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2013年03月11日 世相を斬る あいば達也
安倍がオバマの圧力に屈し、TPPに交渉なしでも参加することは、菅・野田民主党政権から脈々と続く既成事実なのだろう。その点では、TPPに関する限り、安倍晋三が答えを出す役回りの内閣総理大臣になったと云うことだろう。TPPの売国的条項の数々は日々情報が小出しにされる度に、売国的条約である事を晒しているのだが、それでも尚且つ参加しなければならない状況は、如何に日本国が、米国の統治に依存した国家であるか証明している。
本来の保守右翼な暴れ者であれば、抜刀なるひと騒動が起きても不思議ではない状況なのである。しかし、日本社会が戦後、あらゆる部分のポイントにおいて、米国依存の政治決断をしてきた経緯があり、社会の隅々にまでアメリカンの臭いが染みつくに充分な年月が繰り返されてきた事実は大きいのだろう。精神文化においては、いまだ日本文化が細々と残ってはいるが、どちらの力が強いのか、考えるまでもないことである。しかし、我々は日本民族であり、移民人工国家の米国が、どれほど強大で、知恵者揃いで鬼に金棒でも、歴史に裏打ちされた民族の誇りを捨て去ることは出来ないのである。
ただ皮肉なことだが、西側陣営に属し(否応ない選択だが)、世界の工場として敗戦から立ち上がり、自由貿易を謳歌したお陰で、一時でも世界第二位の経済大国にのし上がった僥倖は、それまでの、国に帰属する文化から、欧米型企業に帰属する民族を多く育てる結果となった。今では、日本人の国家への帰属意識や、共生など農耕民族が持っていた民族固有の精神構造をズタズタにした。21世紀も、欧米型企業文化が続くと思っている人々が未だ主流を占めている日本では、市場原理主義者の悪魔の囁きが、耳に心地よく聞こえるのだろう。
昨日のコラムではないが、有能で強かなシンク・タンクの存在意義は、覇権国家ゆえに価値があるわけで、弱小国家や無知蒙昧な国民の多い国家が、戦略を描いても、その戦略に呼応するだけの民主的自主行動機能が備わっていなければ、豚に真珠なのだ。その点で、日本と云う国家の意思力は、従属の年月の中に埋没し、論理的ナショナリズムが姿を消し、感情で噴き上がる嫌中、嫌韓と云う中途半端なナショナリズムしか生まれなくなっている。このような状況の中で、小沢一郎の存在は、日本民族が、その民族共通の精神構造を残存させる、唯一の綱のように思えてくる。
その頼みの綱が細り気味で、見通しが明るいとは口が裂けても言えない状況だ。今夏行われる参議院選挙も、多くの見立ては、自民党が勝利し、ネジレが解消するのだろうと云う論調が殆どだ。筆者は、昨年末の総選挙は無党派が棄権と云う行動をとった為に生まれた小選挙区制の珍現象だと見ているので、参議院選でも同じような“バカ勝ち”政党が出てくるとは思っていない。だからといって、自公の政権与党を本質的に脅かす政党が台頭する可能性は低いとみている。自民を喰う政党が自民に親和的な“維新”であり、“みんな”である限り、根っ子は同じ穴の狢で、米国依存の独り立ちしたがらない“稚拙民主主義国家”なのである。
今夜の見出しのように、安倍自民のアベノミクスやTPP交渉参加の進行状態によって生まれてくる軽度の“馬脚”であれば、それは官僚らの手による治療の範囲内であり、票が“維新、みんな”に流れる現象は起こすだろうが、政府の政策を変えさせる原動力にはならない。維新もみんなも所帯が小さいので、理念政党というより属人的情緒内で物事が決定しているので、小沢一郎が望むような、「大事を成すには己を捨てなくちゃいかん」等という感性を持った政治家はいない。自民党と闘うと云うよりも、如何に自民党にとって顔を立てなければならない位置に行こうか考えているだけだ。
小沢の生活の党は、当面小じんまりの小世帯で甘んじた方が良いような気がしている。小さくても、大きな組織からの支援を受けない政治理念政党としてのポジションを確保しておくことが重要な時期だと思う。「中央集権から地方主権」、「欧米型企業文化から共生文化への回帰」、「米国一辺倒依存からの脱却とアジア共同体への道」、「先進国は成熟経済の中で生き方を考える」等々の理念をシッカリ守り切ることに意味があると思っている。
なぜ筆者が、少々弱気な考えに至るかといえば。日本国民が、まだ企業文化の延長線で国家像を考えているからであり、自主独立の気概が存在するとは思えないし、機運すらないと感じているからだ。中央集権を守りたい霞が関と米国型市場原理で強欲に生きたい企業社会が、個々の利益の保持の為、ありとあらゆる処方箋を繰り出し、傷口に絆創膏を貼る時間がもう少し存在するだろうと読みからである。あの原発事故に絆創膏を貼り、原発再稼働に舵を切ろうとする既得権益勢力なのだから、その生き様は餓鬼の如く必死だ。
21世紀は、肥大化した「資本」の最期の悪あがきが当面続くだろうが、企業資本が「国家」を気の好い親達のような扱いで、我儘を言い続けられるほど「国家」の財布は豊かではなくなっている。EUのように、疑似国家を大きくするか、企業資本を小さくさせるか。21世紀は資本主義における、国家と資本の関係が逆転し、資本が完全に国家を凌駕した場合、国家という概念に曖昧さが生まれるのだろう。逆の場合もある、国家が、グローバル企業群は国家と同一視できない存在であり、縁戚関係を断つ決断をする場合もある。国家イコール企業という図式は、グローバル化において成り立たなくなっているのだろう。日本でも米国でも、似たような現象が進行中なのである。この大きな資本主義における企業の意味づけが変質している事実を、冷静に見つめていれば、無駄な抵抗がいつまで続くかという問題だけが残るだけだ。
わが国では、未だに国家と企業資本を同一視した観念政治が行われている。”おらが国の会社だ”の意識下から政治家も国民も抜け出していない。中央集権の護送船団方式も、投網を掛けるような補助金行政も財源的に感極まっているわけだから、そう長くは続かない。アベノミクスも、海外の流れと同調するかたちで、いい回転のように見えるが、市場原理主義の経済理論は既に破綻しているのだから、いつの日か、絆創膏が一遍に剥がれ、そのすべての穴から、血が噴き出すのは自明の情勢なのだ。慌てることはない、国民が明日の食いぶちさえ儘ならなくなる時代は、意外に早くやって来るかもしれない。
突発的な国家的事故や事件が引き金になり、国民が大混乱を起こす可能性は、社会経済防衛において、十二分に起きる素地はある。如何にも、国家の不幸を望んでいるようだが、国家が資本に毒された精神構造になれ果て、梃子でも動かないとなれば、全国民を腹の底から揺さぶるようなショック療法を望んでも文句を言われる筋合いはない。勿論、人為的とか、意図的に、そのような国家存亡の危機を招くのは愚かであるが、ほっておいても、起きるべくして起きる素地を、日本と云う国は充分に備えている。心配ご無用だ。
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