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2013年04月07日 世相を斬る あいば達也
*小沢一郎と慶大教授堀茂樹氏の対談が“市民による市民のための市民ネットメディア”さんの主催で行われた。(http://www.ustream.tv/channel/voice-of-citizen)
日常的政治や政局レベルから離れ、小沢の政治哲学をメタな視点から抉り出そうとする堀氏の哲学的、しかし愛情あふれた対談態度に敬服した。勿論、同氏の投げかける様々な政治の根源的問いに応じる小沢一郎の応対も真摯なものであったことは言うまでもない。
*最終的には「政治とは何か」と云う話に至る事で、小沢一郎の不器用と評しても構わない程の愚直さに出遭う。器用とか、小利巧に生きることが、利害損得における“得”を座標軸に置き、生き方を定義づける時代において、小沢の“超”を超える保守主義は、仁徳天皇の物語性にまで及ぶ。「国家は民なり」、民の充足あっての国家であり、極端に表現すれば、国家よりも民の方が大切だと云う哲学にまで至る。小沢の保守性(縄文の心)は、スパーの冠が載ることで、面白いようにリベラルな風情を見せる。今や民よりも国家、ついには国家より資本が大切と云う時代だけに、民に戻るのは難儀な話である。この辺の言質を引き出した点、小沢一郎が政治家のポジションを僅かに超越した政治哲学を保持する点を見出した点は、堀氏の巧妙な得点である。
*対談の堀氏の前説が非常に多くのことを示唆していた。ウォルフレンの著書で強く言及した「人物破壊」がシステマチックになされた事実は、民主主義の闇で裁かれる怖さを現実なものとして、我々は目撃したのである。マスメディアのメディアスクラムが、こと小沢一郎叩きになると、朝日から産経までまったく同様のロジックで口汚く社説まで動員して罵るのだから、異常以外のなにものでもない。また、堀氏は、言論人・知識人として一定の評価をしている人々の中にも、数多く誤った小沢評を繰り返す事実に驚いている。
*筆者が思うには、堀氏が例示した中西輝政、福田和也、山口二郎、松原隆一郎、宮台信司、内田樹、姜尚中、高橋源一郎等々の、小沢一郎否定論を紹介していたが、この有能と言われている現代の言論知識人は、あきらかに二次、三次情報やマスメディアが作り上げた小沢一郎人物糾弾マニュアルを参考にしているに過ぎない。おそらく、上述した人々の一人たりとも、小沢一郎と膝を突き合わせて語った上で評論している者はいないだろう。彼らは、時の流れに乗っておこう、と云う安易な人物評価を口にしているとしか理解のしようがない。まぁ一見知的言動を好む人間達にとって、小沢がつき合い難い人物である事は幾分納得できるが、だからと言って表層的人物評論を公言して良いとも思えない。
*対談において、哲学者でもある堀氏と小沢一郎の相性が抜群だったわけではない。小沢の議院内閣制(イギリス)と堀氏が学んだ共和制(フランス)には幾分消化不良な部分もあった。小沢が現代の知性の代表者とも言えるエマニュエル・トッドを知らなさそうだった点は少々がっかりだったが、まぁ致し方ないのだろう。それこそ仁徳天皇の「政」の原点から発する、小沢の政治哲学には、今さら不要な知識だとも言えるだろう。面白かったのは、堀氏が最近(06年だが)の小沢の著書「小沢主義」を中心に話を進めながらも、「続・日本改造論」が上梓される事を希求している点、筆者は強く同意した。他の政治家の著書は判らないが、政治家が著する主義主張は、その政治上の理念哲学が籠められるものであり、政治行動上、非常に有意だ。以下は、堀氏のブログから引き出した小沢に関する一節である。
≪ 同一性と変化 ― 小沢は「保守」か「革新」かという疑問への脚注 ―
小沢一郎という政治家については、自由主義から平等主義に転じたとか、小さな政府から大きな政府に乗り換えたとか、親米から親中にシフトしたとか、できの悪い座標軸しか持たぬ評論家等によって、デタラメばかりが流布されてきた。どこがどうデタラメか全部まとめて解説したいところだが、あいにく暇がない。そこで、とりあえず今日は、小沢はいったい「保守」なのか、「革新」なのか、それとも「保守」と「革新」の間で矛盾しているのか、という疑問に対して、少し哲学的な(?)アプローチで補助線を引いておくことにする。
よく知られているように、小沢一郎は、好きな言葉としてしばしば、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』の中の台詞を引く。遠い青年時代の記憶に基づくためにその台詞を吐く人物を間違えているらしいのだが、ともかく小沢一郎は、2006年4月の民主党代表選挙における政見演説の終盤にも、次のように述べた。 《「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。」英語で言うと We must change to remain the same. ということなんだそうです。確かに、人類の歴史上、長期にわたって生き残った国は、例外なく自己改革の努力を続けました。そうなのだと思います。よりよい 明日のために、かけがえのない子供たちのために……》
こうして、We must change to remain the same.を唱える小沢は、「変わらずに生き残る」ことを目的とするのだから「保守」だろうか。それとも、「変わらなければならない」と言うのだから「革新」だろうか。はたまた、同一性を保とうとする「保守」と、変化を追求する「革新」の間で、矛盾しているのか?否、彼は何ら矛盾してはいない。なぜか?
例えば、「彼女はすっかり変わった」というフレーズに注目していただきたい。これは、以前の彼女と今の彼女は同一でない、少なくとも部分的には別人だという判断の表明であろう。ところが、「彼女は…」というように「彼女」を主題としている以上、このフレーズは、「彼女」の同一性を暗黙のうちに認めている。つまり、彼女の変化は、以前の彼女と今の彼女の同一性に支えられていると言わざるを得ない。しかも同時に、本人が意志したことであったかどうかはともかく、彼女は変化することによって同一の彼女であり続けた、とも言える。この面から見れば、彼女の変化こそが、彼女の同一性の存続を可能にしたということになる。
同一性と変化のこうした二重構造は、地上のあらゆる人と物象に見出すことができる。われわれ個人をはじめ、学校も、会社も、国家も、人類も、この二重構造の中で生きている。人間の悟性を超えて世界そのものを考える形而上学においても同様だ。一方には、古代ギリシャのパルメニデスの教えにしたがって世界を永遠不変の存在の相の下に視ようとする傾向があり、他方にはヘラクレイトス風に万物流転の生成を感得する傾向がある。これまた、件の二重構造の反映にほかなるまい。
そういえば、ヘラクレイトスは、「同じ川に二度浸かることはできない」と言ったと伝えられる。わが国中世の歌人鴨長明の絶妙な表現を借りるなら、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」(『方丈記』1212年)だからで ある。すなわち、「行く川の流れ」は、「絶え」ぬ(=同一だ)からこそ「本の水にあらず」(=変化している)と言える。それでいて、「本の水にあら」ぬ (=変化している)からこそ「絶え」ることがない(=同一である)、とも言える。このように、「同一性」と「変化」は、対立しながら常に支え合っている。
個人も、グループも、国家も、自分らしく生きようとするときにこそ変わることができ、積極的に変わることによってのみ本来の自分と同一であり続けることができる。この角度から見ると、「変化」とは、いわば「脱皮」なのではないか?そして、いま日本に必要なのはまさに脱皮としての変化であろう。
かの米国は9.11を機に脱皮するどころか、現職大統領ブッシュの下で大義なきイラク戦争へ突入して行った。その後オバマが登場し、"We are, and always will be, the United States of America."と米国の同一性を鼓舞しつつチェンジ(変化)を先導しようとしたが、時すでに遅しだったようで、竜頭蛇尾の感が否めない。
日本の3.11と米国の9.11は性質も規模も異なるので、共通の平面で比較することはできない。しかし、死者・行方不明者の数や国土の破壊という観点から見れば、3.11で日本の国家とネイションが蒙ったダメージは、9.11で米国が受けたショックよりも遙かに、圧倒的に大きい。
わが国は本当に正念場を迎えている。脱皮しなければサバイブできない。つまり、「変わらずに生き残るために、自ら変わらなければならない」のである。ところが、菅直人首相とその政府は、もちろん頑張ってはいるのだろうけれども、その「頑張り方」たるや、まるで「危機感」が欠伸をしているような様子だ。福島原発危機への対応はごく控えめに言っても初動に甘さ、生ぬるさがあったし、震災から一ヶ月以上経過したのに、被災地で仮設住宅建設の目処さえ立っていな い。いつもながら日本人という集団は、超優秀な「兵卒」および「下士官」を大勢抱えていながら、ろくな将軍に率いられていないところが弱点なのだ……。
ならば今こそ、「保守」のための「革新」の人であるがゆえに左から疎まれ、右から恐れられ、長年にわたって政権中枢から排除され続けてきた ― しかも近年は明らかにアンフェアなやり方で排除されてきた ― 小沢一郎という政治家の剛腕を、思い切って試してみるべきではないか。≫(2011年4月15日付:『堀茂樹のブログ、あるいは不敬の義務』より) http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2011/04/post-531f.html
*同じブログサイトで同氏は10年の8月に、以下のような感想も述べている。
≪2010年8月26日〜 小沢一郎は至極まっとうだ。 小沢一郎が昨日自分の政治塾でやった講演、Ustで聴ける。話の内容は著作を読んだ者にとっては新味なし。概念の詰め方もおおまかで、知的刺戟に欠ける。語り口も、中途半端に頭のいい若者にウケルようなかっこよさが皆無。ところが、それにもかかわらず、耳を傾けさせるだけの厚みがある。 少し古いタイプのまっとうな日本人が、個人も国家もまっとうに生きることが大事だと説いている ― それが、小沢講演の与える印象である。 小賢しさ(=戦略的思考に非ず)から千里隔たっている。小沢が「選挙至上主義」だとか、近頃では「反米」だとかいうのは、いい加減な風説にすぎない。
@miyake_yukiko35 小沢氏が議事堂玄関で律儀に天皇を出迎えるのは、生身の人間としての天皇個人を特別に敬うからではないはず。そうではなくて、憲法が天皇を主権者たる国民 の統合の象徴と定めているという点を大まじめに尊重するからでしょう。古風な立憲主義者の論理的行動です。
民主党の代表選を注目して見てきた。私がいちばん問題視するのはマスメディアによる小沢叩きのアンフェアさ(汚さ)だが、そのことを別にしても、一 国の宰相にふさわしく、国際的な場でもへらへらすることなく振る舞えるだけの見識と胆力を持っているのが菅直人でないことは、火を見るよりも明らかだ。≫(堀茂樹のブログ、あるいは不敬の義務より)
*堀 茂樹(ほり しげき、1952年 - )は、日本のフランス文学・哲学研究者、翻訳家、慶應義塾大学教授。早稲田、慶応で学んだ後、フランス政府給費留学生として渡仏し、仏文・仏哲学を学んだ。アゴタ・クリストフの小説「悪童日記」の翻訳に着手、仏研究者と仏文翻訳者の道を歩む。
ブログの副題になっている「不敬の義務」とは、
≪自由人としてこれをしたい。そうすればおのずから「不敬の義務」 ― フランス語でいうところのle devoir de l'irrespect ― を果たすことになるはずだ。実際、公共の場で、どんな権威にも服さず、どんな流行のイデオロギーにも阿らず、どんなに「お世話になっている方々」にも遠慮 することなく「不都合な真実」を述べること、すなわち「不敬」は、民主主義を支える市民(≠住民)にとって当然の権利であるであるばかりか、言論を事とする者にとっては義務ですらあるのだ。このことを私はかつて、ジュリアン・バンダ(Julien・Benda1967-1954)の数々の著作との出会いをとおして確信した。 不敬の義務を、そろそろ自ら実践すべきときが来ていると感じる。暗黙の口裏合わせと、(批判的知識人のポーズ の中にまで顕著な場合がある)迎合主義と、見せかけだけの甘ったれた露悪趣味ほど、日本の社会を風通しの悪い、嘘っぱちの社会にしているものはない。そんなものと馴れ合ってたまるか! というわけである。≫と言っている。
注:仁徳天皇の「政」の物語は、検索等で参照して頂きたい。
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