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最近「ヘイトスピーチ」なるものが流行っているようだ。「朝鮮人を殺せ!」などと叫ぶデモが開かれたり、また論壇でも排外主義的言説が過熱している。
しかし、排外主義的なデモや言論が力を持つことはない。そこに言動の一致が見られないからだ。
ここでは、作家・佐藤優氏のインタビュー「商売としての排外主義」を紹介する。
月刊日本編集部ブログより
http://ameblo.jp/gekkannippon/entry-11503253035.html
勇ましい言論は影響力を持たない
── しかし、多くの言論誌や週刊誌は政府の弱腰を批判し、軍事力を行使せよと論じる知識人を取り上げている。
【佐藤】 それが商売だからです。そういう論調を読んで、「そうだ、そのとおりだ!」と叫んで胸をスカッとさせたい消費者がいる以上、需要に応じて供給して金儲けするのは資本主義経済として当然です。
ただし、それが知識人のあるべき姿かといえば、違います。むしろ、軍事対立を煽る人々はデマゴーグ(扇動家)という、古代アテネを滅ぼした人々と重なるでしょう。
私も言論でメシを食う立場の人間ですが、そこで譲ってはいけないものがあります。それは「話者の誠実性」です。平べったく言えば、「言っていることと自分がやっていることの間に乖離があってはいけない」ということです。「血を流す覚悟が必要だ」と論を張るならば、まず自分が「覚悟」を見せなければいけません。自衛隊に入るのは無理な年齢であっても、予備自衛官になるなり、老骨にも死に場所があったと竹島に突っ込んで行ってからすべき議論です。
── ほとんどの軍事対立を煽る知識人は、自らは安全地帯に身を潜めて、要するに「若い奴は死んでこい。俺・私はここで茶をすすって眺めている」と言っているようなものだ。マックス・ウェーバーが第一世界大戦時に軍役に志願して赴いたのは50歳の時、あるいはナチス・ドイツへの抵抗を訴えた神学者カール・バルトは53歳の時に、スイス国境警備隊で軍役している。彼らとは大きな違いだ。
【佐藤】 バルトの言葉がなぜ現代でも色褪せないか、それは、繰り返しますが「話者の誠実性」があるからです。確かに50代になってから戦場にいけば、それはむしろ足手まといとなります。しかし戦争は前線だけではありません。だからウェーバーは野戦病院に行き、バルトは国境警備隊に行き、そこで、自分ができる限りのことをした。思想が受肉しているのです。
そもそも、「血を流す覚悟を」と求めるのは、普段、「血を流す覚悟を持っていない」ということです。
一人のキリスト教徒として私は、人間の生は神の栄光のために捧げられており、その生は神の一人子であるイエス・キリストの血によってのみ贖われる、という認識を持っています。その中では、われわれの生命が常に神の栄光のために捧げられており、いつでも血を流す覚悟があるのは当然のことです。愛国者と称する知識人たちが今さら「血を流す覚悟を」と言い出すのは、今までは愛する国のために「血を流す覚悟」がなかったわけですねと考えざるをえません。
石原都知事による尖閣購入発言から現在に至る問題が生じたわけですが、石原氏は国政を去って久しく、外交についての詳細な情報を持っていなかったのではないかと思います。あまりにも中国という国の国家意思と能力を過小評価して、軽率に発言したように見えます。おそらく、本人自身が現在の展開を読みきれていなかったのではないでしょうか。
知識人の責務とは
── 言葉は真実を語りもするが、その言葉を発する自分自身を欺く力も持っている。強硬外交を主張する論は、自分の生命が戦争によって失われるかもしれないという切実な実存的問いかけを隠蔽しているのではないか。
【佐藤】 そう思います。結局、ネトウヨ(ネット右翼)と呼ばれる人達も含めて、強硬論に惹かれる人たちは、良き消費者たちであり、そういう人達を相手に、生活のために需要に応じて過激な言論を切り売りする「知識人」がいるだけなのです。単純に、商売の原理で動いているにすぎません。現実の政治・政策に影響を与えることは決してありません。
もっとも、そういう「知識人」には自分は商売の原理で動いているという自己意識はなく、誠実な人間と思っているのでしょう。(以下略)
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