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2013年04月13日 世相を斬る あいば達也
日本の独自文化を壊すTPPに反対と言っても、年次改革要望書がまとめて提示され、強制的に受け入れろと言われただけの話であり、大騒ぎしなくても良いと言えば、その通り。根本的に、日本人が真の独立など、そもそも望んでいない世間の風潮を考慮すれば、どっちでも糞喰らえってな事である。対米二国間協定から、多国間協定になった事で、アメリカの思うようにはなりにくい、とお馬鹿な解説をしているヤツがいたが、逆だよ。注文が多くなるだけで、日本が外交上押し切れる相手なんて、地球上にいやしない(笑)。
TPPへの考察を通じて、筆者自身最も考え、躓いた点は、そもそも「日本の文化」と言っても“広うござんす”。どの時代の、どの辺を指して「日本の文化」と認定すべきか、と云う難題に出遭うのである。縄文弥生まで遡るべきかと問われると、即座にイエスとは言い難い(笑)。また、日本自体が弥生から鎌倉、戦国時代、否、その後の信長、秀吉、家康の時代にあっても、異文化を取り入れ吸収して作り上げた文化だけに、何処をどのように輪切りにして済む問題ではないのかもしれない。21世紀を生き抜く上で、その文化の取捨選択一つで、「日本文化」の意味するところは変わってくるので、一概に言えないのが難題だ。
まぁ簡単に考えれば、昨今の「日本の社会の文化」を前提とすることになるのだろう。つまり、好むこと好まざるに関わらず、現状の「日本の文化」を守るか、壊される事を望むか、と云う問題になる。そう考えると、「日本の文化」という概念は、驚くほど掴みどころのないものになる事に気づく。日本社会に根づく“文化芸能祭りなどの伝統”も文化だし、生活慣習や食も文化に含まれる。日本語も当然重要な文化である。その文化を包み込んでいるのが、近代国家では広義の法(協定も含む)と云うものだろう。ただ、TPPが、これらの一括りの文化をまとめて壊すと云うものではないのは承知している。この文化を包み込んでいる広義の法(協定も含む)が歪むことが問題なのだ。
「日本の文化」のすべてが「法や協定」に拘束を受けているわけではないが、「法や協定」が現在の日本と云う国の社会システムを構築する根拠となっている以上、その影響力は多大である。幕末以降取り入れられた、欧米国家と関わる「法や協定」が社会システムを形づくり、世界の激動の勢力変遷の荒波に揉まれ、現在の社会システムが出来あがっている。その間に、失われた「日本の文化」も数多くあったであろう。これは、時代と云うものが進む以上、一定の範囲で逃げられない問題なのだが、その選択を、誰がしたのかは、凄く問題だ。
まして、貿易軍事同盟の類に、他国からの強制的関与を受け、「日本の文化」を捻じ曲げられる協定に唯々諾々と肯く政治は、正義から考えて間違いだろう。TPPそのものが、日本社会システムに浸透するまでには、多くの時間も掛かるだろうが、確実に米国型の市場原理的金融資本主義の行動原理の影響を受けた、社会システムの変質は、間違いなくやってくる。そのような協定を、国民の16%の支持しか得ていない政権が選択する権利に正当性があるとは思えない。世論調査で6割がTPP支持等と云う事実は、この場合なんの根拠にもならない。
勿論、現在の日本の社会システムのすべてが、国民の為になっているかと言えば、改革すべきものは数多ある。しかし、それを直すのは、自国民であり、他国の干渉によるべきではない。北朝鮮のミサイル騒動と時を同じくして、TPPは貿易ばかりではなく、軍事同盟の意味合いも深いのだから、理解せよ、と安倍晋三は言っているが、だからこそ、安易に交渉に臨むべきではないと言っているのだ。今にも、北朝鮮が攻め込んでくるのを防ぐため風で、陳腐だ。今や、日本の統治権力側に立っている人々は、政界、財界、官界、言論界のすべてが、屁理屈は持って弥縫策に走り、確信を持って事にあたる姿勢を失っている。
安倍晋三はTPP事前協議を終え、交渉参加に合意して「日米合意は国益を守るもので、国家百年の計だ。経済的メリットに加え、安全保障上の大きな意義がある」、「本番はこれからだ。早く正式に交渉参加し、日本主導でTPPのルール作りを進め、国益の増進を図りたい」などと、何やら交渉の余地が残されている発言をしていたが、日本主導もへったくれもないことは、お馬鹿な国民でさえ、肌で判っているだろう。出だしで、これだけ押されっぱなしの屈辱的妥協をしたと云うのに、どの面下げて、このような発言が可能なのだろうか。
昨日、マハティールの話をしたが、今回のTPPの成り行きを観察していると、先の敗戦による国家の自信喪失は救い難い水準に達しているように思われる。終戦から遠のくほどに、その自信喪失は癒されるどころか、益々その症状を悪化させている。記憶を辿って行くと、筆者などはアジア・アフリカ会議(バンドン会議)と云う自尊に満ちた、アジア・アフリカの各国指導者の心意気に胸を打たれる。第二次大戦後に独立した、インド・ネール首相、インドネシア・スカルノ大統領、中国・周恩来首相、エジプト・ナセル大統領…。 *彼らは、大戦前まで英仏米蘭など帝国主義国家の植民地支配から独立した国々である。詳細は省くが、戦後の世界が米国中心の西側諸国とソ連中心の東側諸国のいずれのグループにも属さない、第三世界の樹立を夢見た。バンドン十原則は以下の通り。彼らの心意気が判ると云うものだった。
≪平和十原則 正式名称は世界平和と協力の推進に関する宣言。バンドン十原則(ダサ・シラ・バントン)とも呼ばれる。
1. 基本的人権と国連憲章の趣旨と原則を尊重
2. 全ての国の主権と領土保全を尊重
3. 全ての人類の平等と大小全ての国の平等を承認する
4. 他国の内政に干渉しない
5. 国連憲章による単独または集団的な自国防衛権を尊重
6. 集団的防衛を大国の特定の利益のために利用しない。また他国に圧力を加えない。
7. 侵略または侵略の脅威・武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立をおかさない。
8. 国際紛争は平和的手段によって解決
9. 相互の利益と協力を促進する
10. 正義と国際義務を尊重≫(ウィキペディア参照)
このアジア・アフリカ会議(バンドン会議)は先の大戦の犯罪国家(西側諸国にとって)・日本に対して温かかった。仮の話になるが、この会議に、日本が強く関わる意志力があれば、世界の流れはもっと早く動いたとも言える。ウィキペディアによると、この会議に呼ばれた日本は、米国の顔色を見ながら、恐る恐る出席、政府レベルの姿勢を見せられなかった。
≪ 日本は高崎達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、他国はいずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。出席者のなかには周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等の顔もあった。加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を次のように語っている。 “この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。 日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』が よかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。”と語っている。≫(ウィキペディア)
日本が敗戦コンプレックスを撥ね退け、真の独立国を目指せる気運は戦後何度かあったのだが、時の政府は肝試しする気力がなかった。その弱虫の心根は営々と今に繋がるのである。鳩山由紀夫の「東アジア共同体構想」も、このバンドン会議の精神は受け継がれているし、ASEAN+3などの構想にも受け継がれている。アジアはアジアでと云う、精神は結構根強いもので、ゆえにアメリカは横車を押さざるを得ないわけである。アメリカ一国で、世界金融マフィアの食欲を満たされては堪らない。故に、アジアにも悪魔の餌食になれ、と恫喝している様は、到底覇権国家の矜持とは言い難い。
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