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「ジャパン」という文字を見ると、反射的に身構えてしまう。
たぶん、10年ぐらい前からだ。
英語の文脈の中に「JAPAN」という英単語が含まれているケースでは、違和感は生じない。でも、日本文の中に「ジャパン」という英単語が混入している場合は、どうしても「あえて言った感じ」が残る。
「日本」の英語名称である「JAPAN」は、多くの場合、アルファベットでなく「ジャパン」とカタカナで表記されている。ということは、「ジャパン」は、国際社会に向けて発信している体を装いながら、その実、あくまでも日本語話者に向けて語りかけられているわけだ。
おそらく、「ジャパン」のうさんくささは、「《われわれは海外に向けて情報発信していますよ》ということを国内向けに発信している」という、その錯綜した構造から生まれているものだ。
別の言い方をするなら、「ジャパン」が体現しているのは、「日本」という国の「状況」や「実態」ではなくて、その「自意識」なのである。
「クール・ジャパン」は、さらに怪しい。
個人的には「モボ」「モガ」とか言っていた時代、いや、さらに遡って鹿鳴館根性に立ち戻った感じを受ける。
でなくても、「クール」というのは、誰かがほかの人間を賞賛する時に用いる言葉であって、本人が自称すべき形容ではない。
少なくとも私は、自分自身をクールであると評する人間をクールだとは考えない。同様にして、自国のクールさを推進するための会議を設置している国を文化的だとも思わないし、そういう国が、努力の結果、クールに到達できるとも思わない。
そのクールジャパン推進会議が、このほど、シンボルマークを作成する意向を固めたのだそうだ。
《政府が、日本のアニメやファッションを海外に売り込む「クールジャパン」を推進しようと、さっぱりして、あかぬけた日本人を表す言葉「粋(いき)」を前面に出したシンボルマークを作り、記念コインを製造する準備を始めたことが20日、分かった。政府は平成21年時点で4.5兆円あったアニメやファッションなどの海外ビジネスの規模を拡大し、安倍晋三首相が掲げる成長戦略に結びつけたい考えだ。――略――》(産経新聞 3月21日(木)7時55分配信、リンクはこちら)
言うまでもない話だが、自分たちが「粋」である旨をアピールすることは、「野暮」な態度だ。
「粋」は、アピールしたり、推進したり、前面に押し出したりするものではない。
強いて言うなら、そこはかとなく「にじみ出る」ないしは、「醸し出される」ものだ。あるいは、本人が過ぎ去った後に、残り香としてかすかに漂う余韻のような要素だ。決して、記念コインに刻印して配布して良いものではない。
国の中枢にいる人たちが日本文化を海外に発信したいと思うその気持ちはよくわかる。
この点について、私は反対しない。
でも、だとしたら、どうして国は文化行政をないがしろにしているのだろうか。
私の知る限り、政府は、21世紀にはいってからこっち、文化にかかわる各種の助成金や行政的な支援の枠組みを「仕分け」する方向で動いている。
もし、彼らが日本発の文化を応援し、それを海外に発信することを願っているのなら、これまで通りに、あるいは新しい枠組みで、伝統文化や新進の芸術家を「助成」し「援助」し、「育成」するための枠組みを充実させるべきではないか。
やや古いデータになるが、文化庁長官官房政策課が平成22年の2月に発表した「文化芸術関連データ集」という資料を見てみると、わが国の文化関連予算が、この10年ほど、頭打ちの状態で推移していることがよくわかる。
国際比較の上でも、わが国の文化予算は明らかに低迷している。
資料を見ると、日本の国家予算に占める文化予算の割合は0.12%に過ぎない。フランス(0.86%)の7分の1以下、ドイツ(0.39%)と比べても3分の1以下だ。その他、韓国(0.79%)中国(0.40%)あたりにも大きく水をあけられている。唯一、0.03%のアメリカとの比較では優位に立っているが、アメリカの場合、寄附が日本の0.13%(対GDP比)に対して1.67%と、10倍以上集まっている。
結果から見て、わが国は、文化予算に関しては小国なのだ。
「クールジャパン」関連の予算は、経済産業省につけられている。
人事としては、稲田行政改革相が初の「クール・ジャパン戦略相」を兼務する体制になっている。
このあたりから、「クール・ジャパン」が、文化庁の推進している「文化行政」とは、別のところを目指した政策であることが見て取れる。おそらく「クール・ジャパン」は、一般の「文化行政」に比べて、より産業的かつ戦略的ならびに代理店くさい概念なのであって、だからこそ、彼らは、「ジャパン」という横文字を引っ張り出してきたはずなのだ。
で、例によって「クールジャパン推進会議」なる「会議」を招集するシナリオが採用されている。
また会議だ。
私は、一体に、政府が主催する「会議」というお膳立てを信用しない。
震災復興会議も、教育再生会議も、結局はアリバイ作りに終始したと思っている。
招集された人々が無能だと言っているのではない。
ただ、政府の名において、「専門家」や「有識者」を「招集」して、「意見」を「募る」という形で開催される会議は、これまでの例から見ても、予算をばらまくための前提資料作りに利用されるだけで、結局のところ、ハコモノ行政のコンテンツ版みたいなものに落着するものなのだ。 だから、私は信用しない。
3月4日に首相官邸で開催された初回の会合で、安倍晋三首相は
「日本の潜在力は極めて大きい。具体的な戦略を作り、3年、5年の間に結果を出してほしい」
とあいさつしたのだそうだが、このあいさつの文言を見ただけでも、会議の不毛さがうかがえる。
安倍さんの真意は、おそらく「国威発揚」にある。
国際社会の中で日本の存在感を高めるとともに、日本国民に対してはより明確な国家意識を抱いてほしいと考えている。で、あわよくば、コンテンツビジネスで利益を上げられるようになれば万々歳だ、と。おそらくそんなところだろう。
でも、狙いは狙いとして、文化というのはそういうものではない。「戦略」を練ったからといって、作戦通りに進行するものではないし、まして「3年」や「5年」で「結果」が出る分野でもない。
例えば、日本製のアニメが海外で好評を得ているのは事実だ。
が、わが国のアニメが成功したのは、アタマの良い戦略家が優れた事業計画を立案したからではない。冷徹なビジネスマンが国際的に受容可能なコンテンツ制作のために効率的なコンセプトをぬかりなく煮詰めたからでもない。
わがアニメ業界の作品群が世界を驚かせ得たのは、ひとえに現場の人々の制作態度がとんでもなくひたむきだったからだ。
採算性を度外視した異様に稠密な作画と、国際舞台を想定した普遍性とは一線を画するパラノイアックな主題が、ビジネス世界の常識とは別次元の完成度に結実したからこそ、世界は驚いたわけで、言い換えれば、「立案」とか「会議」とか「戦略」みたいな生半可な言葉を使っている人間が、決して立ち入ることのできない領域に踏み込んだからこそ、彼らは成功したのである。
浮世絵にしても同じだ。
絵師たちは、世界を意識していなかった。
それどころか、当時の日本は鎖国していて、「国際社会」から孤立していた。
画家は、ただ自分たちの美意識と技巧と修練を画面にぶつけたのみだ。
で、その、あまりにも独特で他に類を見ない偏奇な美が、当時の西洋人の心をとらえたのである。
江戸時代に、長崎から招かれた国際通や老中若年寄の肝いりで「ウキヨエ・アート推進会議」みたいなものが招集されて、各界の識者による浮世絵国際化のための戦略会議が江戸城内で開催されていたりしたら、おそらく、あの不可思議なデフォルメと異様な構図は一も二も無く却下されていたはずで、ということはゴーギャンもセザンヌも東洋の小国の絵画に驚かされることはなかったに違いないのだ。
ということは、アニメにしたところで、変に色気を出して、
「海外に売れる作品を作ろう」
だとか
「国際的に通用するコンセプトを打ち出そう」
みたいな話になったら、作品は死ぬはずなのだ。
というよりも、そもそも、文化や芸術の世界に属する「作品」について関わって良いのは、作り手だけなのであって、「プロデューサー」だの「有識者」だの「仕掛け人」だのといった裏方の人間たちが関わって良いのは、額縁に相当する部分と、あとは運搬や宣伝の実務だけなのだ。
結局のところ、わが国の美なり文化なりの価値を高めるためには、作品の制作に当たる人間が目前の仕事に対してベストを尽くす以外に方法は無い。
政府や「会議」の人間たちが関与できる部分は、そうした作品の作り手を応援し、予算を与え、場を整えるところまでだ。
つまり、
「カネは出すが口は出さない」
という良きパトロンでいてくださいということだ。
クールジャパン推進会議は、「クール」であるとか「ジャパン」であるとか「推進」であるとかみたいな言葉を冠している時点で、すでに出過ぎた仕事をしている。
3月21付けの読売新聞は、当日の社説の中で、
『政府の推進会議のメンバーの一人、AKB48のプロデューサーの秋元康氏が「クール・ジャパンを“絵に描いた餅”としないためにも、成功例を作ることが大切だ」と語るのはもっともだ。』(記事のリンクはこちら)と言っている。
私は不安を感じる。
メディアまでもが相乗りして、功を焦る姿は、見苦しいだけでなく、策としても下策だと思う。
会議冒頭の挨拶で、安倍首相が、「戦略」、「結果」という、創作にとって最も有害な言葉を並べていることも問題だが、棚から落ちてくるぼた餅で商売をしようという人たちが、実際に餅を搗く人間よりも高い位置でものを言っていることにも強い違和感を覚える。私の目には、彼らが、元来はホットな日本文化に、冷水を浴びせようとしているようにしか見えない。
これは半ば邪推なのだが、政府が「クール・ジャパン」みたいなことを言い出したのは、韓国の文化政策を見て焦ったからなのだ。私はそう考えている。
たしかに、K-POPの海外進出や韓国映画のこの20年ほどの成長ぶりは、こちらから見ていてまぶしい。
が、その韓国にしても、一朝一夕に現在の結果を得たわけではない。
そこのところをよく考えないといけない。
それに、結果が計算通りに動いているわけでもない。
先日、レアル・マドリードとFCバルセロナのサッカーのゲームを見ていて、驚いたのはハーフタイムの音楽が「江南スタイル」一色だったことだ。
驚いたというよりも、私は大笑いした。
だってマドリードの観客が、あのポンチャックみたいなリズムにノリノリで踊っているんだぜ。
「江南スタイル」は、すでにスペインまで席巻していた。
驚きだ。
ほぼ世界制覇だ。
「江南スタイル」を歌う韓国人ラッパーPSY(サイ)は、昨年の11月にパリのシャイヨ宮広場前で2万人を熱狂させたと思ったら、アメリカン・ミュージック・アワードでは、往年の名ラッパーM.C.ハマーと共演して、観客を狂喜させている。iTunesの米国ミュージックビデオチャートでも韓国勢初の1位。果てはアメリカ海軍やNASAまで悪のりさせてしまう始末だ。
アジア人が成し遂げた空前絶後の大ヒットパフォーマンスだ。
ところが、この「江南スタイル」の大ヒットを、韓国政府は必ずしも喜んでいないのだという。
なにより、PSYご本人の容姿があまりかんばしくない。それに、音楽も踊りもスタイリッシュというよりはコミカルだからだ。
確かに、実際に動画を見てみると、あれは絵に描いた餅というより、踊る餅に近い。面白いのは確かであるにしろ、クールではない。ということはつまり、PSYの江南スタイルは、韓国の人々が印象づけたいと思っている自国像とは正反対の姿を、世界中に振りまいてしまったわけで、これは、なんというのか、コリアンピープルにとっては痛し痒しなのであろう。
「江南スタイル」の売り出しについて、韓国政府はまったく関与していない。
PSYは、偶発的に、誰もが意図しないところで未曾有の大ヒットを生み出したわけだ。
対して、政府が予算と人手をかけて売り出しに奔走していた美男美女のK-POPグループは、アジアではそこそこの結果を出しているものの、欧米ではほとんど問題にされていない。
何が売れるのか分からない以上に、売りたいものが売れるわけではないということだ。
私は、当初、PSYの曲を馬鹿にして眺めていたのだが、色々と動画サイトを見て歩くうちに考えが変わった。
あの奇天烈な音楽は、不可思議な普遍性を備えている。
リズムなのかサウンドなのか低音の語りなのか、どこに秘密があるのかはわからないのだが、とにかく、あの不可思議なダンスミュージックには、世界中のあらゆる人類を熱狂させる成分が含まれている。
結論を述べる。
クールであるために大切なのは、みっともなさを恐れないことだ。
そういう意味で、クール・ジャパン推進会議の委員に、ぜひPSY君を招いて秋元氏の隣に座らせてほしい。
それぐらいの度量を持たないと、本当のクールは実現できないと思う。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130321/245393/?rank_n
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