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石原都知事の勝算 検証・尖閣国有化(1)
編集委員 春原剛
2013/3/25 7:00
尖閣諸島の国有化から半年がたった。なぜあのタイミングで国有化に踏み切ったのか、日米中の交渉の舞台裏で一体何が起こっていたのか――。野田佳彦首相ら民主党政権の要人、東京都による購入計画を表明した石原慎太郎・知事、その関係者らによる証言を基に意思決定のプロセスを検証、「コンフィデンシャル」で4回に渡り連載する。(敬称略、肩書は当時)
「俺は野田を知らないから、お前、紹介しろよ。ちょっと話がしたい」
2012年4月22日、首相官邸に詰める首相補佐官、長島昭久にぶっきらぼうな電話を入れてきたのは東京都知事の石原慎太郎である。この時、首相の野田佳彦は民主党政権下で初の訪米、そしてオバマ大統領との日米首脳会談開催を控えていた。石原は長男である伸晃の秘書を務め、次男・良純の竹馬の友でもある長島に「是非、訪米する前に会いたい」と念を押した。
「東京都は尖閣諸島を買うことにした」――。
長島に電話を入れる数日前の4月16日、石原は米国の首都・ワシントンDCにある有力シンクタンク、ヘリテージ財団が用意した演壇で、そう宣言した。その理由について、石原は「中国は『日本の実効支配を崩す』と言い始めたが、とんでもない話だ。このままでは危ない」と指摘。さらに「日本人が日本の国土を守ることに何か文句がありますか」と従来からの持論を展開し、自らの行動の正当性を訴えた。
「国が買い上げればいいが、買い上げない。東京が尖閣を守る」と大見えを切った石原の心中にはこの時、ある程度の勝算があった。つまり、尖閣諸島の地権者である埼玉県の地主、栗原國起との水面下の交渉で「都知事に売ります」という言質を得ていたのである。石原と栗原の仲介役となった自民党・参議院議員の山東昭子によると、二人は2011年から急接近し、尖閣の売り渡し問題についても膝詰めで語り合う仲になっていた。
実際、石原は講演後の記者会見で「地権者とは基本的に合意し、代理人が交渉している」と自信ありげに説明している。ただ、この時点で、購入金額については「言えない。それほど高くない」と述べるにとどめ、周囲を煙に巻くようなところもあった。
石原からの電話を受けた長島は早速、野田に相談を持ちかけた。「ひょっとして、尖閣の問題だと面倒ですが、恐らく、横田の話ではないかと思います。都知事の側近に確認したので、その点は間違いないと思います」。長島の説明を受け、野田は石原に会うことを了承した。首相官邸での会談は28日にセットされた。
野田と初顔合わせの席上、石原が切り出したのは、長島の予想通り、かねて自らの政治公約としていた米軍横田基地の「軍民共用化」問題だった。席上、石原は小泉政権時代に日米政府間協議の俎上(そじょう)に載せながら、最終的には実現できなかった経緯を説明した。わずか15分の会話の中で、石原は野田の面前で外務省を散々罵った揚げ句、こう要請した。
「是非とも、この横田の問題を日米首脳会談でも取り上げて欲しい」
■揺れる地権者
尖閣諸島の地権者である栗原と石原の仲を水面下で取り持ったのは山東昭子である。
東京都の青年会議所で栗原と知り合った山東は、同じ昭和生まれで構成する「昭平会」という会合を栗原と結成していた。その山東の手引きによって、石原と栗原は2011年秋から急接近していた。
それまで歴代の政権や様々な団体、個人が持ちかけても尖閣売却を拒み続けてきた栗原の態度が変わり始めたのは、2010年9月に尖閣諸島沖合で発生した中国漁船と海上保安庁の巡視船による衝突事故からのことである。この時、すでに高齢の栗原は昭平会で顔を会わす度に「そろそろ、国に売る頃かな」と漏らすようになっていた、と山東は振り返る。
山東の仲介によって、栗原に尖閣諸島の購入を最初に打診したのは沖縄県・石垣市長の中山義隆だった。その中山との会合が不調に終わった頃、栗原は自ら山東にこうも伝えている。
「僕は石原慎太郎が好きなんだ。彼の書いた本は全部読んでいるしね……」
石原は、かつて自民党の若手保守派議員で「青嵐会」を結成していた当時、栗原の実母にかけあい、尖閣諸島を自民党代議士有志に売却するよう、直談判したこともあった。栗原自身、当時、若手代議士ながら、人並み外れたエネルギーを発散する石原のことは鮮明に覚えているようでもあった。
「母はあの頃、『政治家は信用できないから、今は売る時ではない』と言っていた。でも、今も生きていたら、『もしも売るなら、石原さんだ』と言っているんじゃないかな」
そんな栗原の独白を聞いて、山東も即座に反応した。後に自民党の総裁候補となる石原伸晃に電話を入れ、「親父さんに伝えてほしい」と依頼したのである。栗原の言葉を聞いた石原が山東に対して、「それはいいね」と二つ返事で応じたのは2011年初夏の頃だった。
山東のとりなしによる石原と栗原の再会が実現したのは2011年9月1日のことである。埼玉県・大宮にある栗原の自宅に山東は「亡くなったお母様に線香をあげる」という名目で石原を連れていった。先述した経緯もあって、石原は栗原の実母の葬儀にも出席していた。
その後、石原と栗原は山東を交えて、密室の会合を重ねていく。その常連メンバーは石原、栗原の両当事者のほか、仲介役の山東、そして何故か、自民党総裁の座を虎視眈々(たんたん)と狙っていた伸晃も、ほぼ毎回と言っていいぐらい顔を出していた。
2011年の年の瀬、東京・銀座にあるフレンチ・イタリアンの店に石原親子と山東は栗原、そしてその腹心を誘い出し、本題に切り込んだ。そのやりとりの一部始終を現場で目撃した山東によると、石原と栗原の間では次のような腹の探り合いがあった。
石原:「栗原さん、もう売ってよ」
栗原:「機が熟したら、考えます」
山東:「機はもう、熟しているでしょう」
栗原:「石原さんも山東さんも好きだし、大事ですよ……」
最後まで揺れ動く心境を垣間見せた栗原に対して、石原は別れ際、右手を差しだし、握手を求めた。その握手によって、二人の間では「『男と男の約束』を交わした」という暗黙の合意が成立した、と山東は解釈した。
ワシントンでの講演後、尖閣諸島をめぐり、官房長官の藤村修が国有化の可能性にも言及したことを聞いた石原は「国がいつ決断するかわからない。こっちは取引はもうじき終わる」と一貫して強気の姿勢を崩していない。
「(国が購入を)さっさとやればよかった。(島の)持ち主は国が信用できないから石原さんってことだ」
この石原の言葉から読み取れるのは、爆弾発言の数カ月も前から膝詰めで何度も語り合ってきた栗原との信頼関係に石原がかなりの自信を持っていたことである。その一方で、石原は最後のところで「絶対に自分に売ってくれる」という十分な確信を持てないでいた。それは石原がワシントン訪問の直前、飛行機に搭乗する寸前まで地権者の意向を電話で山東を通じて確認しようとしていたことによっても裏付けられる。
■日米首脳会談
石原との会談から2日後の4月30日、野田の姿はホワイトハウスにあった。民主党のリーダーとして、アメリカ合衆国大統領と初の本格会談を実現させた野田はいつになく、高揚していた。会談後の記者会見でも「私のリーダーシップスタイルはバスケットボールのポイントガード。目立つ選手ではないが、ちゃんと結果を残していく」と冗舌に語り、傍らでほほ笑むオバマを持ち上げて見せた。
この直前、大統領執務室での会談が終わる間際に、野田は都知事との打ち合わせ通り、横田基地の軍民共用化問題をめぐり改めて日米で検討するようオバマに直接要望したのである。
「成長を続けて、影響力を拡大させていくにつれ、中国は力強いパートナーとして国際規則と規範を順守しなければならない」
会談の共同記者会見で、オバマはこう述べ、台頭する中国について、国際社会の一員としての相応の責任を負い、役割を果たすべきだと注文を付けた。さらに「米国はアジア太平洋を主導する」と力説し、軍事的な勢力も拡張しつつある中国を念頭に「米軍を再編、分散、より持続可能にする」と言明した。この時のオバマの戦略的スコープにはもちろん、石原による尖閣購入発言が自らの対中政策にも暗い影を落とすことになることなど、一切入っていなかったに違いない。
この時、ホワイトハウスは野田の発した言葉に少なからず動揺していた。オバマとの会談に同席したダニエル・ラッセル大統領補佐官(国家安全保障会議・上級アジア部長)らは事前に行った事務レベルでの打ち合わせになかった「横田軍民共用化」に関する野田のサプライズ発言に驚きを隠そうとはしなかったのである。外務省は石原の懸念通り、この案件を日米首脳会談で取り上げることには難色を示していた。
「何故、今、この時に……」と訝るラッセルに対して、長島が咄嗟の機転で「日米同盟深化の一環という位置付けで収めてほしい」ととりなし、この場は事なきを得ることができた。
明らかに、野田はある程度の「政治的リスク」を負ってまで、石原との口約束をオバマに伝えようとした。この時の心中について、野田は「正直、大統領との会談で時間的な余裕はなかったが、『都知事とはこの先、連携するかもしれない』と考えたからだ」と振り返る。つまり、石原に対して、政治的な「貸し」を作っておくような感覚が野田にはあったのである。
この時の野田の念頭には、尖閣諸島の購入問題を巡って、石原と全面対峙するまでのシナリオがあるわけではなかった。長島はその心境を「いわば、石原さんの気持ちを慮(おもんぱか)ったようなものなのだろう」と解釈した。
一方で、横田基地の軍民共用化については、オバマ政権にも近いシンクタンク、新米国安全保障研究所(CNAS)が最新の報告書の中で日米両国政府に実現を提案していたことなどを受け、「間違いなく同盟深化に資する課題」(長島)という認識も首相官邸にはあった。その観点に立てば、野田の発言は必ずしも石原への「義理立て」というレベルに留まるものではない、と長島は振り返る。
「ところで、君は尖閣の問題をどう思っているんだ」
2012年4月、石原との会談を終えた野田は仲介役となっていた長島にこう問いかけている。
ワシントンで東京都による尖閣諸島の購入という前代未聞のプロジェクトを開陳した石原慎太郎はこの時、「本当は国が買い上げたらいいと思う。国が買い上げると支那が怒るからね。なんか外務省がビクビクして」と述べ、見方によっては民主党・野田政権の足元を見るかのような言動まで取っていた。
■愛知に「代替地」
しかし、野田側近の官房長官、藤村によれば、尖閣諸島に関する国家レベルでの買い取り計画は「小泉政権の後半から」(藤村)、地権者である栗原との間で断続的に続いていた。藤村によれば、野田政権が発足する「1年ぐらい前」には自民党政権時代に政府が等価交換のための「代替地」として愛知県に用意していた不動産物件を栗原自らが見学に訪れるなど、尖閣国有化の動きは、細々とではあるが、確かに続いていた。
そうした水面下での動きを一気に表面化させ、かつ加速させたのが石原によるワシントンでの「爆弾発言」だった、と藤村は指摘する。
「野田内閣発足後、内閣官房で尖閣問題を長く担当していた事務官からすべての経緯を知らされ、『現在、こうなっている』と聞かされていた」
そう振り返る藤村は当時、石原による尖閣購入発言の後、事務官から聞いた「引き継ぎ事項」を野田にも説明している。この時、「どうしますか」と尋ねた藤村に対して、野田はまだ、半信半疑の様子で「困ったね。都が買ったら、どうなるんだろう……」と漏らしている。
そうしたやりとりと前後して、野田・石原の初会合を設定しようとしていた長島は、石原が持ちかけてくる議題について「恐らく、横田問題」とほぼ見抜いていた。一方で「尖閣問題」も長島の頭をよぎらないわけではなかった。実際、野田も同様の不安を胸に覚えていた。
にもかかわらず、石原はこの時、野田との会談で尖閣の「せ」の字も口には出さなかった。そのことに野田はかえって最高権力者まで上り詰めた政治家として、ある種の「引っ掛かり」を感じていたのかもしれない。それが思わず、信頼する長島への「君はどう思うのか」という質問の形で発露されたとしても不思議ではない。
ストレートな野田の問いかけに、実直な長島はすかさず、真っ向からこう返答した。
「それはやはり、東京都に購入させるより、国有化するのが筋というものでしょう」
長島の記憶によれば、この時、野田は間髪入れずにこう応じている。
「そうだよなっ」
(次回は26日に掲載します)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1504X_V10C13A3000000/?dg=1
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