http://www.asyura2.com/13/senkyo145/msg/654.html
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TPPやFTAに反対するなら、まず条文をよく読もう
薬や治療費は高騰するのか?:医療編2
2013年3月27日(水) 高安 雄一
突然ですが、筆者は「日本は何が何でもTPPを締結せよ」、と、ここで主張する気はありません。ですが、韓国研究者の一人として、TPP参加が国益に叶わないとする例証に、一足先に韓国が米国と結んだFTA(自由貿易協定)を挙げるのはどうか、と思っています。
韓国国内では締結の前から現在に至るまで、FTAによる影響を危惧する声が絶えません。しかし筆者が見る限り、その危惧はFTAの条項をきちんと読めば根拠のないものであったり、そもそもFTA締結以前から別の協定が結ばれているものだったりすることが非常に多いのです。
条項を熟読するのは、専門家以外にはなかなか荷が重いものですし、本連載も必ずしも読みやすいものとは言えないかもしれません。しかし、国際間のものに限らず、約束事について、条文をきっちり読まずに論じるのはどう考えても間違っています。
『隣りの国の真実 韓国・北朝鮮篇』(高安 雄一著)
「結論だけ示してくれ」という方に配慮して、細かい部分は囲みや脚注にするなど、工夫していこうと思いますが、少なくとも国際条約に関しては、「細部を語らずに説得力のある説明はできない」と、私は考えております。
危機、国難を叫ぶ声は耳に届きやすい。しかし、彼らが本当に条文を真摯に読んだのかどうかは、常に問わねばならない。韓米FTAを巡る韓国内の報道や論争を見て、強く思います。
薬価暴騰、盲腸の手術で100万円!?
さて、前回(「『米国の圧力で医療は崩壊』する?しない?」)に引き続き韓米FTAの医療分野を扱います。今回のテーマは「営利法人が認められることにより医療費が青天井になる」、「薬の価格を決定する際に、政府などから独立な検討機関が評価することにより、薬価が急激に高くなる」という説についてです(もし今回からお読みになるのでしたら、前回の後半の、韓国の医療保険制度についての説明を、先にお読みになると理解がしやすいと思います。上のリンクをお使い下さい)。
最初に「営利法人が認められることにより医療費が青天井になる」といった主張です。
この説は韓国のインターネットやツイッターを通じて流布していますが、韓国最大の新聞、朝鮮日報によれば、「韓米FTAの発効後に医療機関が民営化されれば、胃の内視鏡が4万ウォンから100万ウォンに、心血管造影手術が14万ウォンから430万ウォン、冠状動脈迂回手術が350万ウォンから4140万ウォン、虫垂炎手術が30万ウォンから900万ウォンに跳ね上がる(1ウォンは約0.08円)」と、ツイッターで広まったそうです。なお同紙はこの主張を「怪談」と断じています(注1)。
ハンギョレ新聞は、「韓米FTAが発効すれば、医療サービス、教育サービス、郵便配達サービス、通信サービスなどで、アメリカ企業が参入しやすくなると、アメリカ商務省が報告している」と報道しています(注2)。その上で、韓米FTAによって、経済自由区域内で営利病院を設立する際の障壁がなくなったとしています。
さらに京郷新聞やハンギョレ新聞は、「営利病院に問題が生じても、営利病院の閉鎖は不可能である」、「営利法人の許可が固定化してしまう」との趣旨の報道を行っています(注3)。
「許可が固定化」というところは、説明が必要ですね。現在、韓国では営利法人が医療機関を設立することはできず、特区においてのみ許可されます。FTAの締結以前ならば、特区の根拠法から営利医療を許可する条文を削除(あるいは特区の根拠法を廃止)するなどして、特区も含めて全国すべてで「許可しない」方針に戻すことができました。
「日本もTPPで医療崩壊」の元ネタに
韓米FTAにおいては、医療サービスは未来留保とされており、これにかかる政策はどのように変えてもいいのですが(「ラチェット条項」は適用されないわけです)、特区法に関する事項については留保から外されています。
よって特区において営利医療機関の設立許可を禁止した場合、市場アクセス義務に抵触する可能性が出てきます。これをもって「許可が固定化されてしまう」という反対論が出てくるわけです。特区という限定された地域についてですが、確かに「営利病院の許可が固定化する」可能性は否定できません。
『TPPの正しい議論にかかせない米韓FTAの真実』
これらの主張はそのまま日本に伝わり、「韓国ではFTAで営利病院が認められたので、アメリカ型の営利医療法人による高額な診療費が、韓国の医療サービス費の標準となる」、「自由経済区域で営利病院の設立が認められていることが蟻の一穴となり、韓国全土にこれが広がることとなる」といった話に膨らんでいるようです。
韓国政府の反論を見る前に、韓国で設立が認められている医療機関の形態について説明が必要でしょう。
「医療法」第33条では、医療機関を開設できる主体が列挙されています。具体的には、医師、国・地方自治体、医療法人、非営利法人などです。つまり韓国は日本と同様、営利法人は医療機関を開設できません。
ただし「経済自由区域の指定および運用に関する特別法」第23条では、「経済自由区域の中」で、「外国人が設立した法人」であれば、営利法人でも医療機関を設立することができることを定めています。
【ちょっと詳しく】
もう少し詳しく言うと、営利法人の医療機関を設立するためには、1:経済自由区域に所在する、2:外国人投資比率が50%以上、3:資本金が50億ウォン以上、4:外国の法律により設立・運営される医療機関と運営協約締結など協力体系をそろえていること、5:外国の医師免許を持つ医師を保健福祉部令に定める比率以上確保すること、といった条件を満たさなければなりません。
なお現在のところ、経済自由区域に設立された営利病院はありません(注4)。もし営利病院が設立された場合、「国民健康保険法」第24条が課す義務、すなわち「保険診療を拒否できない」との義務は適用されません。一方で、医療法が定めるすべての義務は課されます。
医療目的の営利法人が作れるようになるのは事実
現在のところ、経済自由区域として、仁川、釜山など6カ所が指定されています(表1)。ただし、仁川広域市や釜山広域市の全体が指定されているわけではなく、仁川であれば170 平方キロメートル、釜山であれば83平方キロメートルといった区域の中に限定されています。
(表1)経済自由区域
名称 位置 面積
仁川 仁川広域市の一部 170平方キロメートル
釜山・鎮海 釜山広域市、鎮海市の一部 83平方キロメートル
光陽湾圏 全羅南道、慶尚南道の一部 86平方キロメートル
黄海 忠清南道、京畿道の一部 16平方キロメートル
大邸・慶北 大邱広域市、慶尚北道の一部 33平方キロメートル
新萬金・群山 群山市、扶安市の一部 50平方キロメートル
(出所)自由経済地域ホームページになどより作成。
さて、前提となる知識が頭に入ったところで、政府の反論を紹介しましょう。
まず「虫垂炎手術が30万ウォンから900万ウォンに跳ね上がる」といった医療費高騰に関する反論です。そもそも国民健康保険は、公的社会保障制度として、韓米FTAが定めた義務履行の対象から除外されています。さらに、公共目的のサービスや保険医療サービスは、未来留保リストに掲載されています(現状維持はもとより、将来的に自由化に逆行する政策変更も可能)。
そして韓国政府は、国民健康保険について、全国民が加入する義務、医療機関は国民健康保険による診療を拒否できない制度を維持する方針であり、引き続き経済自由区域を除く地域において営利病院を認める計画はないとしています(注5)。
よって、韓米FTAの発効後も、経済自由区域に設立された営利病院(現在のところ一つもありませんが)以外は、虫垂炎の手術は定められた金額で行う必要があります(注6)。よって医療費を跳ね上げようとしても、現実的ではなさそうです。
また、開設できるエリアが限られている以上、病院数や通院できる患者数も限られることになり、「営利病院の設立により、韓国全域の医療体系が変わる」という主張も非現実的と言えるでしょう。
「韓米FTAによってアメリカの医療サービスが韓国に参入しやすくなった」との主張はどうでしょう。経済自由区域における規制緩和は、韓米FTAの妥結以前の2003年から推進しています。韓米FTAによって門戸が開かれたわけではありません。そして営利病院は、経済自由区域といった限定された地域内において、外国法人に限って許容されており、全国民を対象とした現行の医療体系にはまったく変更はありません(注7)。
さらに「営利病院に問題が生じても、韓国側が営利病院を閉鎖させることが不可能である」との主張に対する反論です。
もちろん経済自由区域に、特例に基づき設立された外国資本による営利病院を、医療法に定められている許可取消事項に該当しないにもかかわらず、補償せずに韓国政府が閉鎖させた場合は、間接収用に相当する可能性が生じます。
これはまあ当たり前の話で、問題はいわゆる「外交官特権」のような、自国の法律が効かない治外法権を認めるような条項があるのか、ということでしょう。
治外法権のイメージは正しいか?
外国資本の営利病院が、経済自由区域で治外法権的な地位を得ているかといえば、そういうことはありません。外国資本の営利病院も、「医療法」第64条および行政処分を定めた「医療関係行政処分規則」に基づき、許可取消処分を受けることがあり得ます。そして韓米FTAは、アメリカの営利病院がこのような行政処分を受ける点については、変更を加えていません(注8)。
一方で「営利病院制度が固定化してしまう(=営利病院の存在そのものを取り消すことができない)」との主張については、政府の反論は若干歯切れが悪いものになっています。
報道資料では、「経済自由区域における営利病院制度は、経済自由区域にかかる制度全体で議論する必要がある」とされています。そして、営利病院制度を廃止することは、経済自由区域の存続性と直接関係するため、慎重な政策的判断により決める必要があるとしています(注9)。ただし、韓国政府が営利病院設立にかかる特例を維持しない場合、これが韓米FTA違反になるのかについては言及されていません。
営利病院許可に踏み出した足を引っ込めることができるかどうか、については明言しない韓国政府ですが、経済自由区域に営利病院が設立されたとしても、この病院が「医療法」を無視していい、という何らかの取り決めがあるわけではありません。また仮に、経済自由区域における営利病院を許可する現在の方針を変更できないとしても、韓国全域の医療体系が変わるはずもなく、虫垂炎の治療に、日本円で100万円近くかかるようになるといった主張も、非現実的と言えるでしょう。
次に、「薬の価格を決定する際に、政府などから独立した機関が評価することにより、価格が急騰する」といった主張を見てみましょう。
京郷新聞は、「韓米FTAにより、医薬品および治療材料製造者、輸入業者などが健康保険審査評価院の、保険給与有無や価格評価に異議を提起できるようになる。そのために韓国とアメリカの両国の民間利害関係者で構成される“独立的異議申請機構”が置かれる」といった報道をしました(注10)。そして、アメリカの製薬メーカーが、国民健康保険の支払い基準となる薬価が安いと申し立て、独立的異議申請機関が薬価を釣り上げるといったシナリオが描かれています。これが本当であれば、薬価が上昇することで医療費が高くなる可能性が生じます。
これに対して政府は、「韓国では新薬の価格は、健康保険審査評価院の経済性評価、国民健康保険公団と製薬会社などとの価格協議によって決まり、ジェネリック薬は、新薬の価格の一定比率で価格が決定される。この薬価決定制度は、韓米FTAとは関係なく、主張には根拠がない」と断じています(注11)。
「韓国政府よりも強力な異議申請機構」の正体
では、京郷新聞が報じた“独立的異議申請機構”は存在しないのでしょうか? 実はあります。そしてこれは、韓米FTA締結によって作られたものです。詳しい経緯は下の囲みをどうぞ。
【ちょっと詳しく】
韓米FTAの関連条文、第5.3条第5項(e)号には、国民健康保険にかかる薬価を決定する際、直接に影響を受ける者(製薬会社や輸入業者など)の要請による、独立的な検討手続きを利用可能とする旨が定められています。この手続きは韓米FTAの発効以前にはありませんでした。政府は韓米FTAの義務を履行するため、「国民健康保険療養給与の基準に関する規則」(保健福祉部令)を改正し、独立的な検討手続きを導入しました。そして同時に「独立的検討手続き運用規定」を制定しました。
新薬については、国民健康保険の給与対象となるか、対象となった場合の価格がどの水準になるかにつき評価を受けるための申請をしなければなりません。申請者は、製薬会社あるいは輸入業者です。これに対して、健康保険審査評価院は、薬剤給与評価委員会の審議を経て評価を行い、申請人に対して評価結果を書面で通知します。そしてこの後に、韓米FTAが義務づけた独立的な検討手続きが登場します。
通知を受けた申請者は、健康保険審査評価院に対して、「独立的検討」を経た再評価を申請することができます。再評価を申請しない場合は、そのまま保健福祉部の健康保険政策審議委員会における審議に付され、その後、保健福祉部長官の告示を経て、薬の価格が決まります。しかし再審査を申請した場合は、独立的な検討手続きに回ります。そして再検討がなされた結果は、健康保険審査評価院を経て申請者に通報されます。
独立的な検討機関があるから、韓国政府側の以降がすべて無視され、アメリカの製薬会社の言い分がすべて通る、とは言えません。ただし、運用上韓国側の意志が通りにくいような設計になっていれば、国民の健康を守る義務が果たしにくくなる可能性が生まれます。
ここで重要な点は、1:だれが独立的な検討を行うか、2:検討の意味、3:独立的な検討がどのように反映されるかでしょう。
まず1については、「独立的検討手続き運用規定」の第4条に定められています。これによれば、医学、薬学、薬物疫学、保健経済学など、薬剤の効能・効果評価、経済性評価に関連した分野の専門家が検討者とされています。
独立性を担保するために、保健福祉部、国民健康保険公団、健康保険審査評価院、そして薬剤の製造・輸入を行う会社に勤務する者は検討者になれません。そして検討者は、大韓医師協会、大韓薬剤師会、大韓病院協会、韓国保健経済政策学会、韓国消費者団体協議会など、韓国の業界団体、学会あるいは消費者団体が推薦します。
ここからわかることは、アメリカ側も含めて利害関係者が検討する仕組みにはなっていないことです。そしてよっぽど韓国に適任者がいなければ別ですが、韓国人の専門家が検討者となると考えられます。
次に2と3についてです。韓国保健社会研究院の報告書は、「検討」は、健康保険審査評価院の決定をやり直すという意味と、評価院に対して意見を提示するという意味を持つが、韓米FTA交渉から見れば、後者の意味に解釈することが妥当であるとしています(注12)。そして根拠として、FTAの交渉時にアメリカ側は、原決定をやり直す権限を独立的な検討手続きが持つ点を明示すべきとしましたが、韓国側はこれを受け入れず、結果としてアメリカの主張が反映されなかったことを挙げています。
そして「国民健康保険療養給与の基準に関する規則」第13条5第2項では、薬剤給与評価委員会などは、再評価する時に、独立的検討にともなう報告書と申請人の意見に拘束されない」との内容が規定されています。
つまり、健康保険審査評価院は、独立的な検討手続きを通じた再審査はしますが、独立的な検討手続きの権限は意見の提示にとどまります。そして健康保険審査評価院は、最終的にこれを反映する義務を負いません。つまり検討は意見を提出することであり、独立的な検討による意見には拘束力がないということが2と3の答えとなります。
医療サービスや薬の価格暴騰は起こりそうもない
そして「独立的な再検討手続き」を終え、再評価がなされた後は、保健福祉部の健康保険政策審議委員会における審議に付され、その後、保健福祉部長官の告示を経て、薬の価格が決まります。よってアメリカの利害者が薬の価格を釣り上げようにも、その手立てはありません。
以上「営利法人が認められることにより医療費が青天井になる」、「薬の価格を決定する際に、政府などから独立な検討機関が評価することにより、価格が急騰する」といった主張について、政府の反論を見てきました。
前回紹介した主張と反論も勘案し、韓米FTAが、国民健康保険を中心とした韓国の医療体系に与える影響を考えると、金融サービスにかかる義務のために国民健康保険制度が崩壊して、医療費が青天井になることや、営利法人が全国的に拡散して医療費が上がること、薬の価格が暴騰することもなさそうだ、というのが筆者の結論です。
(次回に続く)
(注1)朝鮮日報「盲腸手術費900万ウォン、水価格暴騰?あきれるFTA怪談」(2011年11月4日記事)による。
(注2)ハンギョレ新聞「米医療界“FTAにより営利病院の障害物が除去されること”」(2011年11月14日記事)による。
(注3)京郷新聞「営利病院で問題が生じても制度自体の中止が不可能」(2011年11月2日記事)、ハンギョレ新聞「営利病院閉鎖時、韓米FTA違反」(2011年8月10日記事)による。
(注4)仁川広域市に営利法人の設立計画があったが白紙になった模様である。
(注5)保健福祉部報道資料(2011年11月4日)による。
(注6)ちなみに虫垂炎の手術は、包括酬価制により、どのような治療などを行っても一定の医療費となっている(重症度によっていくつかのカテゴリーはある)。
(注7)外交通商部報道資料(2011年11月15日)による。
(注8)外交通商部報道資料(2011年8月10日)による。
(注9)外交通商部報道資料(2011年11月2日)による。
(注10)京郷新聞「“医薬品許可−特許条項”アメリカも毒素条項として規定」(2011年11月28日記事)による。
(注11)保健福祉部報道資料(2011年11月28日)による。
(注12)キムデジュン他(2012)による。
<参考文献>
(韓国語)
キムデジュン他(2012)『保健医療分野市場開放イッシューと対応方案研究』韓国保健社会研究院。
「米国の圧力で医療は崩壊」する?しない?
TPP議論の前提として知ってほしいこと・医療編1
2013年3月15日(金) 高安 雄一
2月下旬に行われた日米首脳会議の結果を受けて、日本はTPP交渉への参加に大きく踏み出しました。その結果、先行事例である「韓米FTA」に対する興味がこれまでにも増して高まることが予想されます。
私は昨年の3月から10月にかけて、日経ビジネスオンラインで「TPPを議論するための正しい韓米FTA講座」を連載しました(そこまでの連載は『TPPの正しい議論にかかせない米韓FTAの真実』にまとまっています)。
この連載を通して、日本でよく取り上げられる韓米FTAの問題点は、韓国のマスコミによる反・韓米FTAキャンペーンの報道がそのまま輸入されていることを指摘しました。さらに、これらの報道に対して、ほぼ例外なく政府が反論を加えています。
「韓米FTAはこんなに一方的、だからTPPも同様に危険だ」
ところが、政府側の反論は日本には伝わっていません。このため「韓国政府は米国に屈従した(だから日本は絶対TPPに参加してはならない)」ような印象が一人歩きしています。そこで連載では、果たして韓米FTAによって韓国の経済・社会に問題が生じるのかの判断材料として、韓国政府の反論を詳しく紹介してきました。
日本のTPP参加が具体化したことを受けて、またまた韓米FTAの問題点を刺激的に取り上げる動きが始まっています。前回の連載では、政府の反論をすべて網羅して紹介しきれませんでした。また、昨年末から今年にかけて、韓米FTAに関する新しい動きが出ています。そこで昨年の連載の続編として、これらを解説していきたいと思います。
最初のテーマは医療分野です。
この分野も実に様々な面から、「韓米FTAは韓国の経済・社会に悪影響を及ぼす」と主張されています。具体的には、(1)国民健康保険に関して政府の政策自由度がなくなる、(2)営利法人が認められることにより医療費が青天井になる、(3)薬の価格を決定する際に、政府などから独立な検討機関が評価することにより、価格が大きく高まる、が挙げられます。
第1の点、「国民健康保険に関して政府の政策自由度がなくなる」から見ていきます。
韓国の京郷新聞は、「政府によれば、健康保険など法定社会保険は、韓米FTAの適用から除外されているため、現在の体系を維持できるとしている。しかし韓米FTA第13章(金融サービスに関する章)では、社会保険は第13章の適用を受けない点を定めているが、社会保険が民間と競合する領域では適用が排除されないとの例外を規定している」として、この例外規定によって、政府が国民健康保険に関して講ずる政策の自由度が失われると結論づけています(注1)。
つまり韓米FTAでは、但し書きで義務の対象外とした国民健康保険を、更なる但し書きで義務の対象としており、政府の政策裁量権が大きく損なわれるではないか、というわけです。
まずは条項をしっかり読んでみる
政府(保健福祉部)の反論を見る前に、問題となっている条項を読んでみましょう。
韓米FTA第13.1条では、金融サービスにかかわる義務などを定めた第13章の適用範囲を示しています。これによれば、政府が講ずる金融サービスにかかる政策は原則的に適用範囲となります。ここで重要なのは第3項で、FTAの適用から除かれる政策が規定されています。
第3項では、「第13章は、(a)号、(b)号に関して、当事国が導入するあるいは維持する措置に対して適用しない」(注2)と規定されています。そして(a)号には、「法定社会保障制度の一部を構成する活動やサービス」が含まれています。国民健康保険が「法定社会保障制度の一部を構成する活動やサービス」であることには明らかですので、第13条に規定されている金融サービスに関する自由化の義務は、国民健康保険には適用されないこととなります。
しかし同項の最後に、「ただし、当事国が自国の金融機関に対して、(a)号、(b)号に言及されるいずれかの活動およびサービスを、公共機関または金融機関と競争して行うことを許す場合には、第13章が適用される」との但し書きが加えられています。この但し書きによって、国民健康保険にかかる政府の政策に、韓米FTA第13章の義務が課される余地が出てきます。
つまり、国民健康保険に関する政策に、金融サービスに関して定められた義務が課されるか否かは、第13.1条第3項の但し書きで示された例外に該当するかどうか、によって決まります。
京郷新聞の報道は、第3項の最後の但し書きによって、義務が課されるとしていますが、韓国政府は、以下の根拠を挙げて、国民健康保険に関する政策は但し書きには該当せず、義務が課されないと反論しています(注3)。
政府側の反論に沿って説明します。
まず第一に韓国では、国民健康保険法第5条によって、韓国に居住する国民ならば国民健康保険に加入することが義務づけられています。
つまり国民健康保険は、商業的なものではなくて、国民の義務なのですね。ですから、民間保険と競争する状況にはありません。よって、国民健康保険に関する政策は、第3項の最後の但し書きの条件を満たさず、金融サービスに関して定められた義務が課されることはない、ということです。
なお、第13.1条第3項の但し書きは「韓米FTAで新しく設定された条件」ではありません。1995年に締結されたWTO・サービスの貿易に関する一般議定書(GATS)ですでに決められています。韓米FTAで取りざたされる件には、「それは多国間で結ばれた、WTO協定と同じ趣旨の文言ですが…?」、「それはFTAの前から決まっていたことなのですが…?」という事例が本当に多いのです。そして、今後もこの手が続々と出てくると思います。
【ちょっと詳しく】
詳しく言うと「金融サービスに関する附属書」(以下「附属書」とします。)の1(適用範囲および定義)の(b)では、附属書が適用されない政府の権限の行使として提供されるサービスとして、「社会保障または公的年金計画に係る法律上の制度の一部を形成する活動」が含まれる旨、規定されています。しかし(c)では、「加盟国が自国の金融サービス提供者に対して、社会保障または公的年金計画に係る法律上の制度の一部を形成する活動のいずれの活動について、公的機関または金融サービス提供者との競争を行うことを認める場合には、附属書の規定が適用される」としています(注4)。
すなわち、WTO・GATSの付属書1.(c)と同じことが、韓米FTA第13.1条第3項の但し書きに書かれており、韓米FTAの但し書きによって新しい条件が加えられたわけではありません。韓米FTAの金融サービスにかかる義務が課される政策に関する規定は、WTO・GATSの附属書の規定をそのまま持ってきたに過ぎません。
よって韓米FTAは、金融サービスに関して、これまでの政策の自由度に変更を加えていません。国民健康保険に関する政策に、金融サービスに関して定められた義務が課されることはないことが、裏付けられると言えましょう。
さて、連載の本題である「韓米FTA」とは少し離れますが、今後の理解を深めていただくために、韓国の国民健康保険について簡単に解説しておきましょう(注5)。
先に述べたとおり国民健康保険への加入は国内に居住する韓国人の義務であり、日本と同じく「国民皆保険」となっています。
とはいえ、日韓の制度は同一ではありません。韓国の国民健康保険の保険者は、国民健康保険公団のみです。一方、日本では、健康保険組合(1473)、全国健康保険協会、共済組合など(83)、市町村(1723)、後期高齢者医療広域連合(47)(注6)と、多くの保険者が存在し、これが日韓の大きな違いとなっています。
混合診療が前提で、自己負担率が高い韓国
保険者以外の特筆すべき日韓の違いは、韓国では混合診療(健康保険の適用になる医療と、適用にならない医療の併用)が認められていることです。
ちなみに、混合診療の存在は韓米FTAの締結とはまったく関係はありません。「TPPを締結すると韓国のように混合診療を強制的に認めさせられる」という声が上がりそうなので、先に申し上げておきます。
韓国の混合診療は、国民健康保険の創設時から認められています。むしろ、混合診療が特段禁止されていないので、「保険の対象となる医療行為については患者負担率を乗じた金額だけ、対象とならない医療行為については全額患者に請求」されていると考えるべきでしょう。
さらに日韓の違いで特筆すべき点としては「医療費を患者が負担する部分が大きい」ことが挙げられます。
2010年における個人医療費を、公的負担と私的(患者)負担に分けると、前者が57.9%、後者が42.1%です。公的負担は、政府負担と国民健康保険負担(公的保険負担)に分かれ、それぞれ医療費の9.3%、48.6%を占めています。そして私的(患者)負担は、家計直接負担が36.0%、民営保険負担が5.3%に分かれます(注7)。
一方、日本はどうでしょう。
2009年の国民医療費の負担構造を見ると、公費負担が国と地方を合わせて37.5%、公的保険負担が48.6%、患者負担などが13.9%です(注8)。まず最大の違いは、公費負担の程度です。韓国(政府負担)は、10%にも満たない水準ですが、日本はその4倍程度をカバーしています。公的保険負担は、日韓同じ数値です。
具体的には、韓国は医療費の4割以上を患者が負担していますが、日本の患者負担はそれよりはるかに低い水準にとどまっています。
韓国の患者負担の大きさは大きく3つの点に現れています。なかでも最も重要な点は高齢者負担の高さでしょう。日本では制度上、75歳以上は1割の自己負担、70〜74歳は2割の自己負担(現在は1割)ですが、韓国では原則として現役世代と同じ自己負担率とされています(注9)。相対的に医療費がかかる高齢者について、自己負担が軽減されていないことが、全体で見た自己負担率を高めていると考えられます。
受診する医療機関によって自己負担率が変わる
次に医療機関のランクによって自己負担率が異なる点も重要です。韓国の医療機関は、上級総合病院、総合病院、病院、医院といったランクに分けられます。医院は、主に外来患者を対象として医療を行います。病院は、主に入院患者を対象に医療を行い、一定以上の病床が必要です。総合病院は、病床数、診療科目、専門医の配置など基準を満たした医療機関です。そして上級総合病院は、総合病院で重症疾患に対し難易度の高い医療行為を専門的に行います。上級総合病院の指定は保健福祉部長官が行います。
入院は医療機関のランクによらず2割の患者負担です。しかし外来は、医院は3割、病院は市部で4割、郡部で3割5分、総合病院は市部で5割、郡部で4割5分です。そして上級総合病院では、診察料は全額自己負担、その他は6割負担です。つまりランクの高い病院で外来診療を受ける場合、日本より自己負担がさらに高くなります。なお薬局での自己負担は3割です。
そして最後に国民健康保険の対象となる医療行為の範囲が狭いことも、自己負担比率が高い要因でしょう。韓国政府もこの点については問題意識を持っています。そこで2005年に、国民健康保険の保障性強化のためのロードマップを公表し、その後は対象範囲の拡大に努めてきました。
国民健康保険公団は、保障性強化に伴い給与支出がどの程度増加したか報告しています(注10)。これによれば、保障性強化により、2005年から2010年の累計で、11兆6000億ウォン支出が増加しました。また2010年においては、総給与費用である33兆7000億ウォンのうち、10.9%に相当する3兆7000億ウォンが、2005年以降の保障性強化による部分でした。
2005〜2010年累計の支出増のうち、48.6%に相当する5兆8000億ウォンは、保険の対象となる医療行為が広がったことで発生しており、特に癌に関する治療行為が効いています。また、44.6%に相当する5兆2000億ウォンは元々保険の対象であった医療行為について、患者負担率を引き下げることによる支出増です。心臓疾患、脳疾患、癌など特定の病気に対する医療行為について、他の病気より患者負担率を大幅に引き下げたことが原因です。
このように近年、患者負担を軽減する方向で政策が講じられていますが、依然として患者負担がOECD諸国などと比較して大きいことは事実です。そしてこれは公費投入が小さいことに起因することも確かです。
医療分野に限りませんが、韓国と日本の社会制度は、名称などが似ていても実体は大きく違うことがよくあります。あえて本欄のテーマに引きつけて言えば、「日本での制度のイメージをそのまま韓国に置き換えて韓米FTAを見る」と、大きく誤るおそれがあります。
拙著『隣の国の真実 韓国・北朝鮮篇』でも論じましたが、韓国では年金に対する公費補助はほとんどゼロに等しく、健康保険もこのとおり限定的です。韓国では「低負担・低福祉」が原則であり、高い医療費患者負担比率は、低福祉の一環として位置づけることができます。
ちなみに財政赤字を厭わなければ「低負担・中福祉」が可能ですが、韓国において健全財政を保つことは政権の重要課題であり、国民からも支持されています(注11)。よって、手厚い方向に転じる選択はすぐには起きないでしょう。ここも、日韓の現状の大きな違いです。
「予期せぬ失敗」への対応が縛られないことが重要
今後の韓国は、日本以上のスピードで高齢化が進みます。現在のような「低負担・低福祉」を続けていくのか、租税や社会保険料を引き上げ、国民負担を高めることで、「中負担・中福祉」あるいは「高負担・高福祉」に変えていくのかは、今後の国民の選択となっていきます。韓国が「低福祉・低負担」から転換する時には、国民健康保険がカバーする範囲が大きくなり、患者負担率の引き下げや、保障の対象となる医療行為の拡大がなされると考えられます。
このような公的医療保険の拡充は、民営の医療保険にマイナスの影響を与える可能性が大です。しかし国民健康保険にかかる政府の政策には、韓米FTAは適用されないと考えられるため、韓国政府の今後の福祉政策と、その変更の自由度を減殺することはまずないでしょう。
経済・社会構造は時間とともに変わっていきます。それにともなって政府が講ずべき政策も変更を求められます。FTAにせよTPPにせよ、特に国民を保護するための政策に自由度が担保されているかが重要になります。今後も「変化に対応した政策」ができるかどうかを注視しつつ、連載を進めていこうと思います。
(以下次号)
<参考文献>
(日本語)
外務省経済局(2002)『世界貿易機関(WTO)を設立するマラケシュ協定』日本国際問題研究所。
健康保険組合連合会(2012)『図表で見る医療保障 平成24年度版』ぎょうせい。
高安雄一(2012)『隣の国の真実 韓国・北朝鮮篇』日経BP社。
(韓国語文献)
国民健康保険公団(2012)『健康保険保障性強化以後の診療費構造変化』。
保健福祉部・延世大学医療福祉研究所(2011)『2010年国民医療費および国民保険勘定』。
(注)
(1)京郷新聞「公共政策分野“但し書きの但し書き”条項が多く無力化憂慮」(2011年12月6日記事)による。
(2)括弧内の記述は完全な引用ではなく、文意を明確にするため語句の追加などを行っている。
(3)保健福祉部報道資料(2011年12月6日)による。
(4)GATSの「金融サービスに関する附属書」については、外務省経済局(2002)で示されている条文を引用した。
(5)制度の詳細に興味がある場合は、高安(2012)を参照のこと。
(6)数値は2011年6月末時点。数値は健康保険組合連合会(2012)による。
(7)保健福祉部・延世大学医療福祉研究所(2011)による。
(8)健康保険組合連合会(2012)8ページによる。
(9)医院や歯科医院などで、医療費が15000ウォン以下であれば1500ウォンの定額、薬局で費用が10000ウォン未満であった場合は1200ウォンの定額といった例外はある。
(10)国民健康保険公団(2012)。
(11)高安雄一(2012)第3章を参照のこと。
高安 雄一(たかやす・ゆういち)
大東文化大学経済学部社会経済学科准教授。1990年一橋大学商学部卒、同年経済企画庁入庁、調査局、外務省、国民生活局、筑波大学システム情報工学研究科准教授などを経て現職。
著書に『TPPの正しい議論にかかせない米韓FTAの真実』(学文社)、最新刊は『隣りの国の真実 韓国・北朝鮮篇』(日経BP社)
TPPを議論するための正しい韓米FTA講座
日本のTPP(環太平洋経済連携協定)参加がいよいよ現実味を帯びてきた。日本の交渉参加を巡る議論に影響を与え、また、参考になるのが2012年3月15日に発効した「韓米FTA」だ。TPPの正しい理解に必要な論点を、先行事例から学ぼう。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130322/245454/?ST=top
2012年10月2日
「No More 映画泥棒!」FTAで過度に厳罰化?
レッスン6 知的財産権(2)(医薬品を除く)
今回は医薬品を除いた知的財産権に関する問題について検討します。韓米FTAの中に、韓国を一方的に追い込む要素が盛り込まれているのでしょうか。
2012年9月25日
FTAで韓国はジェネリック薬が作れなくなる?
レッスン6 知的財産権(1)医薬品
「TPPを議論するための正しい韓米FTA講座」の第6回は、知的財産権について。韓米FTAで知的所有権を規定した部分は第18章ですが、「このなかにも毒素条項がある」と、メディアやネットで主張している人々...
2012年7月5日
FTAで金融市場が「国際資本の鉄火場」になるのか
レッスン5 金融サービス その2
「FTAによる金融資本市場の自由化で、国際投機資本がこれまで以上に派手に振る舞うようになる」。韓国にも日本にも心配する人は多い。しかし「FTAはなんでもあり」ではない。ちゃんと留保も制約も存在するのだ...
2012年6月28日
郵便局保険も乗っ取られる? 日本で高まるFTA危機論
レッスン5 金融サービス その1
日本のゆうちょより巨大な存在感を持つ韓国の郵政事業本部。韓米FTAはその力を大きく削ぎ、特に保険市場が米国勢に席巻されるとして、韓国よりも日本で反対、疑問視する声が大きい。実際にはどうなのか検証してみ...
2012年6月6日
米国とのFTAでアダルト産業が野放しに?
レッスン4 サービス貿易
韓米FTAを問題視する人の中には、「賭博、アダルト産業、マルチ販売業などのアメリカのサービス産業を、国内に無条件に受け入れなければならないのではないか」「郵政事業が自由化される」との懸念があります。
2012年4月26日
TPPでアメリカに乗っ取られる? 韓国の「公共政策」
レッスン3 「電気料金は急上昇」せず、「医療保険も崩壊」しない
韓米FTAが締結されると、「韓国の公共政策がアメリカに乗っ取られてしまう。アメリカは韓国国民の利益は考慮しないため、韓国国民が受ける公共サ−ビスの質が大きく低下してしまう」といった指摘もあります。本当...
2012年3月15日
韓米FTAの“毒”は韓国の農業を壊滅させるのか
レッスン2 ラチェット条項で食の安全は脅かされない
今日3月15日、韓米FTAが発効した。日本が参加に向けた準備を進めているTPPを正しく議論するために、今シリーズ2回目は食の安全と農業を取り扱う。韓国は食の安全が守れなくなるのか、農業は本当に壊滅して...
2012年3月8日
「TPPで韓国の二の舞になる」は本当か
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国論を二分したTPP論争。反対派は論拠として韓米FTAの不平等さを挙げる。その韓米FTAが3月15日に発効する。つぶさに吟味すると日本に誤解が伝わっているケースも。第1回では本当にISD条項が韓国に不...
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