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★「天木直人氏の視点ー(2013/03/31)」★ :本音言いまっせー!
朝日新聞の曽我豪という政治部長は朝日が安倍首相に侘びを入れて
手打ちした晩餐会をお膳立てした人物だ。
その事を私は月刊雑誌エルネオスの記事を引用して3月1日の
メルマガ第149号で書いた。
その曽我豪政治部長が今日3月31日の「ザ・コラム」という欄で
次のように安倍首相批判を批判する記事を書いている。
「一度挫折したくせに何だ。だいいち体は大丈夫なのかといった話が
続くと、よほどこの国は挫折しらずのエリートが好きなんだね、と皮肉
の一つも言いたくなる。うってかわって支持率が堅調になると、挫折か
ら学んだのだ、決められる安倍政治の成功の秘訣は、といった話に切り
替わる。それはそれでげんなりだ。安倍晋三首相もこの移ろいの浅薄さ
を鼻白む思いで観察しているのではなかろうか・・・」
まるで芥川龍之介の杜子春ばりの訓話だ。
そうして、その後に、安倍首相はここ一番の勝負どころで、かつての
「私たち」という呼称から、コイズミ首相ばりに「私」を強調するよう
になった。この違いに、前回と違った覚悟が感じられる、などと持ち上
げている。
私が安倍首相を評価しないのは前回の失敗があるからではない。
就任三ヶ月ではやくも対米従属の正体が明らかになったからだ。
しかも、小泉首相や野田首相のように、対米従属こそが国益だと公言
するような政治家ならわかりやすいが、安倍首相は日本を取り戻すと繰
り返して戦後レジームからの決別を掲げてきた政治家だ。
その政治家が米国に叱られたとたんにあっさりと対米従属に屈する、
その情けなさに失望させられるからである。
しかし曽我豪政治部長のこの記事が思い出させてくれた。
安倍首相はかつて首相の職を突然投げ出した政治家だった。
しかもただの投げ出しではない。
国会で施政方針演説を行い、これから国会質疑が始まるという直前に
投げ出したのだ。
こんな辞任の仕方は前代未聞の恥知らずだ。
それだけで政治家失格であり議員辞職ものである。
政治家は権力を握ったらたとえ殺されてもその権力を手放さない。
健康を理由に権力の座を降りるような時はそれが致命的なものである。
二度と安倍晋三という政治家は復帰できないだろう。
当時私はそう思ったものだ。
その当時の思いを曽我豪政治部長の提灯記事が思い出させてくれた。
私は今でもあの時の辞任は仮病だと思っている。
本当の理由が本人の口から明らかにされなければならないと思っている。
◇
(ザ・コラム)安倍首相 「私ども」から「私」へ、その心は 曽我豪
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201303300449.html
2013年3月31日
この春も政治記者になる若者がいる。
政治家とつるんでいるかのように思われて、昨今、なにかと評判のよくない商売だが、こう思う。言いたくない話を権力者から聞き出し、隠したい思惑や生の姿を満天下にさらすのが僕らの仕事だ。ならば、おもねる必要がないのは当たり前としても、ダメだダメだと決めつけ型の批判ではこれもまた、読者の信は得られまい。
だから、通説や大方の見方の類いは疑ってかかるあまのじゃくでいいと思う。
一度挫折したくせに何だ、だいいち体は大丈夫なのかといった話が続くと、よほどこの国は挫折知らずのエリートが好きなんだね、と皮肉のひとつも言いたくなる。うってかわって支持率が堅調となると、挫折から学んだのだ、決められる安倍政治の成功の秘訣(ひけつ)は、といった話に切り替わる、それはそれでげんなりだ。
安倍晋三首相も、このうつろいの浅薄さを鼻白む思いで観察しているのではなかろうか。権力者の常とはいえ、1度目の政権のとき、人は門前市をなす勢いで集まり、あっという間に去った。その天国から地獄を体験した首相である。2度目を志したときも、最初から駆けつけた人もいれば、情勢が判明した後から来た人もいるだろう。
官邸に再び市ができようとも、いくら参院選に向けて不安要因が見あたらないと言われようとも、首相がそんな大方の見方に安住できようはずがない。
*
ところでこの3月17日の自民党大会、変わるかもしれないと思っていたらほんとうに変わった点があった。
安倍首相の話法である。なぜこだわるかというと、ここ一番で最高権力者が自分のことをどう呼称するかが首相や政権の性格をかなり正確に反映すると思えるからだ。
たとえば、小泉純一郎首相なら三人称単数形である。「自民党がやれないことをやるのがコイズミだ」。政権発足直後、ブームが定まった2001年夏の参院選。あえて自分を三人称で呼んでそのコイズミを自民党と対置させ、旧体制の破壊者、挑戦者としての自分を演じてみせた。
他方、07年夏の参院選の安倍首相は一人称複数形である。「私たち自民党に大いなる力をお与えいただきますよう」と訴えたが惨敗、「私どもの政策は間違っていなかった」けれど「私たちが約束を果たしていくかどうかで批判があった」と語った。
一度コラムで書いたことがあるが、論理的にいえば、政権全体を意味するその「私ども」の「ども」には、当時の安倍政権を弱めた人々、相次ぐ不祥事の閣僚や消えた年金問題の社会保険庁も入る。コイズミと違ってそれらを冷徹に切れず、古い自民党の幻影を呼び起こしてしまったのが一人称複数形の首相であって、1度目の政権の挫折の理由のひとつもそこにあった。
そしてこの春。「ども」が消えた。
自民党大会で、表明したばかりのことをこう述べる。「私は、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉に参加する判断をいたしました」「必ず私は、日本の農業を、そして食を守ってまいります。どうか私を信頼していただきたい」「私は、強欲を原動力とする資本主義経済の道をとってはならないと思います」
参院選を語っても前回とは違う。「皆様とともに、勝ち抜いて、誇りある国、日本を取り戻してまいります。先頭に立って勝ち抜くことをお誓いいたしまして……」
一人称単数形への変貌(へんぼう)である。
*
さて、こう書いてくると、こんなサゲが想定されるかもしれない。「私」を前面に押し出すことで安倍首相は自分の指導力をアピールしたいのだ、だからいまは好調でも景気動向など今後の展開次第で首相は批判の矢面に立つことになろう、それは危険な賭けである……などなど。
だがあまのじゃくはそうは書かない。
なぜなら、側近と周辺の言を集めれば、まさに2度目の秘訣は「焦って全部を進めようとして失敗した1度目の反省から、国民のニーズを踏まえた優先順位を大切にしている」ことに尽きるからだ。
単純な「私」の押しつけでもなく、順位づけで頭がいっぱいの簡単な調停者でもない。おそらく真実の姿は真ん中へん、一人称単数形で彼が演じようとする自分は、政権内で複数の意見を競わせておいて最良最強の時期に自分が決めるのだという「最終判定者」として立ち現れる「私」なのだ。
だとすれば、別の大方の見方も裏切られるかもしれない。
参院選大事で安倍首相は憲法改正など身上のタカ派の路線を封じているだけだ、勝てばその右腕を一気に解き放つはずだ……。ただ、集団的自衛権の容認問題はじめ有識者会議その他でいつでもスイッチは押せる準備だけ着々と進める首相である。
「私」が「最終判定」できる最良最強の時期はいつか、まとめて来るかやはり順番か、あるいは案外と来ず、もっと長いスパンで考え始めているのか。――僕ら政治記者が権力をみる目も、おのずと複眼へと切り替わるべきときを迎えたようである。
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