命を起こすしか方法がなくなる。とても賛成できないね」(略)
「しかし大佐!現代はある発展段階に達しており、現在人間性に固有のものとして認められている諸権利、つまり<基本的人権>は、将来の世代が廃止するということは、許されるべきでないと考えます。(略)」
ロウスト中佐は、人権に支えられた自由と民主主義を理想とするアメリカ人の考えを代表していた。
確かに、将来に不届きな支配者が現れて、基本的人権まで奪う法律を制定したら、弱者である普通の農民や市民は、酷いことになる。実際にワイマール憲法のドイツが、簡単にヒトラーの手で変えられてしまったし、大正時代デモクラシーを謳歌した日本が、治安維持法という悪法で、軍国主義一色に染め上げられたという歴史がある。(略)
日本の事情に詳しいワイルズ博士がフォローする。
「この第四条を削除すれば、日本がファシズムへの扉を開くことは、避けられないと思いますよ」
幸か不幸か、結局、「第4条」は草案からは削られた。
後で詳しくみるように、自民党が去年発表した改憲案は、まさに基本的人権を無効化するような内容なので、僕などは「第4条は残しておけばよかったのに」などと、つい思ってしまう。
しかし、理想主義に燃えた草案の起草者たちは、昨日まで敵国であった日本人たちに、将来何らかの理由で基本的人権や民主主義を自ら否定する自由さえも与えようとしたのだ(ただし、第4条の主旨は、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」であるとした第11条や第97条などに活かされており、基本的人権を否定するような改憲はできないとの解釈も成り立つ)。
いずれにせよ、彼らによって書かれた先進的な草案が、明治憲法下の帝国議会での議決を経て日本国憲法として成立しえたのは、アメリカが政策として日本の民主化を推進し、かつ圧倒的な軍事力と政治力を持っていたからに他ならない。もし日本政府に少しでも政治力があり、アメリカに抵抗できたなら、日本国憲法は成立過程で骨抜きにされ、大日本帝国憲法と同じような代物になっていたかもしれない。日本の支配層の政治力が真空状態にあった、あの戦争直後の時代だったからこそ、日本国憲法は無事に成立しえたのである。
また、もし成立したのが1947年よりも後であったなら、今度はアメリカの都合で、日本国憲法は反動的なものになっていた可能性がある。
というのも、1949年に中華人民共和国が成立し、冷戦が本格化していく中で、米国政府とマッカーサーは日本を反共の防波堤とすべく「逆コース」を辿っていった。49年7月にはレッド・パージを開始し、共産党員やその支持者たちをマスコミや公職から追放していった。そうした流れの中でもし日本国憲法が起草されていたとしたら、起草委員会の人選も条文の内容も、著しく変わっていた恐れは強いのではないか。
日本国憲法とは、まぎれもなく、歴史的所産なのである。
では、その歴史的所産を未来永劫にわたって日本人は書き換えてはならないのかといえば、そうではない。日本国憲法は「傑作」ではあるものの、全く不備がないわけではない。数十年後か、数百年後かは分からないが、日本の民主主義が格段に成熟し、日本国憲法よりも優れた条文を書いて成立させる能力が身についた暁には、もちろん改正すべきだと思う。そのために、日本国憲法自体、改正可能なように定められているのだ。
しかし、誠に遺憾ながら、現代の日本人が憲法を改正しようとしても、改悪にしかならないことは火を見るより明らかだ。
それは、なぜか。
まず、先日の参院予算委員会の質疑で暴露されたように、改憲運動の急先鋒である安倍晋三首相は、憲法学の大家である芦部信義教授の存在すら知らず、したがって戦後の憲法解釈を全く勉強していないし、勉強する気もない。そのような不勉強で怠慢な首相が主導する憲法改定が、実りあるものになるとは想像がつかないのだ(GHQの起草者たちとは大違いだ)。
実際、自民党が作った改憲案はあまりに酷くて、お話にならない。
一言でいえば、「日本は民主主義をやめます」という内容である。ワイルズ博士が「この第四条を削除すれば、日本がファシズムへの扉を開くことは、避けられないと思いますよ」と危惧した通りである。
日本国憲法は、その草案がGHQによって一週間ほどで書かれた事実からしばしば「インスタント憲法」と批判されるが、自民党は「自主憲法の制定」を目指した結党から60年近くかけてこんなお粗末なものしか書けなかったのかと思うと、その無能力ぶりと不見識ぶりに唖然とせざるを得ない。
では、どこがどう酷いのか?
まず、自民党改憲案では、現行憲法から次のように条文が変えられている。
[現行憲法]第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
[自民党改憲案]第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
お気づきのように、現行憲法で人権を制限する概念として使われている「公共の福祉」を、自民党は「公益及び公の秩序」という言葉に置き換えている。(「個人」が「人」に置き換えられている点にも注目:ダイナモ注)
「“公共の福祉”も“公益及び公の秩序”も似たようなものじゃないか」と思う人も多いだろうが、憲法学の通説では、これらは全く異なる概念である。
日本国憲法で「公共の福祉に反しない限り」というのは、「他人の人権を侵さない限り」という意味だ。「個人の人権を制限できるのは、別の個人の人権と衝突する場合のみ」という考え方で、「一元的内在制約説」と呼ばれている。個人の人権を最上位のものとして規定する日本国憲法の、重要な特色である。
しかし、自民改憲案の「公益及び公の秩序」という表現は、それとは似て非なる概念だ。「公益や秩序」、言い換えれば「国や社会の利益や秩序」が個人の人権よりも大切だということになる。そして、何が公益であり、どういう行為が公の秩序に反するのかという問題は、国によって恣意的に拡大解釈される恐れが否めない。こういう発想は「一元的外在制約説」と呼ばれ、大日本帝国憲法の下における「法律の留保付きの人権保障」と全く変わらないのだ。
自民党はもちろん、このような学説上の議論をいちおう踏まえた上で改変を行った。というのも、自民党が改憲案とともに公表した「日本国憲法改正草案 Q&A」には、次のような説明がある。確信犯なのだ。
「従来の『公共の福祉』という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は『公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない』などという解釈が主張されています。今回の改正では、このように意味が曖昧である『公共の福祉』という文言を『公益及び公の秩序』と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」(14頁)
個人の人権よりも国や社会を上位に置く自民党の姿勢は、改憲案では終始一貫している。これは連載の第1回目でも触れたが、改めて第21条の変更点も見てみよう。
[現行憲法]第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
[自民党改憲案]第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第1項と第3項はほとんどそのままだが、重要なのは、第2項が付け加えられたことである。
同項により、日本政府は国民や報道機関の「言論の自由」を堂々と制限することができる。つまり、例えば僕がいまここに書いている論考が「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」に当たると判断されるならば、政府は僕の論考やマガジン9を「違法」とすることができる。そして、僕やマガジン9の運営責任者を逮捕・投獄することもできる。少なくとも、それが可能な治安維持法のような法律を制定することは、合憲になる。
このように言論の自由を「留保」する条文の構造は、大日本帝国憲法にも見られる。
第二十六條 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ祕密ヲ侵サルヽコトナシ
第二十九條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス
言い換えれば、自民党の改憲案で国民が保障される「言論の自由」とは、戦前・戦中と同じ程度だと言うことができるのだ。
だが、それだけではない。
国民の人権を骨抜きにしようという自民党の意図は徹底しており、彼らは先にも触れた現行憲法第97条を丸ごと削除している。
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
以上の事実だけでも驚愕するしかないが、しかし、自民党の改憲案の本質は、実は更にラディカルだ。その急進的復古主義とでも呼ぶべき性質は、次のような変更に顕著である。
[現行憲法] 第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
[自民党改憲案] 第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。
憲法が縛る対象が、国家権力ではなく国民になっている。
近代的立憲主義では、憲法とは「個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限する」(芦部信義『憲法』(岩波書店))ことを目的とするが、そのコンセプトを真っ向から否定しているわけである。自民党改憲案が、しばしば「憲法としての体裁さえなしていない」と批判されている所以だ。
そして極めつけは、第9章「緊急事態」の新設である。
第九章 緊急事態
(緊急事態の宣言)
第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。 (略)
(緊急事態の宣言の効果)
第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
この章が意味するのは、戦争や東日本大震災などの「緊急事態」の際には、内閣総理大臣が「憲法を超越して何でもできる」ということである。
そう、首相は「何でもできる」のだ。
法律と同じ効力を持つ「政令」は好き勝手に制定できるし、それに沿って政敵を牢獄に放り込んだり、処刑したりすることもできる。政府批判をする新聞社やテレビは閉鎖できるし、外国に宣戦布告だって自由にできる。徴兵を拒否する人も逮捕できる。これをナチスの全権委任法と同じだと指摘する専門家もいるが、決して大げさな言い方ではないのである。
菅義偉官房長官は4月7日、福岡市内で講演し、夏の参院選のテーマについて次のような発言をしている。
「新しい日本をつくるため、自分たちの手で憲法を改正する。まずは96条から変えていきたい。参院選で争点になるだろう」(4月7日 共同通信)
新しい日本を作る。結構なことだ。
しかし、より重要なのは、「どんな新しい日本を作るのか」ということであろう。
そして、彼らが出した改憲案によれば、自民党が目指す「新しい日本」とは、一言でいえば次のような国なのだ。
「国民の基本的人権が制限され、個人の自由のない、国家権力がやりたい放題できる、民主主義を捨てた国」
それはヒトラーやスターリンも羨むような国家像だが、そうした理想を自民党が抱いている事実は、別に秘密にされているわけではない。自民党のホームページには、改憲案の全文を記したPDFが、ご丁寧に現行憲法との対照付きで掲載されている。Q&Aと称される解説文もある。
自民党は、白昼堂々、わたしたちに次のような提案をしているのだ。
「民主主義、そろそろやめにしませんか?」
この提案に、わたしたちは、どう反応すべきなのだろうか。
それこそが今、わたしたちひとりひとりに問われているのだと思う。
http://www.magazine9.jp/soda/130417/
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