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2013年4月 1日 神州の泉
昨日3月31日の朝日新聞デジタルに、曽我豪(そがたけし)政治部長が書いた『(ザ・コラム)安倍首相 「私ども」から「私」へ、その心は』という非常に興味深い記事があった。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201303300449.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201303300449
曽我氏によれば、3月17日の自民党大会を見ると、安倍首相は第一次安倍内閣と今般の第二次安倍内閣では決定的に変わっている点があり、それは“話法”であるという。(画像はパロディストのマッド・アマノ氏作品です。)
記事の要点をまとめると、曽我氏は最高権力者がここ一番の舞台で自分をどのように呼称するかは、政権の性格をかなり正確に反映するという。小泉純一郎元首相の場合は、三人称単数形で自分を表した。「自民党がやれないことをやるのがコイズミだ」のように、あえて自分を三人称で呼んでそのコイズミを自民党と対置させ、旧体制の破壊者、挑戦者としての自分を演出した。
一方、小泉内閣を受け継いだ第一次安倍内閣で、安倍首相は07年夏の参院選で「私たち自民党に大いなる力をお与えいただきますよう」と訴えたが惨敗、「私どもの政策は間違っていなかった」けれど「私たちが約束を果たしていくかどうかで批判があった」というように、“私たち”という一人称複数形を使った。曽我氏はこの“ども”には当時の安倍政権を弱めた人々や相次ぐ不祥事の閣僚、消えた年金問題の社会保険庁も入っていて、安倍首相はコイズミのようにそれらを冷徹に切れず、古い自民党の幻影を呼び起こしてしまったが、それが第一次安倍内閣挫折の原因の一つになっていると指摘。
そして、今般、第二次安倍内閣における党大会で安倍首相は、「私は、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉に参加する判断をいたしました」「必ず私は、日本の農業を、そして食を守ってまいります。どうか私を信頼していただきたい」「私は、強欲を原動力とする資本主義経済の道をとってはならないと思います」。参院選を語っても前回とは違い、「皆様とともに、勝ち抜いて、誇りある国、日本を取り戻してまいります。先頭に立って勝ち抜くことをお誓いいたしまして……」というように、自分の呼称が劇的に“一人称単数形”に変貌したという。(※ここまでは曽我氏の記事を神州の泉的な語法で要約した。)
安倍首相の今次内閣における自分の呼称が、“私ども”から“私は”という“一人称単数形”になったことへの分析は曽我氏のコラムを読んでいただきたいが、神州の泉は、曽我氏による上記の鋭利な指摘に対して、小林興起氏が「裏切る政治」(光文社)で語った“裏切りのシステム”をすぐに想い出した。小林興起氏はこの本で、小泉政権時代に郵政民営化が決定される経過や、野田政権時代に消費税増税が決定される各経過がそっくりだと、非常に重要な指摘をする。日本は民主政治の国だと思われているが、国会における最高意思決定は、民主的な話し合いのルールが踏みにじられ、上程された法案が悪法だと気付いて多くの議員が強いて反対意見を表明しても、最終的には総理が独断でその悪法を決めてしまう“システム”になっているという。
そして、そのシステムが発動される最大の原因を、日本がアメリカの属国だからと断定する。国会の生々しい現実を直視してきた小林興起氏の説明だから説得力がある。小泉純一郎氏の郵政民営化、野田佳彦氏の消費税増税、そして今次内閣における安倍首相のTPP参加表明、これらに共通することは、最終的に総理が独断で悪法を決定してしまうことにある。これは各総理の個性に起因することではなく、明らかにアメリカの意志が政治の最高指導者に反映するからだ。
その意味で安倍首相が大事な場面に臨み、自分のことを“私”という一人称単数形で呼称している現実は、第二次安倍政権が恐ろしい独裁政権であることを暗示している。“私”という一人称単数形呼称にアドルフ・ヒトラーの「マイン・カンプ(我が闘争)」が浮かんだ。マイン(Mein)とはドイツ語で“私の”を意味するようだ。
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