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★孫崎享氏の視点ー(2013/04/16)★ :本音言いまっせー!
すでにブログで紹介したように「砂川事件」を巡る裁判で、
田中最高裁裁判長が米国と密接な連絡を取っていたことが明らかになった。
「昭和32年にアメリカ軍基地を巡って起きたいわゆる「砂川事件」の裁判で、
「アメリカ軍の駐留は憲法違反」と判断した1審の判決のあとに
当時の最高裁判所の長官がアメリカ側に1審の取り消しを示唆したとする
新たな文書が見つかった。
当時の最高裁の田中耕太郎長官が最高裁での審理が始まる前に
レンハート駐日首席公使と非公式に田中長官は、
「裁判官の意見が全員一致になるようにまとめ、世論を不安定にする
少数意見を回避する」などと語っている。
凄いことである。
「裁判官の意見が全員一致になるようにまとめ、世論を不安定にする
少数意見を回避する」とは、各裁判官の自主的判断を許さないということである。
この田中耕太郎氏と米国との関係がどうなっていたか、見てみたい。
この情報は知人が提供してくれたものである。
出典鈴木武雄編『田中耕太郎 人と業績』、
下田武三(外務次官、駐米大使、最高裁判事)
昭和28年対日平和条約の発効後、初代の大使として赴任した諸外国の
大使は各界の指導者との交際を念願していたところ、熱心なクリスチャンであり、
西欧的な教養を身につけられた田中最高裁長官ご夫妻は在京外交団の引っ張り
だことななられ、頻繁に大使館のディナーへの招待を受けられた。
(注:最高裁長官という微妙な立場にいるものは、通常、外国の工作を排除する
ため、こうした交流を出来るだけさせる)
政府は国際司法裁判所への日本からも裁判官の選出を図る方針を決めた。
外交官出身の栗山判事が出馬したが2度国連選挙で選ばれなかった。
田中長官の出馬が決まり、ワシントンの公使をしていた私も早速国務省当局に
対して指示要請を行った。米国要人中にも知己の多い田中先生に対する米側の
反応は極めて好意的であった。
先生は翌年36年の春着任されたが、隣のベルギーに着任した私は時々
遊びにくるようにお願いした。ブラッセルには東京でお知り合いの
マッカーサー米大使もその頃転院しており、同大使を交えてのディナーに
お招きした。
鶴岡元国連大使
「選挙戦ではインドのパル判事(東京軍事裁判の判事)とパキスタンの候補
(再選めざす)をアジア地域に割り当てられている一つの椅子を争う三つ巴の
戦いであった。「パの候補が絶対優勢だ」「日本は早く引っ込めて次を狙った
方が日本のためになる」と国連事務局法律部の連中まで言いふらす有様
だった。」
田中耕太郎氏が米国の積極的支持を得て当選したことは間違いない。
それはある意味、「砂川事件」裁判の論功勲章のようなものである。
砂川裁判は極めて異例な裁判である。
@ 全員無罪の判決を下した東京地方裁判所に対して、検察側は直ちに
最高裁判所へ跳躍上告した。
これは極めて重要なポイントで、裁判で、想定される十分な審議するという
手続きを省くということで、これを受理することは最高裁判所の意向が十分に
反映されているとみなしてよい。
A 少数意見がなかった、
米側とのやり取りをみても、ここでは田中氏の指示が強く反映されていると
みられる。
B「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見して
きわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲か
どうかの法的判断を下すことはできない」として判断を放棄した。
この論は米国が国際関係でしばしば使う論理である。例えば核兵器の使用禁止
を国連で決定しようとする際にも、審議になじまないという形で排斥している。
これらは米国側と密接な関係を持って実施された。
裁判所は公平であるという一般の認識と全く異なる動きをした。
田中耕太郎氏はその成功報酬が国際司法裁判所の判事というポストを
米国の支援で獲得したのである。ここに米国に協力する者と、米国の対応が
現れる典型的ケースがみられる。
裁判官や検察に米国の影響力が及んでいると多くの人は考えている。
しかし、ここにもしっかり影響力が及んでいる。
それを田中耕太郎氏のケースが示している。
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