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2013年04月11日 「ジャーナリスト同盟」通信
<ジャーナリストの本分>
ジャーナリストは、実に厳しい崇高な使命を帯びる、見方によると因果な商売である。その点で、差別するわけではないが、単なる金もうけで過ごせる資本家たちや権力行使をする役人とは異なる。その最大の使命は、なんといってもそれは権力監視、その背後の闇を監視することに尽きる。これがジャーナリズムの役割である。自賛するわけではない。中国に行くと、筆者の発言と執筆について驚く友人がいる。「大丈夫か」と心配してくれる。彼らは、中国で同じことをすると、当局に拘束されたりして、大変な目に遭うからだという。「日本もどこも同じだよ」と説明しても、なかなか分かってもらえない。権力監視が、国民に奉仕するジャーナリストの本分なのだ。本来の当たり前の仕事をこなしているだけである。いやなら辞めるしかない。因果な商売とはこのことである。権力に屈する新聞テレビは、ジャーナリズムではない。経験則からいえることは、本物になるには組織から離れた自由人・フリージャーナリストにならないと、無理であろう。それでも勇気を必要とする。富者にはなれない。
<権力監視>
政府や組織・団体から評価されることもない。孤独な人生を甘受しなければならない。貴重な情報は、政府や自治体、各種団体と接近することによって得られる。それが国民に奉仕する内容であれば、心を鬼にしてペンを走らせる。結果として、相手方との友情は壊れることになる。
最近の例として小泉純一郎のことがある。首相になる前の彼を、友人としてそれなりに評価していたのだが、実際の小泉政治は危ういものだった。今の安倍晋三は彼のお陰でもある。
彼についての批判本を2冊も書いた。ジャーナリストの本分とはこういうものなのである。以来、彼からの交信は途絶えてしまった。ジャーナリストの厳しい一面である。誰とでも仲良く、妥協して生きられない職責である。人は「無冠の帝王」と呼ぶのだが。
権力監視を返上して、当局の発表を鵜呑みにして報道する輩は、むろんジャーナリストではない。残念なことに、ほとんどの新聞・報道記者がこの範疇に入るものが多い。日本の厳しい現状は、ジャーナリストがいないことが災いしている。いつでも懐に辞表を入れて、それを編集長に叩きつけられるジャーナリストはそう多くはいない。
日本に限らないが、権力監視のジャーナリストは厳しい試練を受けながらの生活を強いられている。其の人物が法律に触れる問題を抱えていれば、いつでも権力の歯牙にかかるだろう。電車内の痴漢行為で逮捕される事例、不可解な死を遂げる者もいるようだ。この日本でも。中国やロシアだけではない。
そのせいだろうか、匿名で執筆する勇気のない輩ばかりである。本名で堂々と持論を展開できなければ、その情報はためにするもの、との評価を下されるだろう。
権力に迎合する書き手をジャーナリストとは呼ばない。学者にも御用学者と呼ばれる者ばかりが目立つ。原子力ムラの面々は、全てが御用と呼ばれる人たちだ。
彼らは、原発利権のために嘘も隠ぺいも平然とやってしまう。3・11以後の東電や経済産業省の対応などは、正にその典型であろう。その被害者は、きまって国民である。国民に奉仕しない原発ビジネスを、今止めないと第2の福島が間違いなく起きるだろうに。
<権力に屈するな>
分かりきっているのだが、それでも決起する新聞人・報道人が現れない日本だ。心が腐りきっているのだ。原発止め役がジャーナリスト・ジャーナリズムだというのに。議会もその任務を帯びているが、議会人は簡単に金に転んでしまう。比例してジャーナリストの使命は重くなっている。
筆者が尊敬出来た政治家というと、平和・軍縮派の宇都宮徳馬である。彼は戦前、読売新聞紙上で軍部批判を続けた。この時代だから彼も「高杉俊輔」というペンネームを使った。戦後の一時期、彼は読売に強い影響力を持っていた。其の関係で、ナベツネ・氏家という二人の元共産党員を入社させた。
宇都宮は繰り返し新聞人・言論人の姿勢のあり方を叫んでいた。それが「権力に屈するな」であった。耳にタコが出来るほど聞かされてきた。宇都宮事務所に出入りした新聞人は多い。しかし、彼の遺言を実践しているものはいない。みな権力に迎合して生きている。
<権力の走狗・日本のメディア>
権力を監視するジャーナリストがいないと、その社会は腐敗する。北京だけではない。モスクワもそうだ。どこの社会にも腐敗が存在する。それはジャーナリスト・ジャーナリズムが存在していないからである。
ただし、最近の中国は大きく変わっている。インターネットの普及が、権力・権力者監視の役割を果たしてきている。これは驚きの一つである。北京の新体制の政策にも反映している。日本には「中国知らず」が余りにも多すぎる。現場に立て、といいたい。
日本の新聞テレビは、権力監視を止めてしまっている。官邸とワシントンに対しては、監視どころか迎合している。彼らの宣伝にいそしんでいる。権力の走狗になり下がっている。このことが、日本の本当の危機なのである。
原発を例に引くと、野田内閣の3・11原発収束宣言に対して、反撃しなかった。ずっと放射能が放出している事実さえ、まともに報道しなかった。原発ゼロを叫ぶどころか、その逆の報道に徹した。原発推進の新聞・テレビだけだった。そうして政権を再び自公に引き渡してしまった。
いまも福島の地下水は放射能で汚染している。大量の汚染水が海水にも流出している。この深刻な事実を真正面から報道しない。いい加減な除染作業を追及したのは朝日新聞ぐらいだ。
ジャーナリズム不存在の日本が、この国の内外政をぶち壊している。公人・公党は、平和憲法を尊重する義務を負っている。それなのに改憲政党誕生にマスコミが加担している。驚くべき事態である。
<民意を代表>
ジャーナリストは民意の代弁者でなければ、その主張・報道に正当性はない。説得力もないだろう。ためにする報道でしかない。原発推進に熱中する読売・産経・日経などは、民意に反している。世論誘導している犯罪的報道で許しがたい。民意とは、国民の生活・生命・財産に幸いするものでなければならない。それでこそ、不正権力を弾劾できるのである。
貨幣乱発による急激な円安誘導は、庶民の懐を直撃する。民意に反しているのだが、新聞テレビはこぞって宣伝して、安倍支持に一役も二役も買っている。
新聞を読まない人間だが、テレビ報道はつい見てしまう。その質の低さはただ事ではない。新聞を読まない若者は多いが、最近ではテレビも見なくなっている。マスコミの危機を裏付けている。
<日本国憲法の要請>
日本国憲法は世界に冠たるものである。正確にいうと、まともな識者は天皇制に違和感を抱いてしまうのだが。宇都宮は天皇家を京都に帰して、普通の市民生活をさせるべきだ、と語っていた。
日本国憲法は、国民が主権者であると規定している近代的自由主義憲法だ。戦争放棄は歴史を先取りしたすぐれた規定である。財閥や官僚・政治家のためのものではない。
憲法が「言論の自由」を保障した理由は、民主主義を正常に機能させるために不可欠だからだ。権力監視を国民の側から監視できる唯一の手段だからでもある。行政・議会・司法の腐敗にブレーキをかけられる唯一の、国民が手にできるものだ。
ジャーナリスト・ジャーナリズムは、権力監視が最大の任務であることを自覚すべきだ。あえて指摘しておきたい。
2013年4月11日11時40分記
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